ファイト
神崎教諭が三人に伝えた場所は、瑞江駅近くにある建物の地下室だった。
そこはまだ内装の工事もままならない、コンクリート剥き出しの何もない地下室だった。
外観は普通の建物で一階部分に進学塾があり、その正面玄関から脇の通路を進み、裏側に地下に繋がる階段がある。
そこは駅から一キロと離れていない場所だった。辺りは人通りも少なく暗い。
瑞江駅で三人を待つ神崎は大きなバッグを持っていた。そして四人揃うと、直ぐさま地下のある部屋へ向かった。
地下に入り、電気を点けると中はかなり広いことが分かる。
部屋のど真ん中に蛍光灯が二本だけ明かりを灯すと、部屋の隅の暗い雰囲気がこれからこの中で起こる予想のできない不気味な何か醸し出していた。
「親に言い訳は考えてきたか?」
神崎の言葉に四人は頷いた。
「素手はやっかいだ」
バッグを開けると、神崎はおもむろにボクシンググローブを取り出した。ボクシンググローブが四セットあった。
「新垣! 戸森!」
神崎が新垣と戸森にグローブを渡して着けさせた。伊藤と杉田に残りのグローブを渡すと「次はお前らだ」と笑った。
「このことは絶対に外に漏らすな。あとはどっちかが、降参するまで殴り合えよ」
戸森と新垣は体は向き合ったまま、顔を神崎の方を見るように横に向けて真剣に聞いていた。
新垣はやる気満々といった面持ちだが、事前に話を聞いていたはずの戸森は未だに納得していない様子だった。
神崎は新垣と戸森の拳にはめられたグローブを確かめて、マジックテープの上から手際よくテーピングを巻いた。近くでは伊藤と杉田が神崎の動きを見ていた。
「スゲェ、ホントに映画のファイトクラブみてぇ」
新垣が呟く。新垣はDVDを借りて見ていた。肩を回しながら、体をほぐしている。
「お前見たことある?」
伊藤が杉田に訊ねた。
「ない」
戸森はじっとグローブを見つめていた。
「いいか、『勝った負けた』、『俺の方が強ぇ弱ぇ』、とかじゃねぇぞ。そんなくだらねぇこと考えるな。殴って殴られろ! 殴り合え! そんでスッキリしろ」
神崎の言葉に新垣、伊藤、杉田が頷いた。
新垣と戸森は向かい合っている。
神崎の言われる通りに伊藤と杉田がグローブのマジックテープの上にテーピングを巻くとグローブは両者の腕にしっかり固定された。戸森は十四オンスのグローブが大きくて重いものだと思わなかった。ずっと高鳴り続ける心臓がやかましかった。
戸森の目の前にはボクシングのように構える新垣がいた。
神崎先生に教えてもらったのは相手の攻撃の防ぎ方で、パーリングという防御の仕方だった。
「やれ!」
突然、新垣の右ストレートが飛んできた。戸森は先日と同じように受け止めようとした。しかし、戸森の防御したはずの右手を跳ね退けて、パンチは飛んできた。
戸森は困惑した。
何故? こんな疑問もすぐに別の考えに埋もれた。そこからは恐怖心しか頭になかった。
思考は恐怖で支配され、体の自由さえ奪われた。
戸森の頭部が玉のように後方に弾かれた。
新垣はそのまま距離を詰めて殴り続けた。防戦一方の戸森はガードの構えで上半身を折り畳み身体を丸めた。呼吸さえ上手くできなかった。
殴り合いにさえならなかった。恐怖で縮こまり丸まった戸森の体を、新垣がガードの上から殴り続けた。
「戸森! 痛ぇか?」
神崎の声など聞こえなかった。
恐怖とはそういうものだ。
自然と耳に入る情報も理解できなくなる。目から入る情報も、脳味噌に入って来る情報が入らず、頭を上げようと、手足を動かそうと、脳味噌から身体に送るはずの信号という信号が滞る。戸森は完全にフリーズした。
「いけ!」
「カズ、やっちまえ!」
伊藤も杉田も新垣の味方だった。
「ビビってるだけじゃねぇか!」
一瞬届いた声に戸森は反応した。顔を伏せながら神崎の声に集中する。頭を抱えながら、防御するその腕の上から新垣が殴り続ける。
「戸森! 痛ぇか?!」
神崎の声が戸森の耳に届く。戸森は我に返った。痛くない。
「戸森、距離とれ!」
顔を上げると新垣の体を力一杯押した。二人の間に二メートルほどの距離ができた。
肩で息をする新垣の様子を戸森は冷静に見ている。腕も上がらず、吹き出る汗が鬱陶しいようだった。
「おらー!」
殴りかかる新垣に対して戸森は上半身を起こしたまま腕を前に構えた。
右ストレートを左の前腕で受けた。痛くない。左のボディブローを右肘で受けた。痛くない。ビビってただけだった。
「おら! おらっ! らっ! おらっ!」
戸森は必死で殴る新垣が滑稽に見えた。さきほどまで恐怖を感じていた怒号は子供が喚くようにしか聞こえなくなった。
体重が七十キロ以上ある戸森に対して、新垣は枯れ木のようにガリガリである。
不似合いなグローブを重そうに構える姿は雪洞を持つ幼子のようで、声を上げる姿は駄々っ子のように、戸森はだんだんと新垣が可愛くさえ思えてきた。
無駄が多いパンチ、新垣のハンドスピードは遅過ぎた。
変わって戸森のパンチは速かった。
疲れ切り、腕も上がらず、呼吸するのもままならず、顔を上げるのさえ億劫な新垣には見えなかった。
「おらっ!」
新垣の振りかぶる渾身の右ストレートは空をさ迷った。
戸森の大きな弧を描く左フックがクロスカウンターになり新垣のコメカミを突き刺すと、新垣は一瞬で前のめりに崩れた。
グローブを付けているにも関わらず、石で殴ったような鈍い音が鳴った。その瞬間、新垣は前のめりに崩れ落ちた。
神崎はマズいなと言いながら、二人の間にすぐに体を入れた。
「下がれ」
戸森は言われるがまま下がる。まだ左の拳に感触が残っていた。ゆっくりと呼吸を整える。
神崎がうつ伏せの新垣を仰向けに寝かせる。
「大丈夫か?! 大丈夫か!」
神崎が寝そべる新垣の頭の方にしゃがみ込んだ。肩を叩きながら、耳元で言葉を掛ける。
次第に声を大きくし意識が戻るのを待った。いや、無理矢理にでも戻そうとしていた。
突然、新垣の体が動いた。
「うっ……あ、あぁ……あ……」
か細く虚ろな声を上げる弱々しい新垣の痛々しい姿を戸森は悲痛な表情で見つめた。
「起きろ」
神崎が真っ直ぐに新垣を見つめる。
「新垣!」
伊藤と杉田が新垣の様子に狼狽えている間に神崎が新垣の意識レベルの確認を行っている。
「自分の名前言えるか?」
「新垣……一成」
「今日は何曜日だ?」
新垣の瞳の奥を覗き込むようにじっと見つめている。見当識障害、言語反応、運動反応を確認し、覚醒の度合いを見る中、神崎はポケットから掌サイズのLEDライトを取り出す。
「ん……ん……土曜……日」
「大丈夫だな」
神崎の独り言にも新垣は苦しそうに頷いた。
瞳を覗き込んだのは瞳孔経、対光反射を見るためだが、戸森と伊藤、杉田にはそんなものは分からなかった。
「しばらく横になってろ」
神崎はファイトに対して何の不安もなかった。
それは中学生の打撃の威力などたかがしれているという思いからで、脳にダメージが残るなどあり得ないと踏んでいたからである。
しかし、中学生のタフネスを考えたときに、一抹の不安は確かにあったことも事実であった。
戸森のファイトを見た神崎は考えを改めた。戸森をただの中学生レベルの子供と思えなかった。
新垣がゆっくりとみんなから離れると床に寝そべった。生まれて初めてのファイトが終わると戸森は新垣の側に座り、伊藤と杉田の様子を見守った。
戸森は新垣がこんなにも打たれ弱いとは思わなかった。全く気が付かなかったが、戸森は今更ながら新垣も伊藤も杉田も腕や脚が枯れ木のように細いと思った。
「次は伊藤と杉田」
二人はお互い見合うと、先ほどのファイトのことを忘れていた。
「テーピング巻いてやるから来い」
神崎が二人のグローブの上からテーピングを巻くとファイトの合図を送った。空手経験者なのか、グローブをはめたまま空手のように構える伊藤が杉田と対峙していた。
二人のファイトは良くも悪くも中学生らしい安心して見られるファイトだった。
「と……もり」
「新垣君」
戸森は起き上がる新垣を慌てて止めようとした。
「まだ寝てた方がいいよ」
「マジでダイジョブ」
「ごめん」
「いやー、マジで効いたよ」
「ごめん」
「戸森、マジで燃えた。またやろう!」
新垣の『またやろう』の一言で戸森は救われた。
「うん。またやろう」
「最高だったぜ」
「うん、楽しかった」
神崎先生は勝ち負けなんて関係ないと言ってたけど、勝てて良かった。最高に嬉しい瞬間だった。
これ以上ないほどに戸森の心拍数は上がっていた。戸森が生きてきた中で、これほどまでに興奮したことはない。
今までの戸森は死んでいたに等しいとさえ思った。
決して大袈裟ではなく、今までの虐めがどうでもよくなるくらいに楽しめた。戸森の気分は最高だった。




