秘密の特訓
二日後、週初めの月曜日に神崎が登校する戸森を待っていたかのように教室に入る前に声を掛けた。
「戸森」
「おはようございます」
「放課後、教室に残れ」
言葉短く残すと神崎はその場から離れた。
戸森には前回のファイトのことだと、冨樫のことについての話だと分かった。
放課後、一人で待つ教室に神崎が現れると神崎は戸森に率直に訊ねた。
「この前のファイト、どうだった?」
「……正直、楽しくなかったです。みんなも……つまらなかったと思います。みんなでファイトを楽しめたらいいんですけど」
戸森の言う「みんな」とは冨樫も含めた「みんな」であった。そのことは神崎にも分かっていた。
神崎がファイト前に乗り気ではなかったのは冨樫の実力を知っていたからで、本心では戸森たちの誰ともファイトさせたくなかったのだと戸森は思った。
「あいつは荒らすつもりはねぇけど、結果的に荒らしに来たんだな」
「また来ますよね? 冨樫」
冨樫のことよりも、冨樫を連れてきた一条という男の方が戸森は気になったが口には出さなかった。
「冨樫は次も来る。次に冨樫とやるのはお前だ」
神崎の言葉に戸森は目を見開いた。
「お前はみんなの信頼を得てる。お前もみんなよりも、実力が頭一つ出てんのにみんなお前とファイトをしたがる」
「知ってる仲だからですよ」
「冨樫はお前よりも強い。
フットワークも連打も途切れない体力、躊躇なく殴る残忍さ、相手をまったく寄せ付けない技術、お前が勝てる要素はパンチ力くらいだよ」
神崎に言われなくてもそれは分かっていた。
「先生はファイトの前に勝った負けたは気にするなっていつも言いますよね。
でも、俺は気にします。だから、正直負けたくない」
勝ち負けがどうでもいいなんて考えたことはなかった。
初めてやった新垣とのファイトもそうだ。その次の勝田戦の負けたから、負けないように体を鍛えているのだ。
「お前はそれでいい。勝ち負けに拘れ」
「えっ?」
「但し、とことんまで拘れ。絶対ぇ誰にも負けるな。勝田にも冨樫にも、冨樫より強い奴が来ても負けるな」
神崎の言葉に力強く頷く戸森。
「負けません。もう誰にも負けたくない」
「それでいい」
「お前を勝たせてやる」
神崎に次の日の放課後に予定を入れるなと言われた戸森は素直に頷いた。
翌日の放課後、神崎と戸森が訪れたのは高田馬場のスポーツセンターだった。
柔道場のように畳が一面に敷かれた約百帖ほどの広さのある大道場だった。
第一武道場と呼ばれるその大道場には幾つかのグループがそれぞれのトレーニングに励んでいた。
総合格闘技のようにオープンフィンガーグローブを装着してスパーリングをする五人ほどの団体。
ボクシンググローブを拳にはめて殴り合いやミット打ちをする七人組。
空手着を着る人たちや柔道着を着るグループ。
そして、バトンの練習をする学生と見られる女性たちまでいた。
戸森の格好は上下ジャージだった。
神崎はTシャツにスパッツに短パンという動きやすい格好だった。
二人は向かい合って柔軟をしていた。
「俺の家は代々、清明流柔術っていう武術を受け継いでる」
受け継いでいるという言葉に戸森は驚いた。
「柔術ですか?」
「柔術っていっても、グレイシーみたいなのじゃなくて、中身は古流武術だよ」
「受け継いでるってことは先生もその技を使えるってことですよね」
「勿論」
「冨樫に勝てる技を教えてくれるんですか?」
戸森の漠然とし過ぎる言葉に神崎は頷いた。
「今の格闘技は打・投・極って言われてるけど、もともと古武道は戦闘に関わる体系の総称なんだよ。
だから、殴る、蹴る、投げる、極める、とかの区別じゃなくて、「徒手」って言われてる。それ以外の兵法には剣術とか居合術、薙刀術、弓術、全てが含まれてるんだよ。当然、昔からあるうちの流派にもそれらはある」
「先生は教師の他にも道場かなにかの先生なんですか?」
「……違うけど、今すぐにやれって言われたら師範代かな。俺が最初に教えるのが戸森だよ」
「お願いします」
「うちの流派は特殊でね。弱過ぎたお陰でなくならなかったんだよ」
「どういうことですか?」
「誰にも狙われなかった。勝手にやってろってどの流派からも無視されてたんだよ。昔は掃いて捨てるほど武術の流派かあったからな」
「そうなんですね」
武術の歴史など知らない戸森には驚くような話だが、それよりも気になることがあった。
弱過ぎる武術を学んで強くなれるのだろうか。
「うちはパクることを基本理念としてるから、生き残ることができた。しかも、今もパクり続けてる」
「え?」
思わず戸森が眉根を顰める。
「柔道の技もいっぱいあるし、ボクシングもあるよ。これからもどんどんパクるよ。
そんな流派を教わるのは嫌か?」
「……冨樫に勝てるなら何でもやります!」
戸森の言葉に神崎は頷いた。
柔軟を終えた二人が立ち上がる。
「とりあえず、俺と組手やるか」
神崎の言葉に驚きながら戸森が頷く。
「あ、はい」
神崎はバッグから取り出したのはオープンフィンガーグローブと軍手だった。
軍手をつけてからオープンフィンガーグローブを着けろと言われた戸森が素直に従う。
神崎は十四オンスのボクシンググローブを手にはめた。
ボクシンググローブとオープンフィンガーグローブはどちらが有利なのか。
それは甲乙付け難い。
ボクシンググローブは長い歴史の中でボクシンググローブだからこそできる華麗なテクニックとガードがある。
しかし、戸森は中村との喧嘩で覚えたことがある。
それは指が使えるということが闘いの勝敗を十分に分け得るということだった。
しかし、ボクシンググローブにしかできないディフェンスの幅を広げることを知っている。それができないことにやはり一抹の不安を覚える。
戸森は目の前の神崎を見た。
身長は百七十三センチの戸森よりも、五センチほど大きい。
体つきはTシャツの上からでも引き締まり、無駄な贅肉がないと分かるほどの筋肉質な体型だと分かる。
果たして神崎は強いのか?
戸森が常々思っていたことである。
強いことは分かる。それがどの程度なのかは想像もつかなかった。
中学生と大人、それだけ聞けば勝敗など考えなくても分かる。
だが、戸森は大人顔負けの闘い方をする。体力もタフネスも技術ある。
「かかって来い」
神崎の言葉に戸森は本気で倒すつもりで向かった。
誰にも負けたくない、それは神崎にもである。
中村と喧嘩したときのように小刻みにステップを踏むとフットワークを活かして接近した。
前傾姿勢ではなかった。
神崎は手を上げてガードすることなく、手をだらんと下げたまま自然体でいた。
絶対に当てる、そう思った戸森が最初に放った一撃はローキックだった。
フェイントを入れてからの左のローキックを放っても簡単に避けられた。
左ローキックからの左ジャブ、右ストレートと続けたが、三連続の攻撃を難なく避ける神崎だった。
それだけではない。
神崎が左のパーリングで戸森の右を払うと、そのままの勢いで戸森の右ボディーに左拳を突き刺した。
レバーを打たれると戸森は動けなかった。痛みで顔が歪む。
それとほぼ同時にストマック(胃)を打ち抜かれると、戸森は息を吸うことができなくなった。
思わず、体が丸くなる。
空いた顔面を襲ったのは左フックだった。
一呼吸で三発のパンチを打たれると戸森は畳に膝をついていた。
左のトリプルだった。
冨樫が新垣にしたそれだった。冨樫は四発目の右フックで新垣を倒した。
「見様見真似でやったけど、今のお前があの時の新垣だ」
手を抜いてこれである。
「スピードとテクニックに慣れろ。冨樫の癖までは真似できないが……お前を追い詰めて鍛えることはできる」
特訓という名のイジメが始まった。
初日は組手だけで終わった。
どんな攻撃がこようとも焦らず冷静に対応できるように、闘い続ける体力を養えるように、負けない折れない心を作るように、神崎の追い詰める組手が行われた。狂気の沙汰だった。
この日、第一武道場を利用していた者たちはその激しい組手に恐怖した。
次の日も、またその次の日も組手は続いた。




