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午後一時十七分

作者: ぶーや

 1

 午後一時十七分、約束の時間はすぎている。おれは時間に遅れる奴が嫌いだ。

 少しくらい待たせてもいい。そう考えてる奴が時間に遅れる。

 テーブルの上の灰皿にはすでに吸殻の山ができ、二杯目のコーヒーも冷めきって時価は限りなくゼロに近い。渋谷の公園通り沿いにある喫茶店には、おれの他に数人の客がいる。買い物途中のカップルにサラリーマン、コーヒーを飲みながら本を読んでいる若い女。

 それらを通り越して、さらにガラス越しに外を確認する。


 もう一本タバコを吸う。


 よく晴れた気持ちのいい昼下がりだ。どうでも良くなってきた。

 向かいのビルがなければ、もっと眺めはいいだろう。その向こうのビルもなければさらに。

 太陽は何千年も前と同じように真っ赤に輝き、バクテリアと猫と人間を照らす。太陽がこの世の人間すべてを焼き払ってくれればいいと思う。

 ああ、あの純粋な炎に地球が飲み込まれればどんなにすっきりするだろう。罪も汚れも夢も希望も、一緒くたに燃えて灰も残らない。静かで清浄な灼熱の砂漠だけが広がればいいのに。


 午後一時二十七分。MDMA千錠を持った男はまだ現れない。立ち上がって唾を吐いて電車に乗った。

 MDMA―エクスタシー、バツ、タマ。呼び方はいろいろある。合成麻薬の一種で、作用は幻覚・幻聴・高揚感、そのほかいろいろ。腎臓に悪いってうわさだ。    

 まあ、腎臓に悪かろうが肝臓に悪かろうが脳がやられようが、金になればそれでいい。こっちはべつに健康食品売ってるわけじゃねえ。

 資本主義社会で人生という名のヒマつぶしをするには金が要る。何かが悪いってわけじゃない。楽しく生きるには金が必要なだけだ。


 昼過ぎの山手線はがらがらで、約束をすっぽかされたオレの怒りは少しおさまった。シートの端に座り、向こう側の窓からぼんやり外を眺める。

 タマを持ってくるはずだった徹という男は顔全体がドロンとしていて、全身から生活の疲れが滲みでている奴だった。二十五だという年齢より十歳くらい老けて見えた。

 これまでずっとクラブに来るバカなガキ相手にクスリを売って暮らしていたらしいが、ここ最近の取締り強化で商売がうまくいかなくなったらしい。余っているエクスタシーを引き取ってくれる奴を探していたところ、知り合いを通しておれに辿り着いたってわけだ。

 おれは足元を見た値段で交渉をまとめたが、少し買い叩きすぎたかもしれない。手に入れられなければ元も子もない。


「もうちょっと高く買ってくれないかなあ?オレもきつくってさあ」

と、徹は渋谷のクラブのVIPルームでタバコをひっきりなしに吸いながら何度も言っていた。

 よく、男のタバコを吸う姿がかっこいいと言う女がいるが、あれはタバコがかっこいいんじゃない。かっこいい男がタバコ吸っているだけだ。

 タバコは、その吸い方に人間性がでる。タバコという媒体を通してその人間の心が映る。せっかちに、半分も吸ってないのに揉み消してまた新しいタバコに火を点ける奴、唇の真ん中にくわえる奴、唇の端にくわえる奴、深々と吸い込んでゆっくり煙を吐く奴、肺までいれない奴。灰の落とし方、火の消し方ひとつ見てもどんな人間かわかる。


1994年のB級映画「ザ・チェイス」の、チャーリー・シーンのタバコの吸い方は格好良かった。カー・チェイスを散々やった挙句、これで最後かという場面での一服は美しかった。諦めと希望、あせりと動揺が入り混じった表情に彩を添える一本のタバコ。


 徹の吸い方は醜かった。


 窓には新大久保の猥雑な街並みが流れ、線路脇のアパートの窓から歯を磨くおっさんの姿が見えた。そのランニング姿のおっさんの仕事や出身地を想像しているうちに電車は池袋に到着した。あのおっさんにも、昔は夢や希望があったんだろうか。

 池袋でスウェットの上下と、短パンにパーカーを着た二人連れが乗ってきた。ふたりとも銀色のバカでかい頭をしている。どのぐらいの整髪料を使ったらあんなふうになるんだろう。

 でかい頭を見ていると、そのうちのひとりがこっちに気づいた。

「なんかアイツこっち見てるよ。気持ちワリイ」

 こいつらはすぐに気持ち悪いと言う。

「ん?アイツ?」


 ふたりはこっちを見ながら近づいてくると、前を通り過ぎるときにわざとオレの足を蹴った。

「邪魔だよこの足」

 おれの足に向かってしゃべっている。

「転んでケガしたらどーすんだよな?」

「マナー守れってんだよ」

 オレは怒りというより面倒という感情を抱きながら立ち上がると、スウェットのほうの鼻を思いっきり殴った。話をするだけ無駄だ。日本語を理解するだけの脳ミソを持ち合わせてるようには見えない。

 グチャ

 卵が潰れるような音がした。

「何すんだオマエ!」

 と叫んだもうひとりのでかい頭を左手で掴んで、引き寄せると同時に膝蹴りをいれた。オレは背が低いから、膝はちょうど相手の下腹部にはいった。

「ふしゅ…」

 変な空気が漏れるような声をだして短パンもうずくまった。

鼻が潰れた奴を引き摺り起こして、手すりに頭をガンガン打ちつけてやる。

「ゴメンなさ…」

 こいつらは自分の身に危険が及んだときだけ謝罪をはじめる。おまえの声は聞きたくねえ。

 窓の外には大塚駅南口のロータリーが見えている。

 五十回くらい打ちつけるともう何も言わなくなった。ほかの乗客はすでに誰もいない。乗り込んでくる客もいない。隣の車両に移ったみたいだ。

 ちょうど駒込に停まったので、金玉を潰されてうずくまってる奴の顔を蹴り上げて電車を降りた。タクシーで帰ろう。拳が血でぬるぬるする。初夏の夕暮れに夕日が沈む。駅員も警察もまだこない。急げ。


 多香子はいつものように少し口を開けて、クッションにもたれかかりながらテレビを見ていた。

「どこ行ってきたの?」

 ちょっと。と答えて洗面所にいく。

 ワンルームマンションという名の監獄。玄関を入るとすぐ左手にミニキッチンがあり、右手にユニットバスがある。無理矢理とりつけた感じの仕切り戸を開けると六畳のフローリングがある。

 東京にきてから四年。もう四年もこんな狭いとこに暮らしている。おれはウサギじゃねえぞ。

 昔、シャブを打ち過ぎて監禁されていると思い込み、窓から飛び降りたっけ。部屋は五階だが三階部分のベランダに落ちて足を折っただけで済んだ。折った瞬間だけ痛みで我に返ったのを覚えている。

 鏡を見つめる。映っているのはおれだ。その認識はある。でも、頭の中の自分と、鏡に映るそれは大きく違う気がする。ひどい表情だ。おれはこんな顔だったか?

 拳についた血を洗い流し、ジャケットに付いた返り血を濡らしたタオルで拭く。黒いジャケットだったからよかった。袖口や裾についたバカどもの血は目立たず、タクシーもすんなり乗せてくれた。

 部屋に戻る。多香子は白いTシャツの上に黒いカーディガンを羽織り、黒いミニスカートから白くて長い足をだしている。

「ご飯食べた?」

 多香子は床に直接置いてあるテレビから顔を上げて聞いてきた。

 窓にはユニットバス用の半透明のビニールカーテンがかかり、そこに虹色の間接照明が反射している。冷蔵庫にテレビにステレオ、マットレス。おもな家財はそれぐらいだ。

「まだ食べてないよ。なんか食いに行こうか」

 ありきたりな会話のおかげで少し落ち着いてきた。

「ん~、ビール飲みたい。××は?」

 多香子はビールが好きだ。女子大生のくせに、甘いカクテルとかを飲んでるとこはほとんど見たことがない。

「おれはなんでもいいよ」

 仕事用の携帯に客から注文のメールがきてないかチェックしながら答えた。

「居酒屋いく?」

 と多香子は言った。


 麻のイージーパンツとTシャツに着替え、キャップを被って近くの居酒屋に行く。

浅草の国際通り沿いにある雑居ビルの5階、日本中どこにでもあるチェーン店だ。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「二名」

 座敷でもないのに靴を脱がされる。面倒くせえ。『金を払うまで帰れませんよ』って言われてる気分だ。だいたいオレはチェーン店が嫌いだ。どこに行ってもまったく同じ内装にまったく同じメニュー。

 居酒屋だけじゃない。この国はどの地方都市に行ったって似たような街並みが続いていて、似たようなもんを食わされる。どこに行っても同じ、オレらはどこにも行けない。グルグル回ってるだけだ。

 ビールと手羽先と海草のサラダを頼む。メニューの手触りすら安っぽい。

「最近あんまり食べないね」

「ダイエットしてんだよ」

 笑って返したが、多香子に言われてはじめて自分が食べなくなったことに気づいた。そういえば最近あまり腹が減らない。

 食欲の衰えは気力の衰え。オレは豚キムチとビビンバとカルビ丼を追加した。

 ふたつほど離れた席ではサラリーマンとOLが嬌声をあげている。

「ダイエットしてるんじゃなかったの?」

 多香子は笑う。

「ダイエットはもうやめた」

 おれも笑った。オレは多香子の笑顔が好きだ。

 多香子はとてもゆっくり食べる。フォークで丁寧にサラダを取って口に運ぶ。ピザはチーズを落とさないように先から少しずつかじっている。

「ねぇ、死んだらどうなると思う?」

「死んだら?」

 おれは手羽先をかじりながら聞き返した。

「そう、死んだら」

「土に還る」

「それだけ?」

 そうだよ。とオレは言った。質問の意味がよくわからない。

「じゃあ、幽霊とかはなんなの?」

「気のせい」

 おれは少し考えてから言った。

 本当は幽霊を信じている。

「あたしは幽霊いるとおもうなあ。見たことないけど」

 おれも見たことはないが、その存在は時々感じる。寝ていて上に乗っかられたり、手を引っ張られたりしたこともある。でも、気のせいかもしれない。

オレの友達はムンクの『マドンナ』という絵を腕に彫った晩、ムンクの幽霊が部屋にでてきてジッと見つめられたと言っていた。

「幽霊になったらいろんな人の日常覗いてみたいな~。楽しそうじゃない?」

「あんまりいい趣味じゃねえな」

 おれは笑った。カルビ丼はほとんど残した。

 死んだら無に還る。それが一番だ。死んでからもこの世界と関わっていかなきゃいけないなんてまっぴらだ。


 店をでて多香子と並んで部屋に帰る。浅草の国際通りは夜も賑やかだ。おれが浅草に住みだしたころから工事をしているが、四年経った今日もいまだに工事をしている。

 繁華街といっても、新宿や渋谷などと違いスーツを着たサラリーマンはあまり見ない。ほとんどが近所の人間だ。店が閉まるのも早く、夜十時に店を閉める飲み屋もある。 

 多香子は実家暮らしで、オレの部屋に泊まっていくのは週に一回くらいだ。

「今日泊まっていっていい?」

 と多香子は甘えた声をだした。

「いいよ」

 とおれも笑顔をつくった。

「あたし、××以外の男に興味ない」

 と、多香子はさらに甘えた。


 2

 怪物がダンスを踊っている。でも楽しそうじゃない。なにかの罰のように手足を振り回している。踊っているのかどうかもあやしくなってきた。あれは苦痛のリズムだ。月夜にジャングルに踊る怪物。小さいころおふくろが読んでくれた絵本にそっくりだ。


 起きたら多香子はもういなかった。

 朝食はトースト二枚と牛乳とタバコ二本。牛乳はタバコに一番合う飲み物だ。煙を吸い、吐き出し、牛乳を飲む。部屋にはまだ多香子の匂いが残っている。

 部屋中にゴキブリが発生し、寝ている間に口から侵入ってきて内臓を喰われるんじゃないかという恐怖心から、おれは使った食器はすぐに洗う。

 この世界には目には見えない『毒』が満ちていて、普段は特になんの影響もないが、なにかの拍子に凝縮され降り注ぐんだと思う。

 きっかけは人それぞれで、小説を読んで毒を意識する人もいれば、音楽を聴いてそこに込められた毒に気づいてしまう人もいる。

 一度毒に気づいてしまうと日常は変わる。些細なことに恐怖を感じ、我慢できなくなる。おれの場合は食器の汚れが我慢できなくなってしまった。

 洗い終わってもう一本タバコを吸う。部屋にはレイ・チャールズが流れている。


 十二時を少しまわったころ大学に着いた。学校に来る前に渋谷に寄ると、駅の券売機の前にウンコが落ちていた。大きさからして人糞だ。どうなってるんだあの街は?

 梅雨前の学校は、穏やかで平和な日常にあふれている。木漏れ日が差し、テニス部がサーブの練習をしている。永遠に続きそうな退屈で平凡で幸福な日常だ。

「ひさしぶりじゃん××。最近どうしてた?」

 すれ違う大勢の人間をぼんやり眺めながら文学部棟に向かっていると、同じ学科の奴が声をかけてきた。

 仕立ての良さそうなジーンズとジャケットに洒落た革靴。腕にはロレックス。名前は豊。初めて会ったときは、金持ちのいけすかない奴に見えた。適当にクスリを売りつけて、いいカモにしてやろうとおもっていたが、話してみるとなぜか気が合った。

「まーね。授業でる?」

「でるよ」

 ふたりで芝生の中庭を通り過ぎ、噴水を横目に見ながら教室に向かう。

 途中、トイレに寄る。

 豊は広島の出身で、親父さんは貿易の仕事をしていると言っていた。服や食事には金を惜しまないが、ギャンブルはやらない。

 ふたりでラリッて隅田川沿いを散歩して、キッコーマンやパナソニックのピカピカ光る広告を何時間も眺めながら世の中のシステムについて話したことがある。

 システムは根幹だ。何事もシステムを理解していないと、それを変えることも壊すことも、もちろん利用することもできない。システムを味方につけない奴は奴隷になるしかない。

 金を持っているとか、頭がいいとか、努力したとかそんなことは関係ない。システムを理解しない奴は例外なく奴隷となる。

 ただ、奴隷が不幸かどうかは別問題だ。奴隷でもそれを割り切って幸せな家庭をもつことはできるし、奴隷であることに気づきさえしなければそれはそれで幸福だ。

 

 授業は二十世紀初めのアメリカ文学についてやっていた。文学なんてただの暇つぶしだ。時代背景や作者の生い立ちを学ばなければ楽しめない文学なんてクソだ。

 二百人ほどが入る大教室には、授業を聞きながらメールを打つ奴、ノートを取りながらバイト先の塾のプリントを作る奴、しっかり授業に集中している奴、いろいろいる。オレらはさっきトイレで吸ったジョイントが効いてきてトロンとしている。八月八日は葉っぱの日で九月三日はクサの日だとか考えながら笑いをこらえる。前に座っている奴がノートに字を書く音がリズムになって、おれも足でリズムを刻む。教授の声は密教の読経のように響き渡り、この大教室はなにかの儀式の場となる。豊をみるとにこにこしてご機嫌な様子だ。こいつが落ちてるのはあまり見たことない。ホワイトボードに『禁酒法』と書かれる。酒。


 そのBarは六本木にあり、赤を基調とした照明と天井から垂れ下がったたくさんの鎖が印象的だった。

 おれと豊はカウンターに座った。

 壁にならんだ酒瓶が鈍い光を放っている。美しすぎて眩暈がしそうだ。反射した光は十字に輝き、おれが体を揺らすとつられて揺れる。鼻からぬけてゆく煙をみつめる。煙が鼻腔を通り過ぎていくのがよくわかる。粘膜が敏感になっているんだろう。いつもは気にも留めない空気の循環を感じて、世界中を永遠に旅するであろう気体について考えた。おれの鼻から抜けてカウンターの下やDJブースの横をとおり、この店内をゆっくりと巡ったあと、換気扇によってやっと日の当たる場所に逃げ出せる。自由に上昇できるようになった気体はうれしいだろうか?ビルとビルの谷間を漂い、海を渡り、次に人間の肺に収まるのはエジプトの市場あたりかもしれない。香辛料や衣類、みやげ物のアクセサリーが並ぶ狭い通り。白いムスリム服を着た長身の男は、自慢の髭を撫でてから深呼吸をする。


「タバコもらっていい?」

 豊はおれのKENTを一本ぬきだして火をつけた。

「いいよ」

 おれはエジプトの猥雑な市場から東京六本木に意識を引き戻しながら答えた。

「マジあの社長終わってるわ」

 テキーラを舐めながら豊は言った。バイト先で給料の未払いが続いてるらしい。

「金持ってるくせに給料払うの渋ってんだからよ。守銭奴だわ。あれ」

 おれは相槌を打つのが面倒でぼんやりグラスをみつめている。ビールを飲むと舌の上で転がった。    

 豊は音楽にあわせて体を揺らしているが、その動きは端正な顔に似合わずぎこちない。

「ほんとストレス溜まるわ」

 豊はだれに言うでもなく吐き捨てた。

 おれは多香子のことを考えていた。

 付き合いだして一年半。おれにしてはかなり長いほうだ。はじめの半年はほんとに楽しかった。一緒にいるだけで笑顔になれた。ケンカなんてしたことなかったし、不満もなかった。おれはもともと一途なタイプじゃなかったが、付き合うにつれてほかの女とはほとんど遊ばなくなった。おもしろい場所をみつけるとまず多香子と行こうと考えたし、予定は基本的に多香子に合わせてきた。

 でも長く一緒にいると、どうしても相手に求めるレベルが上がってくる。昔なら笑って聞いてあげられたつまらない話に我慢ができなくなり、電車を乗り間違えて時間に遅れてしまうといったかわいい欠点に怒るようになった。悲しみを飲み込んで成長してきたおれの心は、幸せに触れることで小さくなってしまった。

 同時に、女子校育ちの世間知らずだった多香子は大人っぽくなるにつれて純粋さを失っていった。女としてのずるさを身につけ、嘘もうまくなった。

 豊はいつの間にかフロアにいる二人組みの女に声をかけている。

 おれは天井を見上げる。


 気がつくと授業は終わり、みんなが教室を出ようとしているところだった。おれと豊もよろよろしながら荷物をまとめて立ち上がった。

「なに考えてた?」

 と豊に聞くと、

「いや~ドラえもんがいっぱい重なって連ドラになってさ~。はは」

 こいつは幸せな時間を過ごしたみたいだ。


 豊と別れて帰ろうとしていると電話が鳴った。

「授業終わった?」

 多香子からだ。

「今終わったよ。学校にいるの?」

おれは芝生に寝転んでいる数人の学生を見ながら聞いた。

「うん。ねえ、ごはん食べに行かない?」

 と言うので、いいよ。と言って電話を切った。

 空が青い。学問は最高のエンターテイメントだと誰かが言っていた。おれは自分がなにを求めているのかよくわからない。


 よく行く洋食屋。目白の雑居ビルの地下にあって、オムライスがうまい。うまい飯は生きる喜び。

 木製の落ち着いたドアを開けると、中途半端な時間だからか他に客はいなかった。

 奥の席に座り、おれはオムライスを、多香子はスパゲティを頼んだ。

「昨日バイトでね、清水君がなんかわかんないけどめっちゃキレてんの。で、あたしらにも八つ当たりしてきて超むかつくの」

 おれは清水なんて奴は知らない。今日の多香子は胸元のあいたノースリーブに黒いピタッとしたパンツを穿いている。胸は小さいから、かがんでも谷間というほどのものは見えない。

「へんな衣装みたいなの着た集団がきてね、注文の時とかすごい偉そうなの。『ビールまだ?』なんて二分も経ってないのに言ってきて」

 むかつくむかつくと言いながら多香子は笑っている。THCの残っている頭には、なにを話しているのかさっぱりわからない。

 おれは木製のテーブルを撫でながら、脇におかれた胡椒や塩の入った小瓶を観察する。ガラス製品は美しい。見た目も手触りも、実用度においても。

 運ばれてきたオムライスは、ふわふわの卵のうえにデミグラスソースがかけられていて中のチキンライスもとてもやわらかい。スプーンを差し入れてもなんの抵抗も感じなかった。濡れた膣のようだとおもった。

 多香子はスパゲティを食べながらまだしゃべっている。おれはいつもより鋭敏になっている舌で、オムライスの原材料を考えている。

 グラスの中で氷が溶け出している。溶けた氷は水となり、混ざり合い融合する。目には見えないが、それは事実だ。

 食後の一服。ニコチンとタールが脳を駆け巡って細胞を破壊する音が聞こえる。死を近づけてくれる福音だ。

 多香子の肌は白くて滑らかだ。人形みたいに美しいとおれは思う。

「そんなこと言われたことないよ」

 と多香子は笑う。

 おれは人形が欲しいのかもしれない。


 3

 ここ最近、夜が明けてしまうのが怖い。この優しい暗闇が消えて、すべてが白日のもとにさらされてしまうのが怖い。

 太陽は当然の権利だと言わんばかりに空を昇り、世界を見下ろしながら傍若無人に紫外線を撒き散らす。

 高利貸しに脅され体をかたくする塗装屋のおやじ。まっとうに仕事をしてきただけなのに。

 土地を騙し取られた中小企業の社長。次の日、首を吊って死んだ。

 タバコを持つおれの左手は痙攣をはじめる。

 ひとりで部屋にいるとろくなことを考えない。

 さっきから、廊下にだれかいる気がする。玄関のドアをガチャッと開けて、仕切り戸のすりガラスに影を映している。

 よく見えない。

おれが見ると消えてしまう。気のせいだ。

 気のせいか?

 この世にゴーストがいるとして、その存在理由はなんだ?

 怒りか、憎しみか、悲しみか。

 喜びが大きすぎて成仏できないって話はきいたことねえな。

 テレビでもみよう。くだらねえバラエティは安心を与えてくれる精神安定剤だ。

 クスリは快楽を得るためだけに存在するんじゃない。苦痛を得るためにクスリを使う人間も存在する。筋肉が負荷をかけられ壊されることによってのみ成長するのと同じように、精神も苦痛を乗り越えることによってのみ成長する。

 バッドトリップを受け入れ、耐え抜き、克服することで精神の成長をうながす。克服できなかったら……。たぶん自殺するだろうな。

 キノコを三回分一気に喰う。胃はカラにしといたほうが効く。こんな干からびたゴミみたいなもの数グラムで精神に異常をきたすなんて、人間の体はなんて弱いんだろう。

 三十分後、悪寒と吐き気が込み上げてくる。背中の筋肉を硬直させたくなる。キノコを非合法にしたのは正しい判断だ。

 ひさしぶりにこっちの世界にやってきた。

 物体や事実は同じでも、それの持つ意味はまるで違うパラレルワールド。

 焦点が合わなくなってきた。腋に大量の脂汗。

 やっぱ三回分は多かったか?弱気になるな。不安は恐怖を増長させるだけだ。

 ガチャガチャ。

 ドアノブの音。見に行くと誰もいない。

 玄関にかかっている靴べらがしゃべりだした。

「ヘイ、今日もいい天気だったな。おれも散歩に連れてってくれよ。ギャハハ」

 ヤバイ、いそいで部屋に戻る。CDケースの上でこびとのバンドが歌いだす。よく見たらミスチルだ。優しい歌を歌ってくれ。

 コンセントの穴から次々にこびとが這いでてくる。コイツらどこに行くんだろう。

「こんにちは」

 挨拶してみたが無視された。あれ、ドアの鍵かけたっけ?

 壁に映った自分の手の影が言う。

「オマエ、生きてる意味あんのか?」

 混乱する頭を必死で抑えつけて自分に言い聞かせる。生きている意味を知っている奴なんていねえ。そもそも生きていることに意味なんて無いんだ!

 クソッ、死にたくなるぜ。

 ミスチルだったこびとのバンドはいつの間にかマリリン・マンソンになっていた。

 おれはショット・グラスを握りしめ、そのひんやりとした感触がおれの体温で温まっていくのを感じることで自分が現実世界にいることを確認しようとした。

 おれの記憶は本物だろうか?弟は?親父は?おふくろは?あれは実在する人間だろうか?映画の話だっけ……。

 いや、それにしちゃ話が長すぎるな。たぶん現実だ。

 少年時代、公園で遊んだあの記憶は本物だろうか?テレビで見た幸せな風景をもとにおれの脳が創りだした幻想じゃないのか?

 頭が割れそうだ。

 ああ、多香子がいてくれたら……。あの肌に触れれば現実を確かめられるのに。

 電話してみよう……

 いやだめだ。これは自分ひとりで超えるべき課題だ。誰にも頼らず己のカルマを克服してみせろ!

 毛布に包まり歯を食いしばる。すべては現実だ。すべて受け入れてすべて許せ。そこから新しい明日がはじまる。朝がくればすべて信じられる。

 いつの間にかおれは恐怖していた太陽を待ち焦がれる。

 ふと気づくと左足が右足より長くなっている。うまく歩けない。足を引き摺って窓までたどりつく。フローリングがべたつく。外はまだ暗い。毛布は体に巻きつけたまま。

 窓の外には無数のヘッドライトが流れていき、高層マンションの窓の明かりに点滅するネオン。きれいだ。遠くには都庁が見える。目をつぶるとおれの体と意識は粉々に分解され、時間軸も空間軸も飛び越えて拡散していく。            

 おれはおれであり、水であり、そしてテレビ画面から射出される電子である。言語、表情、セックス、それからコントローラーのボタンを押してキャラクターを動かすことも、すべては情報の伝達のためである。電子は情報を伝達するためにつねに飛び交い、おれになり水になりおまえになる。

 どこからかモーツァルトが聞こえてきた。なんて曲かは知らない。だんだん頭痛が治まってきた。胸の中の化学反応が一瞬で治まり、美しい結晶体となって整然と並んだ気分だ。

 さっきまでの不安は嘘のように消え去り、体中に感謝の気持ちが湧き上がる。

 神よ、おれを支えてくれているすべての人々よ、ありがとう。ああ、これから先、少しでもこの世の役に立って生きていこう。あのヘッドライトは人が生きている証だ。

 おれはひとりじゃない。


 寒い。気づくとおれはマンションの屋上で寝ていた。非常階段から立ち入り禁止の柵を乗り越えてきたらしい。記憶が断片的だ。

 おれの住むマンションの屋上からは浅草寺の境内や、朝日を浴びて鈍く光るアサヒビール本社の金色のオブジェも見える。いつもと変わらない朝。遠くでクラクションが鳴っている。西浅草のホテル街はやっとネオンが消えて眠りについたようだ。右手のほうにはぼんやりと新宿の高層ビル群が見える。おれは昨日の記憶が現実かどうか確かめるように都庁ビルを探した。

 さあ、そろそろ部屋に帰ろう。ヤバイことにほとんど全裸だ。毛布に包まって様子をうかがいながら非常階段を降りる。

 なんとか部屋にたどりついたおれは苦笑した。ドアの下から白い尾をひいてトイレットペーパーが転がりでている。なかが思いやられるぜ。

 玄関では溶けたアイスクリームに出迎えられ、部屋中にCDが散乱している。もちろん、トイレットペーパーは縦横無尽に転がっている。携帯電話は分解されて並べられ、部屋中に散らばる硬貨と紙幣。ふたつに破かれている千円札もある。

 とりあえずマグカップでオレンジジュースを飲んで気分を落ち着かせる。玄関に鍵をかけ、覗き穴から外の様子をうかがう。隣人が不審そうにこっちを見ていることもないし、警察が呼ばれた様子もない。とりあえず一安心だ。

 オレンジジュースの残りを飲み干しながら昨夜のことを思い出す。なにが神サマありがとうだ。バカバカしい。世の中もおれもクソだ。ラリッてるとわかったような気になるから困る。    

 昨日学んだことは、三回分は多すぎるってことだけだ。時計は午前十時四十二分を指している。


 4

 あらかた部屋を片付け終わり、卵焼きとトーストを食べて外を眺める。天気がいい。良すぎる。その希望にあふれた光は焦燥感をもたらし、午後一時という時間はおれを絶望させる。

 やりたいこと、やるべきことのない人間にとってこの光と時間帯は最悪だ。自分が世界で一番不必要な人間に思えてきて、やさしい夜を待ち続けるしかない。

 とりあえず外に出よう。部屋で考え続けると頭が腐る。


 夕方の上野公園では、大道芸人がひとりでいくつもの楽器を演奏するという芸をやっていた。口にハーモニカをくわえ、ギターを弾きながら右足でシンバルを、左足でバスドラムを叩いている。家族連れやカップルが不忍池のまわりを散歩し、カルガモにえさをあげたりしている。

 おれと多香子はアメ横の古着屋と靴屋をまわり、JR上野駅広小路口にあるスターバックスでコーヒーとキャラメルフラペチーノを買って上野公園にやってきた。噴水の前のベンチに座り、ふたりで買ってきたものを飲む。

「あのカップルなに話してると思う?」

 おれは噴水の向こう側にいるカップルを指差して聞いた。

「さあ?全然わかんない」

 多香子は興味なさそうに言う。

「想像力働かせておもしろい答え言えよ」

「じゃあお手本見せてよ」

 多香子は少しむっとした表情で言った。

「あのカップルはあれだな、別れ話だな。ほら、女の手振りが大きいだろ?あれは楽しみにとっておいたでかいコロッケを彼氏が食っちまったから怒ってるんだ」

「となりのカップルは?」

「あいつらは昨日の晩飯の話だよ。でかいコロッケおいしかったねって話してんだよ」

「コロッケばっかじゃん。コロッケ食べたいの?」

「おれ、コロッケ嫌いだよ」

「なにそれ」

 多香子は笑った。おれはなにを話してるんだろう。

「じゃあ、あそこ歩いてるカップルは?」

「どれ?」

「あの帽子被ってる男とミニスカートの女」

「あれはあれだな、おれらがいろんなカップル見て何話してるか予想してるよって話してんだよ。ほらこっち見てる」

「なわけないじゃん」

「いやこっち見てるよ。絶対そうだよ」

 しゃべりながらおれも笑い出した。

 噴水は、間隔をあけて噴き出したり止まったりしている。

 おれは一年半前、この上野公園で多香子に付き合ってくれと言った。それから一度もほかの女と寝ていない。いろんな女と寝ることには、もう意味がないと思った。おれは、自分が誰なのか確かめられる存在が欲しかった。

 国立博物館のほうを見ながらタバコに火をつける。

 煙が円になって空に昇っていった。


「ねぇ、なに考えてるの?」

 タバコはいつの間にか根元まで灰になり、おれはアホみたいに無表情で噴水を見つめていた。

「ん?ああ、なんでおれコロッケ嫌いなのかなって思ってさ」

「まだコロッケ?」

 多香子は笑う。おれはこいつの笑顔が好きだ。

 それから一週間後、百万円近い金をだして日本刀を買った。


 5

 はじめは幻覚だと思った。

 ミニキッチンの流しの上をゴキブリが這いまわっている。

 おれはゴキブリが嫌いだ。あの形、生命力、スピード。触覚の動かし方も嫌いだ。

 ゴキブリを見ていると徹の顔を思い出した。


 徹は、杉並区のアパートで死んでいた。

 ベッドに突っ伏して、まるで祈りを捧げているような姿勢で死んでいたらしい。

 おれと会うはずだった二日前に、ヘロインを打ちすぎてすでにこの世からいなくなっていた。

 徹の死を、おれは東京メトロの飯田橋駅で聞いた。電話を切ったあと、地下鉄のライトが闇を照らしながらホームに滑り込んできた瞬間、確かにおれは雨の音を聞いた。

 徹は天国に行けただろうか?


 それがシャブが創りだした幻覚ではなく、現実の害虫らしいとわかって、おれは雑誌を丸めて立ち上がる。

 クスリのせいかゴキブリが異常に速く感じられる。軽くマッハは超えていそうだ。

 バンッバンッ

 何度か叩くが当たらない。だんだん恐怖心が大きくなる。このままだとゴキブリにビビッて窓から飛び降りかねない。

 フラフラしながらも気力を振り絞ってやっと仕留めた。痙攣するその死骸を眺める。緑色の体液が腹の下から染みだし、黒い内臓がはみだしている。

 なんで緑色なんだ?

 なに喰ってるんだコイツらは?

 怒りが込み上げてくる。こんな生物は地球から消えて無くなってしまえばいい。吐き気がするほどの嫌悪感。理由なんてない。

 地球上にはびこる人種差別の本質を、おれは浅草の小さなキッチンで理解した。


 朝起きると、ワンルームはベッド以外ゴキブリホイホイで埋め尽くされていた。異様な光景に一瞬わけがわからなくなったが、だんだん昨夜のことを思い出してきた。

 あれから、おれはゴキブリが潰れた場所を二時間かけてアルコールで拭いた。

そして、コンビニを四軒まわってゴキブリホイホイを買い占めた。

 おれは殺虫剤が嫌いだ。あの臭いが嫌いだし、ゴキブリがその場で死なずに棚の裏とか目の届かないところで死んでいるかもと思うとゾッとする。

 おれはボーっとしながらベッドの上で起き上がり、その大量のトラップをどう片付けようか悩んだ。これじゃトイレにも行けねえ。


 まだチリひとつ捕まえていない大量のトラップのほとんどを処分し、マグカップで牛乳を飲みながら一息ついた。組み立てられて数時間しかたたないうちに捨てられた大量のゴキブリホイホイは現代日本の象徴だ。

 その無意味さを考えるうち、頭が痛くなってきた。タバコを吸う以外なにもする気がしない。タバコと一緒におれの命も灰になってしまえばいい。

 部屋の隅に置いてある日本刀を手にとって鞘から抜く。軽く振ってみる。よく切れそうだ。自分の首でも落とそうか?

 ワンルームマンションの一室で誰にも発見されずに腐っていく自分の死体を想像してやめた。

 ゴミ箱には真新しいゴキブリホイホイの山。

 おれは日本刀片手に天井を見つめる。

「大掃除でもするか」

 おれは笑った。


 6

 その日、多香子は夜八時過ぎに遊びに来た。

「ねえ、ほかの女と話すときどんな風なの?」

 多香子は焼酎をロックで飲んで、すでにだいぶ酔っている。べつに酒に強いわけではない。

「どういう意味?」

 とおれは面倒臭そうに聞いた。

「私といる時よりテンション高いんでしょう?」

「べつに変わんないよ」

「うそだ~」

 多香子はからかうようにしつこく聞いてくる。

「じゃあ、おまえ今からサオリな。おれはサオリって女と話してるつもりで会話するからよ」

「わかった。サオリね」

「サオリ、趣味は?」

「えっち!」

 多香子ははにかみながら答えた。

「じゃ~、いま一番したいことは?」

「えっち!」

「おまえ、サオリになった意味ねえじゃねえかよ。エッチしたいだけじゃん」

 おれは笑った。 


 べとついた汗が気持ち悪くてシャワーを浴びて部屋に戻ると、多香子はもう寝ていた。

寝ている多香子の顔をみていると、おれのこころの奥で何かが壊れる音がした。

 左手は、日本刀を握り締める右手を必死に押さえつけている。

 世界中の人間に『おまえなんて知らない』と言われても、世界中の人間に『おまえは間違ってる』と言われても、自分を信じきる力。

 それが本当の力だ。

 おれは、多香子と出会ってひとりで生きていく力を失っていた。

 もういちど、鍛えられ、研ぎ澄まされたこころを取り戻したい。

 殺したい衝動をなんとか抑えつけ終わると、おれは汗びっしょりになっていた。

「風呂入った意味ねえじゃねえか」

 独り言をいった。

 

 7

 すでに夕闇が街を覆い、ネオンが瞬きだしている。ほとんど使われることがなくなり、トマソンと化した電話ボックスに入って携帯で多香子に電話をかける。携帯だからべつに電話ボックスに入る必要はないが、繁華街の雑踏の中でひとりになりたかった。

「もしもし?」

「もしも~し。なあに?」

 四コールくらいで多香子はでた。いつもどおりの声だ。

「ん、ちょっと」

「なあに?」

「ちょっと掃除してくるよ。今までありがとう」

「なに?掃除?」

「うん、掃除」

 なんて言えばいいのかよくわからない。

「何の話?」

 多香子は笑っている。

「やるべきことを見つけたんだ」

 おれも笑って答えた。とてもすがすがしい気分だ。こんなに気力が充実しているのは久しぶりだ。

「いまどこにいるの?」

 ここはどこだ?

 人間の皮を被ったゴキブリどものいるところ。

「もう会えないかもしれないけど、好きだったよ。バイバイ」

「え?ちょっと」

 おれは電話を切った。ジェームズ・ブラウンの着うたが鳴り、画面に多香子と表示される。おれは携帯をふたつに折って、歩きながらコンビニのゴミ箱に捨てた。いままでありがとう。そして、さようなら。

 雑居ビルの階段を昇る。バーバリーのブラック・スーツを着て、細身のネクタイを締めている。これでソフト帽を被ればブルース・ブラザーズだ。靴は磨き上げたばかり。集中しすぎて二時間も磨いてしまった。

 分厚そうな鉄板を貼り付けたドアをノックする。おれのこころは静かな川の流れ。

「どちら様で?」

 しばらくして丁寧だが凄みのある低い声が返ってきた。

「あの、鈴木さんにこれ届けてこいって言われたんですが……」

 持ってきた紙袋を監視カメラに近づける。

「高村組の鈴木さんか?」

「そうです」

 鈴木、田中はどこにでもいる。

 ガチャッと音がしてドアが開いた。

「どうぞ」

 短髪にダサいジャージを着た三十過ぎの男が言う。

 部屋にはソファとローテーブルの応接セットと、大きな、なかなか高そうな木製の机、それらを仕切る屏風に、壁側にはスチールのロッカーが四つ並んでいる。なかには他に三人しかいない。どれも知らない顔だ。

 当たり前だ。この組に知り合いなんかいない。恨みも恩もなにもない、まったくの無関係の組だ。たくさんの監視カメラと外に停めてある黒塗りのセルシオを見て階段を上がってきただけだ。

 おれは自然な手つきで紙袋を開ける。短髪の男が覗き込む。でてきた出刃包丁をみて、男は意味がわからないという顔をしている。

 その咽喉に包丁を思い切り突き刺し、右足で胸のあたりを蹴りだすようにして引き抜いた。筋肉が硬直していて、そうしないと刃が抜けない。

 鮮血が顔と手とスーツに降りそそぐ。

 男はなにも言わずに地獄に逝った。

 残りの三人はそれぞれスポーツ新聞から顔をあげたまま、タバコをくわえたまま、右手でキーホルダーを弄んだまま、ソファに座って唖然とこっちを見ている。

 おれは早足で歩み寄ると、キーホルダーを握っている奴のパーマ頭を握って後ろから咽喉を掻き切った。

 飛び散る鮮血はローテーブルを赤く染め、向かいに座っていた男のタバコの火を消し、少し離れたところに座っていた男の新聞にも赤い水玉模様をつくった。

 残ったふたりはようやく我に返り、慌ててそれぞれロッカーと机のほうに動いたが、腰が抜けているのかとても俊敏とは呼べない。

 おれは机の引き出しを開けようとしている男に覆いかぶさり、その背中に出刃を突き立て、後ろに引き倒す。引き出しにはオートマティックの拳銃とマガジンが入っていた。

 男は背中に出刃をはやしたまま床に転がり、代わりにおれが銃を手にする。安全装置を外し遊底を引いて初弾を送り込み、おれの足にしがみついてくるその頭を吹き飛ばす。

 痛え。男の頭を吹き飛ばすついでに自分のつま先も吹き飛ばしてしまったみたいだ。二時間かけて磨いた靴が汚れちまう。

 タバコをくわえていた男はロッカーから日本刀を取り出したところだ。おれには神がついている。まだツキは落ちてない。あっちを先に襲っていたら、今ごろ穴だらけにされていただろう。

 ゆっくりと落ち着いて、奇声を発しながら向かってくる男に狙いをつける。

 三発続けて撃ち込むと、頭がスイカみたいに吹っ飛んで男は倒れた。日本刀を握った男の右手がピクッピクッとまだ痙攣している。

 おれは硝煙の臭いのする銃身を眺めながら、組長が座るんであろう上等な椅子に腰掛け、偉そうに机に足を上げる。

 予想通り左足の薬指のあたりに穴が開き、血が溢れている。

 場違いな静寂の中、男たちの体から染み出る血だけが、ゆっくりと生き物のように広がっていく。

 なんの関係もない見ず知らずのおれに殺された三人の人生。

 命とは本来そういうものだ。どれだけ命の大切さを叫んでも、人間は他の生命を喰らって生きている。ひとつの生命が地球より重いなんてことは絶対にありえない。

 考えると笑いが込み上げてきた。人の悲しみを、憎しみをなくしたいと思っていたのに、おれが生み出したのは新たな悲しみと憎しみかもしれない。こいつらも人を殺したことがあったろうか?

 

 さあ、次にいくか。次のゴキブリを退治しにいこう。汚職警官に売人、幼児虐待者にレイプ犯ってとこか。浮世の鬼をオレ様が退治てくれよう。

 脂ぎった顔に薄笑いを浮かべて万引き少女を犯す警官。

 小学生を拉致して、ガムテープで口を塞ぐ。ロープで手足をベッドに固定し、生きたまま腹を裂いて内臓をひとつひとつ取り出し仕分けする変態野郎。


 多香子は、グロテスクさだけを強調したある小説を読んでおもしろいといった。

 知らないもの、見たことないものを知りたいという欲求。それは人間の本能だ。探究心といってもいい。ただ、その小説には美学も探究心も感じられなかった。ただの悪趣味、奇をてらっただけ。おれは、その小説を書いたやつもその小説をおもしろいと言うやつも偽者だとおもった。

 口で説明できることじゃない。ただ、おれの感覚がそう言っている。そして、おれは自分の感覚を信用する。自分の感覚が現実だ。幻覚も、本物だと感じたなら、それはおれにとってその時点で現実なのだ。


 汚職警官はどこにいるんだろう?まともな警官と汚職警官の見分け方なんておれは知らない。幼児虐待者の知り合いも、レイプ犯の知り合いもいない。この足で探すのも面倒だ。

 簡単なのは売人だ。それなら探す必要もない。ここにいる。

 おれはタバコを一本吸うと、銃をこめかみに当てた。最後のタバコはそれらしい味がするかと思ったが、いつもと特に変わりなかった。

 眼を閉じると、美しい湖が見える。初夏の太陽を浴びて水面はキラキラ輝き、周りの草木は青々としている。小さなボートはゆっくり進み、おれは釣り糸を垂れている。

 生も死も、喜びも悲しみも、当たり前のものとして受け入れられる世界。

 おれがこころから望んで、そして決して逝くことの出来ない世界。

 机に吸殻を押しつけると、ゆっくりと引鉄をひいた。


 午後一時二十七分。MDMA千錠を持った男はまだ現れない。おれは立ち上がって唾を吐いて電車に乗った。もちろん、地獄行きだ。


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