後半
診療所の門をくぐるなり、ゴーン…という鐘の音が街いっぱいに響き渡った。
「何ですか、今の…。」
僕は、吃驚して周囲を見回した。
「気象台だよ。この街の一番高い塔の上にあるんだ。」
先生が空を見上げながら、言った。空模様は先ほどにもまして、悪くなっている。
「嵐が来るときの合図なの。急いで対策をしなくちゃ。」
イチカさんが庭を見渡しながら言った。目線の先には、生き生きと葉をつけている庭の木々や植木鉢の花たち。
「嵐?嵐が来るんですか?」
「ああ、このあたりは今頃になると、大きな台風が来たように天気が荒れるんだ。収まれば、もうすっかり梅雨だよ。嫌だなー…。」
そうぼやく先生に、イチカさんが、私は梅雨も夏も好きだけど?と言う。
「ランタンやアルコールランプ、どこにしまったかしら。それから、お菓子も。」
「お菓子の前に、缶詰だろイチカー…。」
そそくさと家の中へ消えた妻の背中に向かって、先生がそう叫ぶ。しかし、急に吹き始めた強い風によって、かき消されてしまう。
「しっかり抑えてて!放しちゃダメよ。」
イチカさんが、僕にそう叫ぶ。
「ううう…」
僕は彼女の支持どおり、短い手でめいっぱい、庭木の幹を数本束にして押さえつけた。その間にイチカさんが倉庫から出したロープを幹に巻きつけて、力の限り縛る。こういうのは大人の男性の仕事だと思うのだが、いかんせん、近所の人が立て続けに数人、頭痛やめまいを訴えてやってきたために、先生は診療中だ。体調不良はそろって嵐の前の低気圧が原因らしい。
いいわよ、と言われて手を離すと、髪の毛を頭の上で無理やり結んだような形状のものが出来上がる。周囲には、同じようなものが四つ程。これで庭木の強風対策は終了だ。
「家の雨戸は閉めてあるし…陸、あなたの部屋の窓も閉めておくのよ。」
植木鉢を渡り廊下に運び込んでいた僕に、イチカさんが言った。その髪の毛を、いよいよ強くなり始めた風が、巻き散らしている。
「あ、こんなことしている場合じゃない。」
そう言って、仕事中にもかかわらず、診療所のドアを開けた。
「先生、先生、ちょっと」
「あのさイチカ、風が入るからさ、用があるならなるべく職員用のドアから入って。」
そうか…仕事中だからあとにしなさいとは言わないんだ…と、鈴蘭がびっしり植えられた長いプランターを抱えながら、僕は思った。たぶん患者さんも同じことを思っているだろうな。
「外じゃなきゃだめなの。それよりアレ貸して、アレ。」
鈴蘭のプランターを渡り廊下に置いて戻ってくると、先生が懐からシャボン玉の駅と棒を取り出して、イチカさんに渡していた。
「だめ、もう一つ貸して。」
すると先生は再びウチポケットに手を入れ、シャボン玉セットをもう一つ取り出した。躊躇することなくそれをイチカさんに渡すと、自分は黙って診療所のドアを閉める。不思議な光景である。もっと不思議だったのは、二つあるうちの片方を僕に手渡したことだった。
「はい、これ。」
「えっ」
するとイチカさんは風上に立ち、先端を液につけて、思い切り息を吹いた。ひょろひょろと、細かなシャボン玉が風で勢いよく散って行く。
「ふふ、綺麗。」
そう言って、再びシャボン液を棒につける。これって僕もやった方がいいのかな…。そう思って、同じくシャボン玉を拭いてみる。ゆっくり息を吹き込んだら、結構大きいのが出来たけれど、風のためにあっという間に飛ばされて見えなくなる。
「ねえ、たくさん拭いたシャボン玉の中の一つが、壊れないままずっと遠くまで飛ばされて、もし誰かがそれを見つけたら、きっと吃驚するわね。」
「そ、そうでしょうか…。」
「だって奇妙じゃない?こんな日に子供がシャボン玉なんかやらないのにどこから来たんだろうって…。」
そして再び、ぽろぽろとシャボン玉を生み出し始めたが、風に雨粒が混じって来たのを知って、あーあ、と声を出した。
「しょうがないわね。あ、ラジオ出さないと。今夜は気象情報を聞きながら、一緒にコーヒーを飲みましょう。」
「あの…」
シャボンの陽気にパチンと蓋をしながら、イチカさんがなあに? と振り返る。
「もしかして、楽しい…ですか?」
すると、彼女はそっと僕の耳元に顔を寄せて、だって嵐よ…と囁いた。その背後では、治療が終わった近所の大人や子供たちが、口々に礼を言いつつ診療所から帰って行く。
先生またね、いつもありがとう、本当に助かります、夏になったらウチの野菜持ってく
るからね。
『ジジ…続いてジリジリ…します。一帯が停電し…ガガ…車は運行を見合わせ…ジジジジ…ております…。海や川には…交通の』
せっかくラジオをつけているのに電波が乱れがちで、情報はとぎれとぎれにしか聞こえない。その上、飛ばされてきた小枝やゴミが窓にぶつかる時のバチバチという音が、雨風の声に混じってうるさい。
「何か弾きましょうか。夜だけど、この風で近所には聞こえないから、大丈夫。」
そう言って椅子に座ると、ピアノの蓋を開け、鍵盤に手を置いた。
先生が、聞いたことのない曲名をリクエストする。イチカさんの指が滑らかに動きはじめた。しっとりとした、静かな曲。寂しさや暗さはなく、オシャレな感じだ。大人が孤独な夜を楽しんでいるような…。
そう、ここはイチカさんの部屋…ではなくて、僕の部屋。今夜はここに三人で泊まる。夜に患者が来ても、この暴風の中渡り廊下を通って母屋から診療所に来るのは面倒だという先生の提案だった。隣には書斎があるけれど、物が多くて狭いので、ここへ必要なものを持ち込んだのだった。ちなみに、そのピアノはいわゆる持ち運びができるタイプのもので、、小さくて軽い。でも音はちゃんと鳴るし、ボディだって木製。足を折りたたむことのできるスグレモノだ。
先生はベッドの端に座って、イチカさんのピアノを聞きながらコーヒーをすすり、黙って窓の外を見つめている。僕は、押し入れから出してきた毛布にくるまって、ベッドに寄りかかっていた。目の前には、キャンプ用のアルコールランプとその上に置かれた湯沸かし用のポット。お皿に盛られたクッキー、ドライフルーツ、サンドイッチ、ドリップのコーヒー、そしてランタン。先生の部屋から持ってきたデスクライトに、イチカさんお気に入りのランプ。発電所から供給される電源は早いうちに止まってしまったが、町長から買ってきた電球は普通に使うことが出来る。
僕は、会話をすることを憚られるような、そのしっとりした雰囲気をいいことに、昼間起こったことについてじっと考えていた。
あの真琴と呼ばれた女性は、突然僕の前に現れ、そして触れようとした。でも、先生はそれを静止した。何故?
例えば、彼が僕に危害を加えようとしたなら、話も分かる。しかし相手はそんな雰囲気ではなかった。まるで、何年かぶりに甥ッ子にでも会ったみたいな…。でも、僕を知っているのでは、という問いに対して、彼女は『知り合いに似ていただけ』としか言わない。
本当に?本当に似ていただけ?本当に、僕のことを何も知らないのだろうか。
それなら何故、突然現れた先生に『先生これはどういうことですか』『なぜこの少年がここに』と言ったんだろう。それから、先生が言った『僕の記憶が戻り次第、親元に帰す』という、ごく当り前な話も、彼女には飲み込めないようだった。
なんだか、どちらもそれぞれに僕の秘密を握っていて、それゆえに、僕を手放したくないような、そんな雰囲気。そして、僕が感じた二度の既視感。イチカさんとあの街に入った時と、柏木真琴の姿を見た時の、それぞれの、あの一瞬。
『僕は、たんに思い出せないだけで、あの街で、あの女性と関わりながら、暮らしたことがあったのではないか?』
その推理は僕に、ある大きな仮説を抱かせることになった。
彼の兄はいまこん睡状態で…。
まさか。
今の僕の姿は、実はかりそめのもので、本当の僕自身は頭にけがを負ったまま、あの女性の元でいつ覚めるとも知らない、眠りの底にいるのではないか?
気が付くと、イチカさんの演奏するピアノの曲は、すでに別なものへと変わっていた。今度は、女の子が好きそうな可愛らしいメロディ。しかし、それとは反対に、僕の心臓は激しく波打っていた。
だって、そういうことが起きたっておかしくはないではないか。
だってこの街は、肉体を持つ者と、肉体を失って魂だけになった者が対等に存在出来る空間なのだから。仮に肉体が生きていても、その体から抜け出た魂であれば、普通の人間と同じように暮らすことも可能なんじゃ…?
だとしたら、なぜ先生はそのことを黙っているのだろう?だって、そのこん睡状態にあるという人の顔を、知っていると言ったではないか。経過観察に行っているって…。もし僕の仮説が正しかったら、先生は最初から僕の顔を知っていたということだ。それならど
うして、僕の過去を教えてくれないのか?
あ、いや、ちょっと待て…。僕は冷静に缶げてみて、馬鹿らしい…と思った。その仮説には、大きすぎる欠点がある。あの真琴という女性の『兄』なのだから、年齢は二十歳を越えていなければならない。僕はどこからどう見たって十代だ。
そこで、僕はようやくほっとため息をついた。そうだ、馬鹿な仮説だ。僕は、魂なんかじゃない。ちゃんと生きた人間だ。それに…そんなこと…先生が僕に、そんな重大なことを隠しているなんて、そんなこと。
「陸、どうしたの?青い顔して」
気がつくと、僕の横にぺったりと座りこんでいたイチカさんが、同じくコーヒーをすすりながら言った。
「え?あ…」
「イチカ、そっとしておいてあげなよ。きっと嵐が怖いんだよ。そして、年齢的にそれを知られたくないんだよ…。」
いつの間にか、その長い体を折りたたむようにして、先生まで僕の隣に座りこんでいた。そういえば、僕が初めて先生に会った時もこうして、隣に座ってきたんだ。
「やだなあ、違いますよ。」
そう言いながら、カップケーキを一口ちぎって口に運び、既に冷えてしまったコーヒーで、胃へと押し流した。
「じゃあ、何でぼんやりしてるんだろう?あっ、僕わかった。ランプの明かりで、町長さんを思い出したんだろ」
何をのんきなことを言ってるんだろう、この人は…人の気も知らないで。
「え、そうなの?町長さんを?ふんだ、男性は結局、ああいう体が好きなんだから。」
そう言って、イチカさんはプイッと違う方向に顔を向けてしまう。
「違いますってば、もう。」
必死で否定している僕を、今度は先生がからかった。
「でもさ、陸はこの間、僕の部屋にあった写真集、結局自分で見つけ出して中を見てたじゃないか。」
「え、だってあれは猫だったじゃないですか。イチカさんが僕に冗談を…。」
そんな風に一生懸命弁解するのも聞かずに、先生はふわふわだなァとか言いながら、僕の髪の毛を一生懸命かき混ぜていた。
その日の夜、嵐のためか、はたまた昼間港町に行ったためなのか、僕は古い客船で嵐の海を渡る夢を見た。窓の外は、海と空が溶けてまじりあってしまうのではないかと思う程の、濃厚なグレー。向かい合っている席には、柏木真琴が疲れた顔をして眠りこんでいた。僕は、この先どこにたどり着くんだろう…。
すると、突然慌ただしい雰囲気を感じて、僕はうっすらと目を開けた。いつも通りの部屋の床に、毛布にくるまったままの僕。ベッドにはイチカさんが静かな寝息をたてている。先生の姿はない。
ふと廊下から明かりがもれ、ドアの隙間からぬっと先生のシルエットが覗いた。
「けが人が来た。頭を打ったらしくて、額をぱっくり。出血がひどいから、これから縫合する。ランプを集めて持ってきてくれ。」
僕は急いで毛布をはがして立ち上がった。使っていたランタンやデスクライト、懐中電灯をかき集める。そして下へ降りて行く先生の背中を追ってそっと部屋を出ようとすると、後ろから声がした。
「陸…白衣は診療所の箪笥に入っているからね。汚れたものを着ては駄目よ。」
振り返ると、毛布の中からうつらうつらした表情のイチカさんと目があった。僕はお礼を言う代わりに、にっこりと微笑む
。
先生の嘘つき…。
僕は、その手際の良さから、もともとは精神科が専門だから注射や外科処置は意じゃない…とかいう先生の言葉が、完全な謙遜だったことを、ようやく知った。
ホラーかと思うぐらい、額から大量に血を流していたその中年の男性は工事作業員であり、切れた電線の修理をしていたところ、飛んできたものにぶつかって怪我をした。僕はイチカさんに言われた通り、部屋の隅にあった箪笥から白衣を取り出して、大きい方を先生に渡し、小さいほうを僕が着た。先生もまた、薄いTシャツの上にそれをはおり、椅子に座ったままの男性の額を、生理食塩水で洗浄。用意しておいた大きめのガーゼをあてた。腕時計を見ながら、きっちり三分の圧迫止血。
その間僕は、付き添いでやってきた仲間の作業員を部屋の隅まで案内し、椅子に座って貰った。二人とも雨具を着こんでいた様子だったが、嵐の中ではあまり意味がなかったらしく、びしょ濡れだった。僕が患者用のタオルを手渡すと、ほっとしたような顔で体を拭う。怪我をした人の後輩なのだろうか。まだ若い男性作業員だった。
先生はある程度の止血が確認されると、どこからか取り出した小さな袋の口を切り、中から糸付きの縫合針を取り出した。
「よし、縫う。」
細い針の先がぎらり、と光る。
「はい、ほら、じっとして、動かない。陸、ちょっと押さえてて。」
突然の縫合に怖気づいたのか、いやちょっと待って下さいとばかりに、両手でサインを送っている。僕の腕の力ではなかなか押さえるものも抑えにくく、おまけに付き添いの作業員が先輩は臆病なので何とかかんとか…等と言っている。しかし、先生はそんなことは意に介さなかった。男性の動きが止まるタイミングを見て消毒薬を塗り、ぶすっと針を刺すと何のためらいもなくサクサクと縫ってしまった。最後に、呆然としている男性にガーゼを貼り、包帯を巻き、ネットを被せる。
「はい、終わり。」
僕が再び、自分の部屋で目を覚ましたのは、周囲がほんのり明るくなってから。イチカさんの姿はなく、変わりに僕が自分のベッドで眠っている。いつの間に交代したんだっけ?上体を起こしてみると、先生が長い体を丸くして、僕が使っていた毛布にくるまって、ぐっすりと眠っていた。いつもの眼鏡は外されていて、さすがに少し疲れた顔をしている。
例の作業員二人組は、帰り際、以前やって来たあのパスタ売りの若い母親とまったく同じ反応を示した。深夜だというのに当たり前に治療をして貰ったことや、費用を受け取らなかったことに驚愕して、何度も頭を下げていた。その様子は、昼間治療を受けて帰って行った周囲の人たちの声をも、僕に思い出させた。
先生はこの町の人から頼られてるんだな…。
ふと、窓の外が静かになっていることに今更ながら気が付いて、そっとカーテンを開けた。すると、夕べのような風雨はどこへ行ったやら、透き通った空に羊雲が飛んで朝日がさし、非常に美しい光景となっていた。
「あ…。」
庭に人影を見つけて見下ろすと、庭一面に飛ばされてきたゴミやらガラクタやらの中を、イチカさんが歩きまわっている。切りそろえた髪が、まだ強く吹いている風に揺れていた。 「起きた?」
僕の視線に気づいて、イチカさんが手を振る。珍しく、ワイシャツにジーンズ姿。改めて足の細さがうかがえる服装だ。
「庭に来たら。色々落ちていて面白いの。」
僕が言われた通り庭に降りると、確かに、ありとあらゆるものが散乱していた。大抵は壊れたホースの切れ端とか、何かのチラシとか、ビニール袋とか、ただのゴミばかり。でもその中に混じって、どこをどう転がって来たものか、綺麗な香水瓶とか、封を開けていないオイルサーディンの缶詰なんかも混じっていた。イチカさんはその中から、一枚の紙切れを拾い上げる。
「何かの試験問題かしら。」
雨で滲んでほとんど見えなかったけれど、彼女が読み上げた内容からして、生物だろう。
「『カブトガニにもっとも近縁な生物の名前を答えよ』、ですって。」
蟹ってつくんだから、やっぱりエビやカニなどの甲殻類?そう答えると、背後から残念…という声がした。
「答えはクモ。もともと、エビやカニは昆虫に近い生き物だから。」
振り返ると、夕べの服装のまま先生が、いつの間にやら立っていた。
「あ、おはようございます。」
「おはよう。いろいろあるなあ。」
先生が周囲を見回しながら、わくわくしたように言った。そういえば、もともと拾いものが好きなのはこの人の方だった。
「あれ、これって…卵…?」
僕は、二人に合わせてうろうろと捜索するうち、どこかから飛ばされてきたらしい洗濯物のタオルの中に、真っ白い卵が一つ、包まれているのを発見した。
これはアヒルだなと、後ろから覗き込んだ先生が言った。アヒル?そう言われれば、鶏の卵より大きい。
「何でこんなところにアヒルの卵なんか。風で飛ばされたら、普通は割れますよね?」
まあいいか、と僕はその卵をポケットにしまう。
「そのアヒルちゃんは、どうするんだい。」
「焼いて食べます。」
ホットケーキにするのがいいと思う。目玉焼きもいいなァ。でも、アヒルの卵って食べられるのか?
「君ってえげつないなァ。孵化するかもしれないじゃないか。」
「まさか。無精卵かもしれないのに。」
すると、突然イチカさんが、あら…という声を出した。後ろを振り返ると、彼女は拾いあげた何かを、じっと見つめている。
「どうしたんですか?」
その時、彼女は何かを答えたようだったが、再び鳴り響いたあの、ゴーン…という鐘の音によって、かき消されてしまった。僕はその時の彼女の口の動きが、『とても古い切符』…と言う言葉を形作っていたように思ったが、先生は気付いていないように思う。空を見上げながら、よしよし、と頷いていたから。
「よかった、気象台からの連絡だ。嵐が去ったんだよ。さあ、もう中に入ろう。ほらイチカも…」
すると、彼女は手の中にあるものをさっと後ろ手に隠し、いつものように歩きだした。僕は、彼女の見つけたものが何の切符だったのか、それ以上気にはならなかったし、先生も気にしていなかった。
しかしこの時見つけたその切符が、後々になって、一度落ち着いたかのように見えた彼
女の『逃亡癖』の症状を、再び悪化させるきっかけになったのだった…。
数日たって、僕はようやく念願だった図書館へと足を運ぶことが出来た。実は、翌日になって再び消毒にやってきた例の作業員の若いほう…何故かまた二人組でやってきた…に、図書館への行き方を教えて貰った。どうやら、途中まであの町長宅へ行く道と同じらしい。
そしてもう一つ驚いたのは、一度姿を見せたあと、一向に再診する様子を見せなかった例の大食漢の亡者が、ふらりと姿を現したことだった。昼過ぎに、ちょうど僕が出かけようとしていた時のことである。
「いいよ、陸。診療にはまた時間がかかりそうだし、せっかくだから行って来なさい。」
背後で花飾りつきの杏仁豆腐を頬張る、痩せこけた男の相手をしながら、先生は言った。その様子に気を取られながらも、では…と、道順を書いたメモを片手に出発する。嵐が過ぎれば梅雨というのは本当らしく、じとじととした雨が降り始めている。
僕のことが何か、分かりますように。この間頭に浮かんだあの嫌な仮説が、僕の空想であるという証拠が、得られますように。そんなことを願ってると、胸ポケットの膨らみがもぞもぞと動いて、やがて黄色くて平たいくちばしと、ふわふわな羽毛が現れた。大人しくしててくれよ、と誰もいないのを確かめてから話しかける。
「くわっ。」
「しー…。「図書館は静かに使うんだから。それに動物は禁止だし。」
そう、これはあの時拾ったアヒルの卵…の中身。試しにタオルや綿を敷いたた箱の中で温めたら、誰かの言葉通り本当に孵ってしまったのだ。しかも僕が見ている目の前で…。
それ以来、どこにでもついてくる。『刷り込み』というやつだ。ふわふわで可愛いのでイチカさんは大喜び、患者さんにも大人気だ。病院に動物は厳禁…とは言えど、心療内科なので、その辺は寛容だ。アニマルセラピーという言葉もある。それはいいのだが、片時でもそばを離れると大騒ぎするので、出かける時はポケットの中が定位置だった。
やがていくつかの角を曲がり、「あかりや」の前を通って…主人はいなかった…階段を昇ったり降りたりした後、ようやくメモにある通りの「六号図書館」に辿り着いた。二階建ての、ごくごく普通の図書館。入り口のドアにステンドグラスがはめ込んであってオシャレだった。それを開けると、カランという音がして、書籍特有のにおいが体を包んだ。
陸が図書館に足を踏み入れたその頃、歯車は久々に現れたその亡者に、辟易していた。
まず、何日も姿を見せなかった理由を問うてみたが、明確な答えは得られない。考えれば当り前だ…時間に縛られ、それによって日々活動しているのは、生きている人間だけだ。肉体を失えば、時間の観念など必要ない。 「これは違うと思います、先生…」
お子様ランチ(プリンつき)をすっかり食べつくしてから、その亡者は言った。
「これは先生の好きなものでは…。」
よくわかったな、と内心驚いた。こう見えて子供っぽい味は嫌いではない。
じゃあこれは?と、一度被せた銀のドームをもう一度開ける。そこには巨大な魚の丸焼が入っている。これなら食べ終わるまでに大分時間がかかるだろう。その間に、この者の人生ついて、少し聞いてみようと思う。
「あなた本名は?」
すると亡者は、高崎浩司です…と答えた。
「お仕事は何を?レストランのシェフとか?」
いやいやとんでもない、と彼は笑いながら手を振った。なるほど、食べたいという欲求に追われている時には、見せなかった表情である。多少なりとも違う話題を…自分のことを問われると感情が違う方向に働くものだ。
「私はこれでも、会社の社長でした。三光鉄道といいましてね。経営を軌道に乗せて、やっと財をなしたと思ったらあっけなく…。」
その名前なら、普段鉄道に乗ることの少ない歯車でも、知っている。国の中でも、五本指に入る鉄道会社である。
「そうでしたか、それはすごい…。では、ご出身は?」
すると、高崎は北の果てにある地方都市の名前を口にした。
「あの土地は土が痩せて、大根だってまともにとれないような貧しい所でした。何せ、都まで出るための交通手段がほとんどなかったほどで…。電車の一本でも走っていればと、子供の頃はよく思っていたものです。」
魚肉をナイフで大きく切り取りながら、高崎はそう言った。その言葉で思い出したのだが、確かその地方都市は、四十年ほど前から交通網が発達し、そのおかげで著しく発展し始めたのではなかったか?
「なんと…それじゃあ大きな功績じゃありませんか。」
歯車が言うと、そんなことはないんですよ…と今度は目玉をほじくり出しながら言う。
「ただ、ようやく事業が軌道に乗り始めた時はやっぱり嬉しかったですよねぇ…。」
たくさんの人が、自分が敷いたレールを利用する。地方の者は都会へ、都会の者は地方開拓に…。高崎は懐かしそうにそう話した。
「もちろん、それだけじゃありません。ようやく贅沢なものが食える、もう飢えないぞと思えたことも嬉しかった。実は、先ほど言いましたように酷く貧しくて…今思えば何を食べて生きていたものやら。いつか儲けられるようになったら、毎日美味いものを食って過ごすんだって…そんなことばかり考えてました。実際、会社が軌道乗ってからは、あちこちの高級料理を食べ歩いたり、グルメ本を出したり、自宅にシェフを呼んだり。」
もちろん、と歯車はうなずいた。
「あなたは自分のためだけに事業を成功させたわけじゃない。多くの人の助けとなったのですから、贅沢だって許されるでしょう。」
「はは、そう思って頂ければ嬉しいです。」
それで…と、歯車は上体を前のめりにさせながら、相手の目を見た。この行動で患者は随分、自分のことを話すようになる。
「その中で一番美味しいと思った料理は?」
「それが…。」
そこで高崎は、困った顔でぐいっと首をかしげて見せた。
「思い出せないんですよ。」
「こんにちは…。」
その図書館の受付に座っていたのは、栗色の髪を一つに結んだ、つんとした感じの女の子だった。読んでいる小説から目を上げることもなければ、どうぞ…ということもない。
「ここの本、自由に見てもいいんですか。利用者登録とか…。」
「いりません。どうぞ、ご自由に…。ちょっと、それなに?動物は禁止だけど。」
目線の先には、ポケットから顔を出している雛の顔。すみません、と軽く頭を下げる。
「僕から離れなくて…大人しくさせます。」
「だめ、貸して。私が預かってあげる。ほら、はやく」
へ、と僕は間抜けな声を出した。彼女の頬が少し赤くなっている。
僕が言われるままに渡すと、彼女はそそくさと木箱を取り出して、に乾いた布巾を入れ、アヒルを押し込んだ。彼女は興味がないそぶりで再び小説に目を落としたが、目線はちらちらと木箱の方へ注がれる。きっと僕が本に集中し始めたら、そっと頭をなでるだろう。雛は雛で、最初のうちは騒いでいたが、僕の姿が目に入っているので、すぐに落ち着いた。
「さて、新聞新聞…。」
気になることは早く済ませてしまおうと、僕は周囲をぐるっと見回した。しかし、書籍ばかりで、それらしきものは見当たらない。
「あの、すみません…。」
目だけでこちらを見た司書は、まだ何か?と返事をした。
「ええと、新聞てありませんか。昨日今日のじゃなくて、一ヶ月とか、一年分とか」
すると、司書は黙ったまま、顎をひょいと上にしゃくった。僕が思わず顔を上げると、背の高い本棚の一番上の段に、大きめのファイルが何十冊も詰め込まれている。見るからに取りにくそうだ。ああいう大きなものって、普通下の段に置かないか?司書の女の子に一応礼を言うと、そのファイルに向かって手を伸ばした。しかし哀しいかな、届かない…。
「脚立に登ったらいいでしょ。」
司書の子がぶすっと声を出した。彼女の目線の先には、立てかけられた真鍮製の脚立が置かれている。態度は悪いが、ああ見えて根は親切なのかもしれない。僕は、えっちらおっちらとそれを運んできて上まで昇ると、とりあえずはここ一年の生地がスクラップされたものを選び取った。
一番うまい料理が思い出せない…と語る高崎に、歯車は別の角度で聞き直した。 魚の片面はすっかり無くなったので、今度はひっくり返して裏面を食べ始めている。
「じゃあ、一番でなくとも、心に残っている料理は?どんなことでも構いませんから、話してみて下さい。」
「うーん、評判の名店に行った時…出て来た料理が焦げ臭くて敵わないことがありました。あれは失敗したのか、そういう趣向だったのか…。それから、わざわざ高原にチーズを食べに行ったこともあるし…あれもちょっと匂いがきつかったな。」
「ウーン…それでは、誰と一緒に行ったとか、そういう話でもいいですよ。」
ああ、それならと…高崎は遠い眼で話し始める。
「友人たちと肉料理を食べに行きましたが、脂っこくて…その時ちょうど、医者からこういう食生活は良くないと言われた頃で…」
寂しいなァ、もうあいつらとは会えないのかと、彼は魚を口にする手を止めて言った。
「あなたは、あちこち食べに行っている割には、不味かった料理の話が多いですね…。」
歯車がそう話すと、高崎はハッとした表情でこちらを見た。
「え…ああ…そう…言われれば…。」
戸惑ったように、相手の目が泳ぎ始めた。ようやく患者自身が、自分自身に対して、本気で『なぜ?』と問いかけ始めている。
「ねえ高崎さん。あなたにとってご馳走って何でしょうね。」
「無いなァ…僕みたいなのが行方不明になった記事…。」
僕が発見された春の日から一カ月分ほど遡ってみたが、自分に関する記事は愚か、捜索依頼の記事すらが見つからない。いや、そもそも事件の関係者なら、最初の日に会ったあの婦警さんが、僕のことを知ってくれていてもいいはずなのだ。
「だめかなあ、これじゃあ。」
新聞はまだまだあるが、これ以上遡ることに意味はあるだろうか?僕はとてもがっかりして、ページをめくる手が止まる。
「どうしようか…もう帰ろうかな…。」
すると、そのページの下の方に、数人分の死亡広告蘭が出ているのが見えた。
「あれ…ここに写ってるのって…。
『北方A村出身、大手鉄道会社(株)三光鉄道の高崎浩司取締役、肝硬変により死去。』
丸い切り取りの中に写る顔は、間違いなく、いま自分のいる診療所にカウンセリングに来ている、あの患者に間違いなかった。
『美食家として知られ、エッセイ『美食生活』等を出版。写真は事業を成功させた四十二歳当時のものであり、享年は』…。
「…八十六歳…?」
まさか…そんな。今診療所にいるのは、間違いなく写真に写っている働き盛りの四十代だ。絶対に八十六歳なんて年齢じゃない。亡者や魂は死んだ時のままの姿で、この街を訪れるんじゃないのか?もしそうだとしたら…
僕自身は、どうなるんだ?
帰り道。雨が止んで、梅雨の晴れ間が覗いていた。僕は傘を引きずりながら、とぼとぼと歩く。すると、足元に二本の鉄の棒が伸びていることに気が付いた。それは、道を横断するように設けられ、更に、その両端は周囲に建っている建物の下敷きになっている。不思議に思って見ていると、レールだよ…という聞き覚えのある声がした。振り向くと、片手にバケツを持ち、デッキブラシを担いだ「あかりや」の店主が、こちらを見つめていた。
「あ、町長さん。」
彼女は担いでいたブラシを地面に下ろしてがしがしとこすりながら、好奇心の強い子供だよねぇ、とため息をついた。僕はいつのまにか図書館からあかりやの近くまで戻ってきていたのである。
「何でここにレールなんか。」
「前は走ってたの、この路地裏の街にも。路面電車っていうやつ。少し前に廃止になったけど、誰も取り壊さないもんだから、いつのまにかレールの上に建物が建っちゃって。向こうに行くと、まだ駅舎も残ってると思うな。老朽化してるから立ち入り禁止だけど。」
どうでもいいが、タンクトップのまま、屈んで道路掃除するのはやめて欲しい。目のやり場がない。
「ところでさ、アンタって何だっけ。先生の所の助手だっけ。それ何?」
疑問の対象となった鳥は、黒い瞳でぱちぱちと瞬きをする。
「アヒルです。嵐の後に庭に落ちてた卵が孵っちゃって。」
ふーん…と彼女は鋭い眼でその雛を見つめ、可愛いじゃん…と言った。その言葉に、アヒルはくわっと声を出す。
「この度、めでたく院長に就任しました。」
すると、町長は思いっきり眉間にしわを寄せた。
「は?何言ってんの?」
「先生がそう決めたんです。アヒルの名前が“院長”なんです。」
まあ何でもいいけどさ…と、町長は身を起こして腰を伸ばした。
「この間の蛸といいアヒルといい、アンタもあの先生に似て来たね。」
そして、再び黙々と掃除を始めたその背中に、僕は問いかける。
「あの、もし知ってたら教えて下さい。この町に来る亡者や魂って、必ず死んだ時と同じ姿をしているんですよね。」
その時彼女から聞いた答えは、いよいよもって、僕の心にヒビを入れる結果となった。
「必ずってわけじゃないでしょ。そりゃあ、そのままの姿形で来る人が一番多いけど…。生きている時、一番生き生きしていた頃の見た目で来る人もいるし、心残りが多かった頃の姿で来る人もいるし、『顔が違うけど、なんとなく生前の面影がある』っていうこともあるし…。その人の持っている精神や、魂に合った姿に変化するってこともあるね。」
「魂に合った姿…?」
「例えばだけどさ、見た目がすっごく意地悪そうな婆さんでも、心が美少女だってこともある訳。そういう人は美少女の姿だったりするし。ねえ、そういう話、あの先生は教えてくれないの?」
高崎が、歯車からの『ご馳走とは何か』という問いに塾考を始めた時、診療所のドアを軽くノックする者があった。陸が帰って来たのかと思いきや、イチカがそっと、こちらを覗いている。
「真琴さんがきてるわ。」
その言葉に、歯車は仕方なく患者を診療所に残し、席を立った。真琴は、イチカから母屋へ入るように言われた言葉を拒み、玄関先に一人で立っている。歯車が必要な点滴用の輸液パックを携えて行くと、彼女は黙ったまま、深々と頭を下げた。
「待たせたね。今、亡者のカウンセリングが長引いてて…。」
構いません、と彼女は呟いた。
「薬さえいただければ…。普通に購入すると、かなり高額なものだと知りました。助かっています。」
「いいんだ、代金のことは…。」
すると彼女は、あの少年…つまり陸を…私に帰して貰うことは出来ませんかと、単刀直入に切り出した。
「あの魂は君のものではない。」
歯車はぴしゃりと言い放った。彼にしては珍しい口調である。
「それに勘違いしないで欲しい。僕はあくまでも、あの子を保護している。誘拐したわけでも、盗んだわけでもない。」
真琴は表情こそ変えないが、暗い瞳でじっと歯車を見つめていた。その視線は痛い程だ。
「偶然とはいえ、僕があの場所を通らなければ…陸はあのまま、街の奥まで流されていただろう。他の亡者と同じように。」
その言葉に、真琴はふと目を伏せる。
「ねえ、君の知るお兄さんは、明るくて元気で、多少がさつに見えていたかもしれない。でも、中身は素直で真面目で、繊細なんだ。」
そう、まるで、いまの陸のように。
すると真琴は、知っています…と呟いた。
「だからこそ、私のことは見てくれなかった。私の近くにいたのは、単に兄として心配してくれていたからです。」
そうして唇を噛んでいる真琴に、分かっているじゃないか…と歯車は畳みかける。
「僕が保護した時、あの子はとても衰弱していた。疲れ切っていたんだよ。君が振り回したんだろう?これからどのくらいの期間が必要か知れないが、あの魂が完全に癒えるまで、僕は手元に置くつもりだ。」
ここまで言われては、彼女は何も言い返せないのだろう。黙ってもう一度頭を下げると、その場を後にした。
あの女性と自分は良く似ていると、歯車はいつも感じている。
お互い、エゴイストだ。
「あかりや」の店主と別れてから、僕はどうやって診療所まで帰っただろう。頭の中は、例の仮説のことでいっぱいだった。つまり、『僕という存在は、眠り続けた肉体から抜け出して来た魂ではないか』?ということだ。この間、僕はこの仮説は成り立たないと思った。何故なら、僕の姿はどう見てもあの女性の兄には見えないくらい子供だから…。でも、先程の一件で、必ずしも、肉体の姿と魂の姿は同じではないことを知ってしまった。
『顔は違うものの、生前の面影がある。』
その言葉が本当で、更に僕が魂だったとしたら、今の姿形がどんなに幼くとも本来の姿形と似たところがあってもいい。そして、もしそれが目立つ特徴だったとしたら…。先生が僕の正体に気付いていてもおかしくはない。
そんなことを考えていたら、いつの間にか診療所の近くまで辿り着いた。院長は、もう随分前から大人しい。小さいくせに飼い主の心情を察しているのかもしれない。
「あれ…。」
診療所の門から一人の人物が出て来るのが見えた。その姿に、僕は思わず心臓をわしづかみにされる。
「あのっ…待って下さい。」
帰ろうとする柏木真琴の背中を、速足で追う。今日は和服ではなく、歩くのが早い。彼女は、僕の声にはたと立ち止まると、ゆっくりこちらを振り向いた。驚いているようだったが、それ以上の表情は見せなかった。
「先生は、診療中みたい。でも、輸液パックだけは頂きました。また来ますと…伝えてちょうだい。」
診療中。では、まだあの亡者は中にいるのだろうか。帰ろうとする彼女の背中に、僕はもう一度声をかける。
「あの、聞きたいことがあるんです。あなたのお兄さん…年齢はいくつですか?」
「二十二よ。」
「じゃ、髪の色は…何色?」
彼はその質問に、眼を伏せながら微笑んだ。しかし、答えない。
「お願いします。教えて下さい。」
少しして、その形のよい唇を重そうに開き
ながら、彼女はやっと答える。
「栗色よ。あなたほどじゃないけど。」
この世界のどこかに、僕を知っている家族や友人がいて、今もきっと自分を探している。
僕が記憶を取り戻して、その人たちに会ったら、帰るべきところに一度帰って、そして、改めて先生とイチカさんに会いに来よう。もし、僕を知る人が見つからなくて、ずっと記憶も戻らなければ、図々しいけれど先生に頼んで、ここで働かせて貰おう。大人になったらもっと役に立てるように、勉強もして…。
ようやく誰も見ていない場所に来て、そんな感情が溢れて来た。僕は僕だ。知らないところで、体を動かすことなく眠っているなんて、そんなこと絶対にない。僕が僕以外の誰かであるなんて。先生がそのことを知って隠しているなんて…。
卵を二個、ボールに割る。砂糖を入れて、泡だて器でかき混ぜる。カシャカシャと音がする。鼻が詰まる。喉の奥が痛い。黄色い液体が、じわじわと歪んでみえる。卵を混ぜる音に合わせて、涙が落ちた。その涙が卵に入らないように、袖でぐっと涙を拭きとる。
ネギを細かく刻んで卵に入れ、もう一度混ぜる。フライパンを温めて、薄く油をひく…。僕は、料理なんてどこで覚えただろう。いつも作るのはイチカさんだったのに。油がチリチリ言い始めたので、フライパンに卵を流し込む。じゅわっと、食欲をそそる匂いが広がる。鼻をすすりあげながら、もう一度涙を拭いたところで、誰かが僕の頭にそっと触れた。
「どうしたの?何かあったの?」
イチカさんだった。
「わかった、先生にいじめられたんでしょう。私が後で叱っておいてあげるわね。」
違います違うんですと、僕は繰り返して言った。そして、フライパンを手前に揺すりながら、少しずつ卵を丸めていく。
あら上手ねえ、とイチカさんが感心する。
「どこで覚えたの?」
陸としては、やってみたら出来た…という程度だった。もしかしたら、記憶を失う前に…あるいは元の肉体にいた時に…自分で料理をしていたのかもしれない。
丸め終わった卵をフライパンから取り出して、さくさくと包丁で切る。その中の形のいいものを、三切れ程小皿に盛った。
「どうするの、それ?切れ端、味見してもいいかしら。」
「どうぞ。これは患者さんに出します。僕、図書館で見たんです。」
かのグルメな亡者が、生前出版したというエッセイは、ご丁寧にあの図書館にも置いてあった。試しにページを開いてみると、冒頭部分の数行にこんなことが書いてあった。
『僕が子供の頃住んでいた村では,細いネギを刻んだ甘い卵焼き…そんな、誰しもが口
に出来るような物でさえ、滅多に口に出来な
いご馳走だった。』
歯車は、突然診療所に顔を出した陸に、驚きを隠せなかった。手に持った卵焼きをどうするつもりだろう。すると彼は、どうぞ…と患者の目の前に置いた。高崎は、もはや平らげようとしていた大きなピザのかけらを、はらりと落とした。
「陸、これはどうしたんだ。」
僕が作りました…と、何故か泣き腫らした目を伏せながら、答えた。
高崎は陸が現れるまで、ご馳走とは何かという問に対する答えを探し続けていた。
『私はずっと、プロの料理人が、吟味された高級食材を用いて作ったものに、高い金を払って食べる。それが贅沢なのであり、ご馳走だと思っていました。』
彼は最初、そう答えた。
『しかし、ここへきてからは、そんな料理をいくら食べても満足しない。もちろん、金は払っていませんが…なんでだろう。』
悲しい顔をして首をかしげる高崎に、歯車は自分で観察して得られた答えを白状した。まず、ここは心に強く残った未練によって、何らかの疾患を抱えた亡者がくる病院であること。高崎の持つ飽食依存も、実はそこから来ていること。つまり、死ぬ直前に心から食べたいと思ったものを食べなければ症状は治らない。そして、おそらくその料理は、食べ続けて来た『高級料理』とは違う。
彼の『ごちそう』。それは、舌でも胃でもなく、心が欲してならぬもの…。
陸は、そんな時に部屋に入ってきた。高崎は小皿に乗った、何の変哲もない三きれの卵焼きを凝視して、ピクリとも動かない。
「昔食べたものと同じ味かどうかは、分かりませんが。」
陸がそう言うと、高崎はおそるおそる、それを一切れ口にした。そして、はは…と少しだけ笑って、もう一切れ食べる。
「おふくろが作ったのは…こんなに甘くなかった。ネギはこんな感じだったかなァ。」
そして、ああそうか、そうだった、そうだっただなと、高崎は満足そうに頷いている。
歯車は、傍らに立つ陸の横顔を見た。いつもと違って、限りなく無表情に近かった。今日は図書館に行くと言って出かけたはずだが、この行動と表情が意味するものは一体…。
「おかわりが残っていますが。」
陸がそう問いかけると、高崎は、いや結構…とだけ返事をし、大事そうに最後の一切れを食べた。
「懐かしい…懐かしいよな…。兄さん、どうしてこれを作ってくれた?」
陸は、まあ、ちょっと…とだけ答える。
「ああそうか…死ぬ瞬間のことなんかまったく覚えてないが…そう言うことか…。」
ようやく満足したような表情を見せた高崎を、歯車は黙って見つめていた。ここで口を挟んではいけない。
「俺は苦労して苦労して、やっと財をなして…たらふく食べるようになって、夢を叶えたと思ってた。舌も肥えたし、美食を語れるくらいの蘊蓄もついた。でもそのせいで、いつの間にか忘れてたんだなァ…。甘くて滋味があって…兄弟で喧嘩して食べたもんだった。どっちが大きいとか、切れ端が欲しいとか、はは、下らないことでさ。こんな、ちょっとした料理なのに、確かにあの頃は、心から美味いと思ったんだよな…。」
そう話しながら、ほんの少し油が付いた小皿に視線を注ぐ。まるで幼いころのアルバムを見るかのように。
「人間、死ぬ間際は走馬灯を見るっていうけど、もしかしたら、俺も見たのかもな。そんで、懐かしく懐かしくて…食いたいと思ったのかも。なんだ、あんなに悩んだのに、答えはこんなに単純なもんかね?」
どんな問題だって解いてしまえば、簡単なんですよ…と歯車は答える。そう、解くまでが面倒なのだ。
ああ満足だと、高崎は歯車に向かって礼を言った。
「色んなもの食わせて貰いました、先生。」
あの世に行く前に、随分贅沢な思いをしんだなァ、俺は…と笑う高崎の体は、銀の砂のように細かな光が、キラキラと舞っている。
「こういう終わり方も悪くないですね。」
それだけ言うと、グルメな亡者は当たり前に立ち上がり、陸に見送られて、出入り口から消えて行った。最後は、まるで風に吹かれるかのようだった。本当に、心から、満足した証拠だった。
歯車が、ご馳走を出しては消し、出しては消ししていたドームカバーの中には、これまで無いほどの金貨が入っていた。やはり、大物は六紋銭のケタも違うらしい。
「陸、すごいじゃないか。さっきの卵焼き…どうしたんだ…?」
陸はテーブルの上に残された小皿を片付けながら、新聞の…と呟いた。
「死亡広告蘭に、今の方の情報が書いてあったのを、たまたま見つけました。エッセイを出してるって…その本も書館に置いてあったので…呼んでみたら、卵焼きのことが…。」
「へえ、なるほどね。ところで、顔色がよくないな…何かあったのか?」
しかし陸は、何もありません、大丈夫…とだけ答えた。
その夜、陸は夕食を食べなかった。気分が悪いと言って早々に部屋に引きこもり、今はベッドの中にいる。
歯車もまた、それに合わせるように夕食を取らなかった。散々人が食べるものを見ていたせいで、食欲がない。考えたいこともあったし、イチカのことも気になった。
彼女は今、自分の部屋に置かれた通常の大きさのピアノに座って、体を揺らしながら、熱心に曲を弾いている。弾いているのは、例のもの悲しいメロディ。逃亡癖の発作はおさまったばかりではないのか?
そんなことを思いながら、歯車はイチカの背後にある、ベッドの上に座りこんでいた。
陸…。
明らかに、先ほどの彼の様子はおかしかった。彼は泣き腫らした目と、顔色が良くないことに関して、次のように答えた。
「図書館で、何も僕に関することが分からなくて。期待していたので、がっかりです。」
戸惑ったような、言い辛そうな表情。目が少し泳いでいる。誰が見ても嘘をついていることぐらい、すぐにわかる。根が素直な分、隠し事は出来ないのかもしれない。口では何も分からなかったと言いつつ、何か、大きな秘密に気付かれたのかもしれない。
それは困る。できれば、避けたいことだ。
陸のことが、新聞に乗るはずがないことは、歯車自身が良く分かっている。だから、逆に図書館に行くのを許したのに。それなのに、もし自分の正体を知ってしまったら…。
歯車は再びイチカの背中を見た。
もう、彼女と暮らすことは永遠に出来ない。
いや…と、歯車は一人で首を振った。まだ、希望はある。『知る』ことと『思い出す』ことは違うのだ。陸が肉体へ帰る時…それは、あの子自身が記憶を取り戻した時だ。その傾向はまだ現れていない。
「イチカ…その曲は何ていう名前なんだ?」
『夜の果て』…と彼女はピアノに夢中のまま、上の空で答えた。
「それを弾き終わったら、君はまた、遠くへ行こうとするんだろう?」
何言ってるの、いつもちゃんと帰ってくるじゃない?と、イチカは答える。確かにそうだ。必ずここに帰って来てくれる。でも、次は帰ってこないかもしれない。心にはいつもその不安があった。歯車は腰を浮かせると、彼女の後ろに立った。そのまま、細い肩に腕を回し、力を込める。首筋に顔をあて、突出した首の骨に唇を当てた。目を閉じて、そこにある肌の感触を確かめる。イチカはまだ、ここにいる。
「だめ…まだ全部弾き終わってない…」
温かい、素肌の匂い。そこには、とうに消えたと思っていた、あの発酵した果実の甘い香りが、かすかに混じっていた。
母屋からピアノが聞こえる。陸は、ベッドの中で、ぼんやりとそれを聞きながら夜を過ごしていた。
本当は、分かっている。僕の正体に関して…全ての真実を知りたければ、ハッキリ口に出して先生に尋ねればいいだけなのだ。
『僕の正体を知っているのでしょう、どうして隠しているんですか?本当のことを教えて下さい、あなたは何がしたいのですか…』
でも、聞けない。勇気がない。これは、その場に立った人間…僕にしか分からない怖さだと思う。自分に関する重大な秘密や特別な事情…。信頼している人間の本当の心。それを聞き出そうとすることは、恐怖だ。
いつしか、イチカさんのピアノの旋律は乱れがちになり、中途半端なところでふっと、途切れた。それはまるで、傍にいた誰かが、鍵盤をたたく彼女の指を、腕を、体を…無理に抱き寄せてしまったかのようだった。
深夜、僕がやっとうつらうつらし始めた頃、誰かが部屋のドアをノックした。
「陸、起きて。」
それは、夢の中で名前を呼ばれたのかと思う程の、微かな呼び声たっだ。
枕から顔を上げると、すでに二時を過ぎている。おそるおそるドアを開けると、そこにはジーンズの上に、丈の長いワイシャツをきたイチカさんが、ぼんやりと立っていた。 「どうしたんですか、こんな時間に…何かあったんですか?」
「お願い、一緒に来て…。」
一緒にってどこに?先生はどうしたんだろう。隣の書斎には、人の気配がない。
「先生は眠ってる。相談したら、絶対に行っちゃダメって言うわ。」
すると、イチカさんは僕に向かって手を差し出した。その中には、握り締められて皺だらけになった、古い切符…。それは、あの嵐の日に拾ったものではなかったか。
「早くしないと、汽車が出る。それに乗れれば、行ける。」
「行けるってどこに…。」
「行きたいところ。」
イチカさんの、闇の中でらんらんと光る目が、僕を見下ろしている。
「汽車なんて…汽車なんて走ってるわけないですよ。もう最終便なんかとっくに…」
それに、駅って?僕はまだこの辺の地理に疎いけれど、確か一番近い駅舎はあの港町ではないだろうか。
「いいえ、走ってる。もうすぐこの町に来るの。」
その言葉に、僕は耳を疑った。この町って、この路地裏の街に?この町に駅はないし、大体、電車が走れる空間だってない。
おかしい、これはおかしい。やっぱり先生を起こした方がいい。
「一緒に行ってくれないなら一人で行く。」
すると、ふわりと身を翻したイチカさんは軽々とした足取りで、下の階へと駆け出した
「あ、ちょっと、待って…。」
このままだと追いつけなくなる。先生を起こしている暇はない。そう判断した僕は、とっさに机の上にたたんであった白衣を掴んだ。イチカさんを追いながら、それを着る。梅雨の夜はじっとりと生ぬるい気候だが、夏ものだから大丈夫だろう。それに、ポケットには先生の名刺やペンライト、方位磁石、少々のお金が入っている。何かあったとき役に立つかもしれない。先生に何かを書き残す時間はなく、すでに門を出てしまったイチカさんを追って、僕は診療所を出た。
「ちょっと、待って下さい!い、一緒に行きますから…。」
それから、どこをどう走ったものか…。星一つ出ていない闇夜の中での光といえば、いまだに開いている飲み屋の看板、ところどころに思い出したように灯る街灯、僕が持っているペンライトぐらい。ただでさえ人の気配が少ないこの町は、深夜ともなれば廃墟のようだ。おかげで、イチカさんがどこに向かっているのか、まったく分からない。ただ、時折建物と建物の隙間からみえる街の一角が、ぼんやりと明るい。
宵市よ…と、一歩前を歩くイチカさんが言った。相変わらず息が切れている様子はない。
「夜にも市が立つの。昼間は生活用品がほとんどだから安全だけれど…夜はいかない方がいいわ。」
ではあれは、市場通りの方向?通りに対して、平行に進んでいるのか?すると、イチカさんは突然はたと立ち止まり、足もとを見る。
「あった。」
僕は思わず、その場所をペンライトで確認する。そこにあったのは、昼間見たばかりの、あの古いレールだった。『この向こうに駅舎がまだ残っているはずだけど』。唐突に耳に蘇える、あの町長の言葉…。
「まさか…。」
イチカさんは迷うことなく、そのレールが続いている方角に、歩き出していた。
それは、本当に古かった。まるでバスの停留所のような、幅の狭い屋根、低いコンクリート製のホーム、傾いた時刻表。全体的に崩れかかっており、中に入らないよう、ロープを一周してある。周囲に建物が立ち並び、孤立したモニュメントのようだ。
「イチカさん、帰りましょう。ここに電車なんか来るわけないんだ…。」
しかし、そんな僕の言葉も届かず、彼女はロープを乗り越えて、ホームへと入ってしまう。完全なる暗闇、使われなくなった駅。正直言うと、僕は怖かった。
ペンライトで周囲を照らしてみる。すると、時刻表はすでに文字がかすれて読めず、看板はすでに撤去されていた。そして、何やら細かな字が書かれた立札のようなもの。こちらは木製で、やはり字がかすれていたが、ライトを近づければ何とか読める。
『慰霊碑』
背中がゾクッとした。慰霊碑?列車の脱線事故?犠牲となった大勢の人々?日付は今から四十年前の九月…。
いや、まてまて…と、僕は考え直す。別に慰霊碑ごときに怖気づく必要はない。だって、日々診療所には死んだ人がやって来るのだから。でもあの人たちが怖くないのは、生きた人間とまったく同じように見えるからで…。そんなことをごちゃごちゃと考えている間に、イチカさんはホームの椅子に腰掛けた。埃で服が汚れないだろうか。
「陸も、早く。」
ああ、嫌だなァ…。僕はおそるおそる、イチカさんに近づくと、その隣に立った。どうしても座る気にはなれない。すると、つけていたペンライトの明かりがふっと消えた。
「あれ…?」
「来たわ、ほらね。私の言葉通りだった。」
僕は、身を固くしてその言葉を聞く。そして、近づいてくるその静かな振動を、足の裏に感じていた。
なぜ…?体が動かないのに、目線だけが、右手方向へと滑るように動いた。左にはイチカさんがいる。そんな、まさか…。周りには建物があるはずなのに…。レールはその建物の下敷きになっていて使えないはずなのに。
そう、周囲に深く広がる闇のずっと遠くから、ゆっくりとこちらへ近づいてくる赤く丸い光。それは間違いなく、列車の正面についているライトだった。僕の背中に、どっと嫌な汗が流れる。その光はやがて大きくなり、大きな車体を映し出した。
「に、逃げましょう。ダメですよ…。」
しかし、イチカさんは目線一つ動かない。
「ねえイチカさん!これに乗ったらダメですってば!」
しかし、その列車は止まることなく、あるはずのないレールの上を滑るように進んでくる。誰もが耳にしたことのある振動、リズム、そしてパァァン…という音を響かせて、とうとう僕らの目の前に停車した。汽車とは違う、長方形の、まるでバスのようなボディ。窓から垣間見える、誰もいない社内には豆電球の明かりが灯り、丸い吊り革が規則正しく並んでいる。その静かな趣が、僕にとってはたまらなく恐ろしいものに見えた。 だって、この電車はどこから来た?そして、どこに向かうっていうんだ…。
やがて、そのドアが自動的に開いたところ
で、イチカさんが立ち上がった。
「ちょっと、ダメですってば…僕の話を聞いて下さい、乗っちゃダメですってば…!」
僕はイチカさんの腕を掴んで訴えたが、彼女は迷うことなく乗り込もうとする。仕方なく、腰に手を回して引きずり降ろそうとしたが、力が強くて敵わない。ずるずると、僕の体まで列車の中へ入って行く。
「ちょっと…誰か助けて…先生…。」
涙目でそんなことを叫んでも、誰も来るはずがない。そしてとうとう、背後でガシャンという音がして、ドアが閉まる。やがて、その車体は、僕ら二人を乗せたまま、再び動き始めた。
窓の外は、飲み屋の看板や街灯はおろか、建物の形すら見えなかった。おかげで、どこをどう走っているのか全くわからない。まるで墨汁の中を進んでいるようだ。それなのに、ある一定のリズムで、赤い提灯が通り過ぎる。どこにどうやって吊るされているものか…。
僕は、柔らかな座席に腰を下ろしたまま、頭を抱えていた。これからどうなるのだろう。この電車は止まる気配が全くないし…。隣を見ると、イチカさんはその座席に座ったまま、身を捩って外を見ている。長すぎる袖や裾をそのままに、ゆったりとした雰囲気だった。
「陸も見て、アレ何かしら…。」
そう言われて、僕も体を捩って窓の外を見た。相変わらず、何も見えない。
「何もありませんけど。」
「見えるじゃない。ほら、アレ。綺麗ね…水晶かしら。たくさん浮かんでる。」
そう言われて目を凝らしたが、やっぱり同じだ。しかし、イチカさんは嘘をついているふうでもなく、楽しげだった。
「あら?この辺りの風景、懐かしいわね。なんだか小さい頃に見たような気がする。あ、見て、あそこ!うさぎがいる…。」
そんな彼女を見て、僕は再び、ぞっとした。僕と彼女では、見ている景色が違うらしい。
「やっぱり、私の行きたい所へ向かってる。この電車に乗って正解だったのよ。」
違う。このままじゃいけない、この電車に乗っていてはだめだ。僕はその時になって、ようやく思い出していた。先程駅舎でこの電車に乗り込んだ時、その進行方向が、『路地裏の街』の奥を向いていたことを…。
「イチカさん…テラスに出ませんか…。」
「え、テラス?」
ちらりと見えたのだ。この電車の後部には、外に出て景色を眺められる、ベランダのような形状の場所がある。
「そこなら…もっと良く外が見えますよ。」
すると、彼女はふわりと座席から立ち上がり、電車の後部へユラユラと歩き出した。
やがて、一番後ろの車両についていたドアを開ける。すると、二人の頭上にあるライトが、足元にあるレールを照らし出していた。しかし、丸い明りの中にあるレール以外は、やはり何も見えない。何より不思議なのは、まったく風が無いことだ。普通なら、これだけのスピードで走っていれば強風が巻き起こるはずではないか。
そこで僕は、頭の中で確信する。この列車は、間違いなく世界の深淵へと向かっている。
イチカさんはそんな僕の思考回路など気付くはずもなく、周囲の様子を見回して言った。
「ここどこかしら…このあたりは見たことないわ…あ、あ、見てあれ。」
そう言って、イチカさんはテラスの端で身を乗り出し、遠くに向かって指差した。
「あれ、劇場!大きいわね。私も昔、あんなところでバレエを躍ったのよ。私の最後の公演…準主役だったけど、いいの。とても気持ちよく、完璧に踊れたから。でね、その帰り道…何もかも満足した気分で、路面電車の椅子に座っていたら、隣に座っていた人が話しかけてきて、それが…陸!?」
僕は、イチカさんが話すのに夢中になって
身を乗り出したのを見計らい、彼女の腰に抱きついた。そして、そのまま自分の体ごと、手すりの外へ…。
「やめて、何するの!落ちちゃうじゃない!お願いやめて陸!」
僕だって怖い。このまま落ちたら間違いなく線路に叩きつけられるだろう。
「いや!離してお願い…。」
しかし、あんなに僕を引きずる力が強かったはずのイチカさんも、僕と一緒に落ちて行く重力には逆らえなかった。高い所から身を翻した時の、ふわりという感覚。落ちて行く時の怖さ、きゃああ、というイチカさんの悲鳴…そして、僕って怪我しないんじゃないかな?だって魂だし…なんていう、冷静な考え。
やがて、それらは何もかも一緒くたになって、闇に溶けた。
「がぼっ…ふがっ。」
電車から落ちた後、僕の体を受け止めたのは、地面でもレールでもなく、柔らかな水の感触だった。どぼん…という音と共に、耳に、鼻に、口に…水が流れ込む。何が起こったのか分からなくて、手足をがむしゃらに動かした。溺れる!と思ったものの、以外にも足が付いて、すぐに立ち上がる。手を伸ばした先にあった池の縁で、げほげほと咳き込んだ。呼吸がなかなか整わない。何が…一体何が起こったんだろう。
「おや。あなたはもしかして…先生の所の…助手さんじゃありませんか?」
誰かが、僕の近くでそんな声を上げた。必死で呼吸をしながら顔を上げると、知らない場所にあるその池の縁で、すがるようにして立っていた。それは、対して大きくも深くもない池だった。どこからか月光が差し込んで、乱れた水面がキラキラと輝いている。
「陸君でしょう。これは一体…どうしたものでしょうか。」
その声は、聞き覚えのあるものだった。見れば、その池のすぐ近く…周囲に生えた芝生の上に、黒くて長い、ぼろぼろの着物を着た、あの僧侶が座り込んでいた。何故か大きな雨傘を被っている。
「あれ?げほっ…ここどこ?何で僕はここに…イチカさんは?ごほっ…何であなたがいるんですか?先生は?」
頭の中が混乱している。全く何が起きたのか分からない。
「何が起きたのかは、私にも…。でもここは、私が管理している、地下墓所です。」
「地下…墓所?」
「そうです、あなたはあそこから落ちて来ましたよ。」
そう言って、彼は上を指差した。僕が浸かっている池の真上には、ぽっかりとした穴が空いていて、そこから月が覗いている。あれ、闇夜じゃなかったっけ?雲が切れたのか?地下というくらいだから、コンクリートか何かで天井が設けられているのだろうが、老朽化のためか、あちこち穴が開いている。そのために、地下墓所だというその広い空間には、何本もの青白い光の筋が降り注いでいた。
ああ、そうか、だから彼は傘を被っているのか。確か、月光が怖いんじゃなかったっけ。
「え、どうして、僕はあの穴から落ちて来たんだ?あ、イチカさん!イチカさんは…?」
落ちて来た時、あなた一人でしたよ…と、僧侶は言う。
そんな…それじゃあ、イチカさんはどうなったんだろう。僕は確かに、彼女と一緒に電車を降りたのに…。一体何があったんですかと、僕を池から引き上げながら僧侶が尋ねる。
僕は着ていた白衣を脱ぎながら、自分が見聞きしたことを、夢中で話した。来るはずの無い電車と、イチカさんが見ていた、あるはずの無い風景。彼は黙ってそれを聞いていたが、やがて僕がくしゃみを一つすると、傘を刺したまま、僕をその空間の奥へと促した。
「さあ、どうぞ。向こうに行けば、私の堂があります。とにかく体を乾かさないと。」
久しぶりに再会したその僧侶は、以前よりより落ち着いて見えた。
古書の詰まった本棚と、畳の中心に置かれた囲炉裏…。整理整頓が行き届いたその空間は、「お堂」というより「庵」に近い。僧侶は、部屋の隅に置かれた行李から、僕に合う浴衣を貸してくれた。
「すみません、何から何まで…。」
いやいや…と、外に生えていた木にロープを結びながら、彼は笑った。片手には相変わらず雨傘を持っている。
「最初からこの方法を使えばよかった…そうすれば少なくとも、月光を浴びることは避けられます。」
では、「自分は普通の人間」であるという思考は捨てたのだろうか。いっそのこと思い切って月光を浴びてみれば、自分は人間だと確信できるのに…。僕は張ったロープに濡れた服を吊るしながら、そんなことを思った。
「ここは風通しがいいですから、明け方までは乾きます。」
僧侶の言葉に、驚きました…と僕は答える。
「この街の地下にこんな所があるなんて。」
しかも、地下というのは名ばかりで、ちゃんと土があって、木も草も生えている。
「昔の話ですが、ここは地下ではなく、普通の墓所でした。しかし周囲に建物や人が増えるにつれて、土地が減ってしまって。結果、ここを覆うように土台を作って、その上に何かを建てようとして…結局頓挫したのです。」
その土台が古くなって、穴が開いたのか…と、僕は上を見上げてみる。
「昼間薄暗いのは困りますが、眺めだけは美しい。冬は穴が開いた場所にだけ、粉雪がチラつきます。」
「あの、あなたは、ずっとここに住んでいるんですか?」
ええ…と、僕を再び庵の中に招き入れながら、彼は答えた。
「もう随分長いですね。若い頃は他の土地にいましたが…。」
そう言って、水の入った薬缶を囲炉裏の火にかけた。僕は促されるままに主の正面に座る。そして、お休み中でしたよね…と尋ねた。何しろ、僕が家を出た時刻は二時である。
「すみません、驚かせてしまって…。」
すると、僧侶はゆっくりと首を振った。
「この時間は起きています。うるさくて眠れないもので…。」
うるさい?何がうるさいのだろう。耳を澄ましても、囲炉裏の炭が爆ぜるばかりで物音一つしないのに。
「丑三つ時…とでも言いましょうか。人の言葉で話すのではありません。まるで、虫が囁くように、小さな波が岩に打ち寄せるように…さわさわと何かを言い合うのです。一つ一つの声は小さいけれど、それが一斉に響き合うと、なかなか落ち着きません。」
「それってつまり…その、死んだ人の…。」
まあ、そんなところでしょうか…と頷きながら、彼は急須や湯呑みを準備する。
「怖いとは思いません。この堂の外にあるのは、この辺りでは最も古い墓でして…。亡くなってから随分たつのに、まだ囁きたいことが残っているのかと思うと…なんだか哀れになります。」
ですから、その声を慰めるために…と、彼は堂の隅にあった水甕を指差した。
「あれで一つひとつ、墓石に水をかけて回ります。頭からそっと、少しずつ…。」
「なぜ、水を…。」
亡者は水を好みます…と彼は答えた。薬缶から、シュンシュンと白い湯気が出始める。
「死にゆく者は水を欲すると言いますし、死んだ後に向かう世界も、生まれる前の世界でも、水が深く関係しているようです。」
それならば…と、陸は考えてみる。
「僕がさっき乗ったのは、走るはずの無い列車です。あれは、この路地裏の奥へと向かっていました。あのまま乗っていたら、間違いなく死ぬ…そう思って、僕はイチカさんを抱えて、必死で列車から飛び降りました。そしたら、ここの池に…。もし、あなたが言う通り、あの世とこの世の循環に水が関連するのなら、イチカさんもどこかの水の中に…。」
なるほど…と、僧侶は熱い薬缶を持ち上げて、こぽこぽと急須に湯を注いだ。緑茶のいい香りが漂ってくる。
「あの診療所には、池がありましたねえ。もし、今の推理が正解なら、あまり彼女を心配する必要はないかもしれませんよ。」
どうぞ、と差し出されたお茶を、僕は遠慮する間もなく飲んだ。本当はひどく喉が渇いていた。
「すみません…お邪魔した上にお茶まで。」
とんでもない、と彼は笑う。
「夜中の客人というのも風流です。」
そして、欠けた茶碗で僕と同じように茶をすする。それを見ながら僕は、さっきの話なんですけど…と切り出した。
「死者が水を好む話についてです。あの…イチカさんて…時々すごくたくさん水を飲むんです。そういう時は決まって、遠くに行くんだって言います。自分の家はあの病院のはずなのに、ここじゃないところに行くって…。さっきもそうだった。あの列車に乗ったら、行きたい所に行けるって、どうしても乗るって聞かなくて…。それに、僕には、あの列車から見える風景がとても恐ろしかったのに、彼女には、美しい、あるいは懐かしいものとして、映っていたみたいなんです。」
僧侶は再び、なるほど…と頷いた。
「あなたが何を言いたいのかは分かっています。先生の奥さまが、一体何者なのか…ということじゃありませんか。」
そうです、と僕は頷いた。
「僕は、本当はずっと前から…いえ、最初に会った時からそのことに気付いていた。ただ、無意識のうちに目を瞑っていたんです。考えないようにしてきたんだ。」
それはそうです、と彼は穏やかな口調で答えた。
「奥様のことに関しては、あなた方にとって、とても大きな波紋となるでしょう。家庭内の波紋を好む者はいません」
この人は、まさか…?
「あなたはもしかして、イチカさんのことも先生のことも、もしかしたら僕のことも…何もかもご存知なのではありませんか?」
空になった僕の湯呑みにもう一杯お茶を入れながら、なぜそんな風に思いますかと、僕に尋ねる。
「だってそうじゃありませんか。今の口ぶりでは、あなたはイチカさんの正体を、とうに見抜いていたように聞こえます。それに、以前診療所に来た時…僕に向かって、先生はとても罪深いって言いましたよね。あれはどういう意味でしょうか。先生は変わっているけれど、悪いことはしない人で…」
もちろん…と、彼は茶の入った湯呑みを僕に返した。
「この街には欠かせない方です。皆助けられている。私も、そして亡者たちも。」
「じゃあ…」
答えを急ぐ僕を、彼は手で制する。
「この町には、いくつかの掟があります。それを知っていますか?」
「前に…ちょっとだけ聞いたことが…。」
「それなら話が早い。掟や法を侵した者には罰が下ります。それはどこの世界でも同じことです。そして、法を犯した者、あるいは、侵しそうになっている者をみつけたら、周囲の者が止めるでしょう。そんなことはやめろ、捕まるぞと…。」
しかし、ここでは少し違うのです…と、彼は穏やかな面持ちで話した。
「この町においては、罪を犯した者自身がその重大さに気付き、悔い改め、自分の意志で白状すべきです。周囲の者が、『あの者は罪を犯している、懺悔して白状すべきだ』と、騒ぐべきではない。だから私も、生の行いを、今ここでハッキリと口にするのは憚ります。」
その言葉に、僕は湯呑みを強く握り締めた。
「つまり、先生はこの町の掟を破ったんですね?そして、そのことは、先生自身の口から聞かなければならない?」
「まあ、そんなところです。」
僕は、その答えに息をのんだ。先生が、掟違反?何かをずっと隠していたのは、それだったのだろうか。
「僕は、その掟とやらを…全部知っているわけではありません。以前先生にその一部を教えて貰っただけで…。」
『死者を探してはならない』…『亡者から金品を奪ってはならない』…後は何だっけ?
僧侶は、他にもたくさんあります…と、火箸で炭と突きながら答えた。
「『街の掟を破る』って…そんなにいけないことなんですか?どの町にも取り決めや条例がありますけど、それを破ったからと言って、大した罪ではありませんよね。」
この町は特別です、と彼は湯呑みを畳の上に置きながら答えた。
「ここがただの街ではないことは、もう充分に分かっていますね。あの世とこの世の境目。絶妙なバランスで成り立っているのです。掟とは、そのバランスが崩れないために設けられている。よって、破った者に下される影響は大きい。」
それを聞いて、僕は思わず俯いた。湯呑みの中にのこったお茶の葉の数が、渦を巻いて揺れている。
「先生に罰が下る…?」
そんな僕を見て、僧侶はため息を一つついた。さすがに哀れになったのかもしれない。
「申しました通り、私には、ハッキリと答えを口にすることは出来ません。しかし、あなたには知る権利がある。何故なら、先生の罪はあなた自身のことに深く関係しているからです。」
ああ、やっぱり…と僕は瞼を閉じた。何だかとても疲れている。そんな僕を見て、彼はは少し考えてから、こんな提案をした。
「答えの代りに、多くのヒントをお出しします。あなたは見たところ、思慮深く良く考える方ですから、きっと自分で答えを見つけるでしょう。もうすぐ夜明けです。足もとが明るくなったら、一緒に出かけましょう。朝のお勤めにお連れします。」
歯車が、どぼん…という大きな音で目を覚ましたのは、ようやく夜が明け始めた頃だった。周囲は薄青く、腕の中にイチカの姿はない。急いで身を起こして名前を呼んでみるが、返事もなかった。急いで着替えをし、一階のキッチンへ降りる。しかし、誰の気配もない。とたんに、体から血の気が引いて行くのが分かった。まさか、一人で行ってしまったのか…?自分を起こすこともなく?
すると、ふいに目を覚ました時に聞いた水音を思い出した。慌てて渡り廊下に出てみると、自分のワイシャツを着込んだイチカが、池の中で気を失っていた。まるで机で居眠りでもしているかのような格好で、上半身を池の縁に投げ出している。その周囲で、くわくわと黄色い雛が泳ぎ回っていた。
「イチカ!」
大声で呼ぶが、返事がない。急いで外に出て、その体を池から引き上げる。体が冷たい。
「起きなさい、こんな所で何しているんだ。一体何が…。」
すると、鍵を閉めたはずの診療所のドアが開いていることに気が付いた。雛はそこから逃げ出してきたらしい。やがて、小さく声を漏らしたイチカを更に揺り動かすと、はっとしたように目を覚ました。
「ここ、どこ…。」
「家だよ。大きな水音がしたから、身に来てみたら、君は池の中にいたんだ。どこかから落ちたんじゃないのか?一体何を…。」
「列車は?」
その言葉に、歯車は言葉を飲んだ。
「私列車に乗ったの、陸と…。でも、あの子が私を引きずり降ろしたから…ここに帰って来たんだわ。やっと行けると思ったのに。」
そう言ってぼろぼろと涙をこぼした。
「何言ってるんだ…。」
そういえば、陸はどうしただろう。雛がここにいるということは、陸はあの部屋にいないのだろうか?歯車は診療所の二階を見上げてみる。静まり返っているばかりで、何の変化もない。まさか、真夜中に部屋を抜け出した彼女を追って、陸も家を出た…?
「イチカ、陸はどこに行った?」
分からない、と彼女は青い顔のまま答えた。
「一緒に降りたんだろう、その列車を。」
しかしその質問は、彼女の耳に届かない。
「ねえ、先生。私やっとわかった。自分がどこに行こうとしていたのか。ねえ、本当は私、逃亡癖なんかじゃないんでしょ?」
まずい…。歯車は唇を噛んだ。このままでは、彼女は本当に行ってしまう。
「先生、私…ここにはもう…。」
その瞬間、歯車はその瞳を、じっと彼女の瞳孔に注ぎこんだ。
「どこに行くっていうんだ…家はここじゃないか。」
「あ…。」
そうだけど…と、彼女は弱い口調で答えた。次に、大きな手の平でイチカの両目を覆う。冷えていた肌が次第に温もりを増していく。それを感じながら、ゆっくりとした口調で彼女に言い聞かせた。
「君は病気だ。そのせいでどこかへ行こうと思うだけだ。もちろん、その感情に逆らう必要はない。君が思う方向に歩めばいい。」
「せん…」
「例え帰ってこられなくなっても、必ず僕や陸が迎えに行く。夕べ君が乗った電車は、遠くへ行きたいという願望が見せた、夢だ。」
すると、次第にイチカの表情に落ち着きが戻ってくる。先ほどのような切羽詰まった表情は消え、その代わりに、ぽうっとした顔でこちらを見つめ返している。
「そうね…。ここが、私の家だわ。」
あれから一時間か、あるいは二時間か…僕は毛布を借りて、夢も見ないほどぐっすりと眠りこんだ。ふと気配を感じて目を覚ますと、僧侶が囲炉裏の残り火で、何かを煮ているところだった。傍らには先ほどの水甕がある。
「お目覚めですか。ちょうど良い…そろそろ出かけます。」
僕はぼんやりした顔でおはようございますと挨拶をして、それは何ですかと聞いた。
「野草です。墓石に供えます。」
彼がその野草を切り揃えている間、僕は干しておいた服に着替えた。生乾きの感じもあるが、気にしてはいられない。天井の穴から覗く空はすでに薄青く、夏の朝靄がこぼれ落ちてくる。周囲を見回すと、夜のうちは暗くて分からなかったが、話の通り、白い石を球体に削った墓石が、数多く並んでいた。まるで、月のオブジェを並べたようだった。
彼は、その一つ一つに改めて水をかけながら、作った野草を少しずつ供えて行く。
「死者に対して、生臭はいけません。野菜や金平糖、摘んできた野草や花が良い。」
おや、この話は前にもしましたかと、裸足で芝生の上をさくさくと歩きながら、彼は言った。僕は盆の上に茹でた野草を持ってその後ろをついて行く。なんだか診療所にいる時と変わらない感じがするのは気のせいか。
「そして、量は少しで良いのです、これは気持ちですからね。しかし、実際に亡者が我々生きた人間と同じ食べ物を摂るということは、よくあることです。と言っても、その量は多くありません。ここに備えたように、野菜を一口、お茶を一杯。その程度です。これは路地裏の街に限った事ではありませんよ。親しい者が亡くなった時、好きだった紅茶を供えておいたら、中身が減っていたとか…。」
こういう話を怖がってはいけません、と彼は振り返ることなく忠告する。そう、今は怪談話をしているのではない。
ベジタリアンで、とても小食。僕が初めて診療所の母屋で朝食を取った時、先生はイチカさんのことを、僕にそう紹介した。その後、彼女が昔バレエをしていた話を聞いて、ああ、その頃から物を食べないのだろうと…そう思い込んでしまっていた。
やがて全部の墓石に備えものが終わると、彼は僕を促して、地上へと出る階段を上った。
「何ですか、ここ…。」
彼の歩みに従って細い道を右へ左へと歩く
うち、『嫁・婿屋』と書かれた看板を目にした。店の扉は閉まっている。
「ああ、ここは…。生前に婚礼を控えていた若者や、大人になりきれずに死んだ者が、よく訪れると聞きます。つまり、あの世へ連れて行く結婚相手を買うことが出来ます。」
「え、人を買うんですか?」
僕がぎょっとしてそんなことを言うと、彼はまさか…と笑った。
「亡者にとっては生きた人間に見えるだけです。先生が作り出す幻に似ているかもしれません。女性なら男性を、男性なら女性を…好きに選べると聞きます。」
何でも、どこかの地方の風習でそういうのがあるとか…と、呟くように彼は言う。
「つまり、遺された親が、婚礼を控えて亡くなった自分の子を哀れに思って、『架空の結婚相手との婚礼の様子』を、絵にするのだそうです。あの世で幸せになれるように。もしかしたら、そういう儀式を行って貰えた亡者は、その後この街に来て、あの店で絵の相手に似た嫁や婿を買うのかもしれません。」
そんな話をしながら、彼は時折道の端に屈みこんでは、何もない場所に青菜を備え、水をかける。それを何度か繰り返していたが、説明してくれる気配がない。
「あの、さっきから何を…。」
すると、彼はようやく振り返って、言った。
「今私が供え物をしているのは、以前、人が亡くなった場所です。何の痕跡もありませんが、私が長くこの町で生きて来た中で、実際にこの目で見たのですから、確かです。」
「え…」
「事故や病気でこの世を去ったのではありません。ですから本当は…破滅とか消滅とか…そういう言葉が合うのかも…。」
僕は残り僅かとなった、盆の上の青菜を見つめながら…返答に困ってしまった。この人物の言っている意味は何だろう。
「いえ、失礼しました。もっと、正確に言いましょう。今我々が立っているのは、昔ある者が、居合わせた亡者に襲いかかり金品を奪おうとした場所なのです。あなたもご存じかと思いますが…亡者は多くの資金を持っています。それは、自分の未練や欲求を果たすために使う尊いもので…この説明は必要ありませんね。」
私はその事件が起きた時、偶然居合わせて…と、彼は屈んで手を合わせながら言った。
「ばっちり、見てしまいました。亡者を襲った者が、地面から突然現れた黒い触手のような闇に包まれ、そのまま地下へと引きずり込まれていきました。私は恐ろしくて何も出来ません。跡には何も…靴の片方すら、残りませんでした。」。
「地下って…地下ってどこに…。」
「わかりません。おそらく地下奥深くにある…この街とも、あの世とも、まったく違う世界でしょう。」
僕は正直、ぞっとした。夕べの、あの列車が向かっていた場所を思っても戦慄するが、地下奥深くの世界という表現には、もっと底知れぬ恐怖があった。
「これが街の掟を破った者の末路です。とても罪深い者ですが、だからと言って、手を合わせて悪いということはない。怒りもありますが、誰にも知られずに消滅したなんて、可哀そうに…。」
ああこの人は芯から優しいのだろうなと、僕は屈みこんだその後ろ姿を見ながら思った。しかしそれ以上に、掟を破ったことに対する罰の恐ろしさが、僕の体を支配していた。
先生…。
「それでもまだ、この者は幸せです。跡形もなく消えてしまったことにより、誰からも眉をひそめられることなく、済んでいる。」
そう言って、青い顔をした僕を連れて、また別の道端へと移動した。そこには、いかにも汚らしい染みがあった。形状はまるでアメ
ーバのようなーバのような…もっと嫌な表現
をすれば…酔っ払いが吐いた時にできた染みに似ている。
「嫌ですね…汚らしく、愚かな眺めです。」
彼はぽつりと言った。しかし、前と同じように手を合わせ、水をかけ、青菜を添える。
「まさか…これも人…!?」
そうです、と彼は立ち上がって言った。
「最も大きな掟破りをした者の末路です。」
「一番大きな掟…。」
僕の言葉は震えていた。
「そうです。それを犯した者はこのように、地下にも行けず、あの世にも行けず、あっという間に肉体がドロドロに溶けてしまう。そして、道端の汚らしい汚れとして、永久にここに残ります。私は正直…体が溶ける瞬間を見た時は…しばらく食事がとれなかった…。」
なんて空しい…と彼は悲しそうな声で言う。
「人は、こんな…こんな姿になってはいけません。」
「最も重い罪って…何ですか…。」
彼はその質問にしばらく黙って俯いていたが、やがて静かに口を開いた。
「この町で知り合った亡者をあの世へ送ることなく、自分の元に引き留めようとすることです。染みとなったこの者は女性で…この街で出会った男の亡者と恋仲となって…。もちろん人間ですから、様々な出会いを通して、友情を結んだり恋愛関係になったりします。その相手がたまたま、亡者だったと…そういうケースもあるでしょう。そのこと自体は罪ではありません。しかし、それを理由に、死者を手元に留めてはなりません。当たり前です。死者者は、一緒にはいられないのです。それは路地裏の街だけではなく、この世界で定められた最も大きな理です。中でも…」
僧侶はひと呼吸置いて、僕の目を見る。
「死者との婚姻…及び、交わりを持つことは、最も重罪です。」
その後、僕は僧侶と別れ、診療所とは違う
方向へ、とぼとぼと歩いていた。
自分の記事を見つけようと図書館に行ったのが、つい昨日の昼間のことなんて、ちっとも信じられない。あまり立て続けに色々なことがあったせいで、もう何日も前のことのような気がする。体は疲れ切っていたし、頭の中はいろいろなことでパンパンだ。
死者との婚姻は、最も重罪…。
そう話した後、彼が付け加えた話は、僕の心の芯を完全に壊してしまった気がする。
『亡者を手元に置くことは重罪だが、同時に誰しもが持つ、「その者と別れたくない」という気持ちは、考慮される』。
つまり、定められた期間内にその亡者を手放すことが出来れば、罪にはならない。その年月は、七年と七カ月。誰が決めたというものではなく、自然の摂理としてこの街に存在していると僧侶は語っていた。彼曰く、風が吹いたり、雨が降ったり、その雫が地面に落ちたり…そんなことと同じだと。
六号図書館は、昨日と何も変わらずそこにあったが、あの司書の女の子はいなかった。きっと曜日で交代するのだろう。年配の女性職員が無愛想な表情で座っていた。僕は同じように脚立を使って、例の一番上の棚から、目当ての新聞記事を探し始めた。日付は、四十年前。背表紙に書かれた数字を見ながら、僕はかの僧侶が話した最後の話を反芻する。それは僕にとって一番必要で、そして一番聞きたくなかった情報だ。
「少し話し過ぎてしまいましたね」
彼はそう言って笑った。
「参考になりましたでしょうか。」
ハイ、とても…と、僕は消え入りそうな声で答える。
「では、話し過ぎたついでに、もう一つ余計なおしゃべりをしましょうか…。たった一つだけ、刑罰を受けるまでの期間を引き延ばす方法があります。つまり、七年と七カ月以上、亡者と共に同じ時間を過ごすことができる方法です。ここにいる、染みとなった女性は、それを行うことは出来ませんでしたが。」
僕は何だか、嫌な予感がした。
「その方法とは、さ迷える生魂を保護することです。さ迷える魂とは…簡単に言うと、体が正常に機能しておらず、魂だけが抜け出してしまう状態のことを言います。」
幽体離脱とも、生死の境をさまようとも、表現できます…と彼はまた付け加える。
「肉体や精神のダメージは、同じように魂をも疲弊させます。つまり、かなり病んだ状態で、この街へとやってきてしまう。そのまま放っておけば、やがて街の奥へと流れて行くでしょう。そうすれば、肉体も死ぬ。しかし、何者かがそれを保護し、魂を癒し、やがて体に帰るまで見守ることが出来れば…肉体もまた助かります。それはつまり、人を一人救うということに繫がるわけです。」
それはこの街において、何よりも徳の高いことであり、善なのです…と、彼は微笑むことなく言った。
「どこの世界でも、生き物の魂より大切なものはありませんからね。」
しかし重要なのはここから先です、と彼の面持ちはより真剣になる。
「仮に『さ迷える魂を保護した者』が、『亡者と、その亡者をこの町に引き留めている者』であった場合…」
「魂を保護している間の年月は、七年七カ月にカウントされない?」
それを言うと、僧侶は深くうなずいた。
「その通りです。七年目に魂を保護し、五か月の間、魂を保護すれば…その五か月目から七年と一日、七年と二日…と数えてよい。」
「これかな…四十年前の、下半期…」
重たい心に大きな緊張が走る。それを押さえて、僕はその月の主な事件や事故を、くまなく読みつくしていく…。
誘拐事件、火災、政治の話…。
「あった…。」
とうとう…見つけてしまった。
『九月十三日夜十時。路面電鉄A駅において、大きな脱線事故が発生。死傷者を多数出し、大惨事となった。犠牲者の中には、当日、ホームにて列車を待っていたバレエダンサー、北原苺花さん(三〇)も含まれていた。彼女はD街大劇場の舞台公演「夜の果て」に出演した帰りであるとみて…』
その記事の上の部分に、楕円に切り抜かれた写真がある。その中で、一人の女性が微笑んでいる。まるで、カメオの表面に施された彫刻のように…。
細面で、物静かな雰囲気。肩のあたりで切り揃えられた、まっすぐな髪。それは間違いなく、僕が知るイチカさん、その人だった。
その帰り道、僕は再び高熱を出した。考えられる原因はたくさんある。水に落ちたことかもしれないし、例の列車に乗り込んだせいであの世の風に祟られた可能性もある。神経の疲れも少なからずあるだろう。とにかく、図書館からの帰り道でへたりこんでいるところを、例によって「あかりや」の町長に発見された。
「ちょっと、大丈夫?ねえ、家出でもしたの?さっき先生が血相変えて探してたけど。」
僕は朦朧としながら、家出なんか…と言い返したけれど、聞こえていただろうか。
「陸!」
その声に、ふうふうと熱い息をしてた肩が、ぴくりと震えた。町長から知らせを聞いた先生が、慌てて駆けつけたのだ。僕は顔を上げられなかった。具合が悪いせいもあるが、、どんな顔を向ければいいのか、分からない。
「ここにいたのか…散々探したんだぞ…。君は町長さんの所に来るのが好きだなァ…。」
さあ、もう帰ろう。先生の言葉一つ一つには、心配の色が混じっている。そのことが、僕にとって腹立たしく思われてならない。怒る気力があればこう言い放っていただろう。
先生が心配しているのは僕じゃない。僕という魂が手元から消えるのが怖いだけだと…。
「苺花に全部聞いたよ。」
先生はしゃがみ込んだままで、僕に言った。
「君はまた、彼女を無事に連れ帰ってくれたね。最も、彼女は自分が見たものを、全部夢だと思っているようだけど…。」
夢だと思ってる? あの列車での出来事を?あんなにリアルな体験だったのに?
「先生」
かすれた声で、僕はやっと、言い返した。
「苺花さんに、何をしたんですか?」
変なこと言うなよ、と先生は笑った。
「症状が出ている時のことは、ぼんやりとしか思い出せないんだろう…。」
そう言って、いつかのように背負い上げようとしたが、上手くいかない。たぶん、体型が平均にまで近づいていたせいだと思う。以前、先生が軽々とおんぶ出来たのは、その時の僕が今よりずっとやつれていたせいだ。
「いいです、自分で歩けます…。」
「無理無理…立てもしないのに…。」
そんな言い合いをしていると、町長が例の一輪車を出して来て、貸してやる…と言った。
「いくら具合が悪くてもさ、昼間っからおんぶされたくないじゃん。これに乗せなよ」
え、いいの?と先生は何の疑問もなくそれを借り受けるが、僕としてはどちらも嫌だ。何しろその一輪車は、以前僕がタコを運ぶのに借りたものなのだから。しかし抵抗する間もなく僕は一輪車に乗せられ、そのまま診療所に連れ戻された。その上、先生では背が高すぎて一輪車をうまく押せず、結果町長さんに運んで貰うというオチまでついて…。
それからの数日間、朦朧とした世界をさ迷う中で、何度か先生が僕の腕に注射を打った。以前、傷口を針で縫うのが上手かったので、注射も同じように出来るものだと思っていたのに、大外れだった。何度も針を刺し直されて非常に痛い思いをした。切り傷を縫合するのと、血管に針を刺し込むのとは違うらしい。
しかし、それより苦しい思いをしたのは、柔らかくて冷たい、手の感触だった。
「なかなか下がらないのね、可哀そうに…。食べたいものはある?」
その問いに、僕は黙って首を振った。声を出したら、泣いてしまいそうだった。きっと、僕と先生がこの女性と過ごす時間は、もう長くはない。
「ねえ陸。朝早くから診療所を抜け出して、どこに行ったの?服が生乾きだったそうね。気を付けなきゃだめよ、夏風邪は怖いのよ。」
そう言って額から離そうとした手を、僕は自分の両手で押さえた。相変わらず細い指。
「なによ、先生みたいなことして。そうそう、私ね…あなたと列車に乗って、そこから飛び降りる夢を見たの。スリル満点だった。」
その言葉に、僕の手の力が緩む。そこから、苺花さんの指がするりと抜けた。
「また様子を見に来るからね。食べられるようなら、後でお粥を作ってあげる。」
それだけ言って、彼女は部屋から出て行く。一人になって、ふいに涙がこぼれ落ちる…。
あの夜、列車から見た風景を、僕は怖いと感じた。でも彼女には、美しく懐かしい者に見えていた。その答えは簡単だ。僕は生きていて、まだ死にたくないと思っているから。彼女は既に亡くなっていて、この世に未練を持っていないから…。
たったそれだけのことだ。
僕の頭の中で、ジジッ…というラジオのノイズにも似た音がし始めたのは、ようやく熱が引き始めた日の朝だった。長く続くと思っていた梅雨はあっけなく終わり、窓からは夏特有の明るい日差しと、甘い匂いが入りこんでくる。片手で持てる大きさだった“院長”は、もはや両手でなければ持ち上がらない。 ジジッ…ジジジッ…。
その音が頭の中で鳴った時、脳裏には見たことが無い景色や映像が浮かぶ。その中には、前に苺花さんと行った港町の風景もあった。それはまるで、ラジオ番組を聞いていた時に電波が乱れて、違う局の番組が紛れ込んで来たような、そんな感覚だった。いよいよ、記憶を取り戻しかけているのだろう。だとしたら、僕がここにいられる時間は、もう短い。勇気を出して、先生と話さなければ…。
「あの夜、僕を助けたのは、何故ですか。」
体温計が平熱を表示したその日の午後、久々にベッドの縁に起き上がりながら言った。椅子から立ち上がろうとしていた先生は、突然の質問に、その動きを止める。ずっと考えていたことです…と、僕は俯きながら続けた。
「僕を見捨てられなかったから?それとも苺花さんとなるべく長く…一緒に過ごしたいからですか?」
すると先生は、困ったような顔をして、もう一度椅子に腰かけた。その動作はいつもの通り、長い体を折り曲げるようだった。
「妙なことを言うね。まだ熱で浮かされてるんじゃないか?」
もし本当にそうだったら。今までのことが全部夢で、僕は記憶を失っているだけの普通の人間だったら、どんなに良かったか…。
「とぼけないで下さい。もう僕には時間がないんです。」
「時間が無いってどういう…。」
先生がその言葉を言い終わらないうちに、僕は、頭の中で起こっていることを話した。壊れた映写機のように、かわるがわる映る知らない記憶たち。
「先生、僕は人間じゃなくて、魂なんですよね。この街は、生きた人間と魂とが、同じように存在出来る。だからこうして普通に暮らせる。僕の肉体はいまこん睡状態で、一年以上も眠ったままなんだ。」
「陸…どうして、そんな風に思う?」
僕はその質問に、思わず顔を上げた。 「、
「色々なことを通して、自分で気が付きました。先生、本当のことを教えて下さい。僕は怖くありません。」
すると、先生はいよいよ追い詰められた犯人のように、短く息を吐いた。
「その通りだ。君は、人間じゃない」
僕はその答えに、氷を飲み込んだような感覚を覚えた。自分で突き止めた答えだったが、まだ心のどこかで嘘であってほしいと思っていた。だから、怖くないと言った言葉は、嘘。
「じゃあ、このまま僕が消えてしまったら、先生とイチカさんの間に残された時間は、再びカウントダウンを始めるんですね?」
「…その話、誰に聞いた?」
沈んだトーンで、先生が言う。
そんなことはいいんですと、僕は首を振る。あの心優しい僧侶と先生の間にいさかいが起こるのは避けたかった。
「でも、全部知っています。まず、苺花さんはもう、この世の人じゃない。しかも純十年も前に亡くなっている。それから、亡者と一緒に過ごせるのは七年七カ月。それを引き延ばす方法は、魂を一つ救うことだ。先生はそのために、僕を拾った…。」
待ちなさい、と先生は声を大きくする。
「本当に全部知っているみたいだな…。」
全くその通りだと、先生は素直に頷いた。
「あの晩は、僕が苺花と出会ってから、ちょうど七年と六カ月三週間目の夜だった。つまり、どんなにあがいても残り一週間しかなかった。それまで、いろいろな方法を考えたけど、まったくいい手段は見つからなくて、ほとんどやけ酒を飲みに行ったようなものだ。でも、その帰りに君に出会った…。」
奇跡だと思ったよ…と先生は苦笑いする。
「生きた体から離れてきた魂には、めったに出会えないものだ。だから君を連れて帰れば、もうしばらく彼女を手放さずに済む。」
先生の口から出てくる真実は、先ほど飲みこんだはずの氷を、水晶のように成長させる。
「でも、僕だって医者だ。仮に、苺花とのことがなくとも、君を捨てて置いたりはしないよ。それは信じて欲しい…。」
僕だって信じたい。でも、成長した水晶の先が、体の内側に刺さって痛い。
「じゃあ…最初に会った日の夜からずっと、先生は僕に嘘をついていたんですね。あなたはずっと僕を、『記憶を失った普通の人間』として扱ってきた。何とか記憶を取り戻させようとしたり、交番に連れて行ったり…!」
そうだね、と先生は答える。
「僕は君に嘘をついた。理由は簡単だ。君があっという間に自分の正体に気付いたり、記憶を取り戻してしまっては困るんだ。そのためには、『たんなる記憶喪失の人間』だと、君に思い込んでいて貰わなければならない。その時間が長ければ長いほど、苺花をこの街
に留めておける。
「あなたは最低ですね。」
「はは…僕もそう思う。」
でも、途中からは違う…と先生は目を伏して言った。
「最初は、今言ったとおりだった。君を、自分と苺花のために利用した。でも…」
僕はその話を遮るように声を大きくした。
「いえ、先生は自分のためだけに僕を利用したんです。苺花さんは言っていました。最後のバレエを立派に踊りきって満足だったって。彼女の人生は短かったけど、心の中に未練はなかった。だから、先生のいう逃亡癖だって、嘘なんですよね?苺花さんは、『遠くへ行きたい病気』なんかじゃない。心のどこかで、自分があの世へ旅立たねばいけないことをちゃんと知ってた。それが、時々ああして感情の表面に出てくる。それだけなんだ。」
しかし、だからと言って、先生が自分のわがままだけで、まるでペットを飼うかのように、苺花さんを手元に置いたわけじゃない。それだけは違うと思う。僕は、彼女が時々口にする『先生』という一言に、どれだけ情愛がこもっていたか知っている。苺花さんだって、先生との生活は幸せなんだ。僕はそれを思うと、どうしても涙が出てくる。こんなに苦しいことってあるだろうか。
「まったく、君は賢いな…。でも、少しは僕にも言わせて欲しい。確かに、最初は君を利用した。それは謝っても済まされない。でも、君は僕ら二人の生活に、実に素直に溶け込んでくれた。何でも一生懸命やったし、いつも僕の後を追ってきた。もし僕らの間に子供があったら、こんな感じかと…そう思った。苺花もそうだと思う。いつか言っただろう、彼女が君の存在を喜んでいるって。」
僕はパジャマの袖で、ぐいっと目を拭った。
「僕の正体は、こん睡状態になっている真琴さんの兄だと気付いたのは、いつですか?」
それは随分後になってからだと、先生は答えた。
「君の見た目は、肉体とあまり似ていない。ただ、たち振る舞いや雰囲気に近いものがあった。事実を決定づけたのは、やはり君が港町に行った時。偶然居合わせた真琴さんには、一目で君を兄の魂だと見抜けたんだろう。あの時は本当に焦ったよ…。一番君に近い存在である彼女が触れれば、その場で記憶を取り戻してしまう可能性だってある。」
だからあの時、彼女の腕を掴んだのか。
「僕が肉体に帰ったら、どうなるんだろ。僕がここにいた時の記憶はなくなるのかな。」
「それは…」
先生は口ごもる。それはそうだろう、誰にもわからないことだ。この時口には出して言わなかったけれど、僕は泣いて叫びたかった。
消えたくない、このままここにいたい。
しかし、その感情を隠すように、僕はもう一つ、聞きたかったことを口にした。
「苺花さんとは、どこで知り合ったんですか?」
「そうだなァ…聞きたい?」
「ぜひ。」
「じゃ、話そうか。僕はもともと、大きな都市の、大学病院の研究室で働いていた。」
それがどういう場所なのか僕には全く想像がつかない。重厚で立派なところなんだろうけれど、そんな場所でこの人物が研究に勤しむなんて、似合わない気がする。
「でも、何だかとても疲れてね…人の心を知る方法を見つけようとしただけなのに、実際は研究員同士の足の引っ張り合いや、教授へのゴマすりばかりで…。そんな時に、一人の職員が大きなミスをした。その責任を取って、地方の病院に左遷されることになった。僕は、その人の身代わりを買って出た…。」
単に、その状況から逃げ出したんだ…と先生は笑った。
「その職場はね、この路地裏の街から少し離れた場所にある小さな病院だった。僕は何時間も電車を乗り継いで、最後に、君が夜中に行ったあの駅で下車した。当時、目的の病院からの最寄り駅はあそこだったんだ。車両から一歩降りてすぐにこの街は普通じゃないと気が付いた。面白がって出入りするうちに、個人病院に合った空き家を見つけたりして。」
「それって、この家のことですか?」
まあね、と先生はうなずく。
「その後、数年間の職務期間を過ぎて、大学に帰る日が来た。季節は秋の終わり頃の、肌寒い日でね。僕は、乗るべきだった路面電車がきても足が動かなくて…目の前で見送ってしまった。大学に戻りたくなかったんだ。」
結局、弱い人間なんだ僕は…と、先生はため息をつきながら言った。
「強い人なんか、なかなかいません」
すると、先生はおかしそうに笑い声をたてた。君は僕なんかよりよっぽど強いよ、と…。
「僕は去って行く電車を見ながら、ホームの椅子に座った。するとね、いつのまにか隣に一人の女性が座っていた。一瞬前まで確かに誰もいなかったのに…。すぐに、ああ生きた人間じゃないなってわかったよ。」
それが苺花さんだったのか。そういえば、彼女も同じことを言っていた。駅の椅子に座っていたら、隣に先生が座ってきたと…。
「彼女はじっと、レールを見つめていた。そこには、ススキが一本生えててね…。」
それを見た彼女は、どんな気分かしらね…と、言ったそうだ。
『ススキなんて、普段は雑草扱いなのに、十五夜の日だけもてはやされる。競争するように摘み取られて、ありがたくお月さまにお供えされる。それってどんな気分かしら…。』
それは確かに、苺花さんらしい言葉だ。
「僕はそのまま大学を辞めて、例の空き家を…つまりここを、個人病院に建て直した。この街の掟に関しては、すぐに耳に入った。でも、僕はそのまま、ここで苺花と暮らすことを決めた。この土地は風変わりだし日々忙しいけど…前にいた所よりはずっといい。」
「僕もそう思います。先生の居場所はここなんだ。だから…。」
約束して欲しいんですと、僕は絞り出すように言った。
「僕がここで『陸』でいられる間に、どうか、苺花さんを手放してあげて欲しいんです」
そんなことをしたら…と呟く先生の言葉を、僕は遮る。
「先生と苺花さんが過ごした期間は七年六カ月と三週間…それなら、僕がいなくなってもまだ一週間は一緒にいられる。確かにそうかもしれない。でも、僕は先生が素直にその一週間以内に苺花さんを手放すとは思えません。そうなったら…先生まであんな汚らしい姿になってしまう。そんなのダメです。先生はここで生きて行かなくちゃあ…」
すると、先生は今度こそ驚いた顔をして、君はそこまで知ってるのか…と半ば関感心したように言った。
「これだから僕は心配なんだ。まるで他人事みたいなことを言って…」
僕はこの時になって、ようやく周囲の気配に耳を澄ました。これまでの話を、苺花さんに聞かれたらどうしよう。すると、なんというタイミングだろうか…母屋からまた、あの悲しいメロディが聞こえてくる。先生はそれを聞きながら、無表情のまま呟いた。
「そんなことをしたら…僕はここに、たった一人、残されてしまう…。」
その晩、久しぶりに揃って三人で食事をした。僕は珍しく、苺花さんと一緒に台所に立つ。それはこの間、卵焼きを作って以来だ。食糧庫とにらみ合い、しなびたカブを使ってスープをこしらえた。切ったカブの大きさがまちまちになったけれど、苺花さんは大いに喜び、ご褒美にとご飯を大盛によそって貰った。病み上がりには少々多すぎる量である。
一方、先生はカブがあまり好きではないらしく、苺花さんにちくちくと叱られながら飲んでいる。それはありふれた日常の風景であり、明日も明後日も当たり前に続いて行くような気がした。僕の心には不思議と寂しさはなく、彼女の仕草一つ一つを目に焼き付けるように、見つめていた。
翌日、僕たちは三人とも、ごく普通の朝を迎えた。いつかのようにパンにジャムを塗って食べ、苺花さんは朝からお気に入りのグラスを出して来て、水差しからなみなみと水を注いでは飲んでいる。今さらだが、こうして改めて見つめても、苺花さんが亡者だとはまったく思えない。
先生はパンにジャムとマーガリンを塗りながら、アヒルの小屋を作ることを宣言した。
「え、先生そんなこと出来るの?」
「出来るよそれくらい。」
先生はきゅっと胸を張って言った。
「昔、鳥の巣箱を作ろうとして失敗したでしょ。あれより難しいのよ。」
「板とか釘とかあるんですか?ペンキもいりますけど。」
たまにだけど…とコーヒーをすすりながら先生が言う。
「市場通りでそういうのを扱うことがあるね。もちろんペンキも手に入る。」
「じゃあその時に見に行きましょう。あら、そう言えば朝顔市の時期ね。」
苺花さんが思い出したように言った。
「一株買ってきて、庭の低木に這わせるのがいいわ、夏らしくて…。」
「ひまわりは植えないんですか?」
診療所の周りに咲いたら、雰囲気が良くなりそうな気がする。
「植えるなら早い方がいいわ。あれって茎はぐんぐん大きくなるけど、蕾をつけてから花が咲くまで、日数かかるのよ。」
そう言ってほほ笑む彼女の表情は、再びじりじりと紛れこんできた記憶によって、とぎれとぎれにしか見えない。正直なところ、その現象は昨日よりも酷くなっている。しかし、それを知られてはならない。
食後、洗濯を始めた苺花さんを母屋に残し、僕は先生のあとを追って、診療所へ向かった。先生曰く、暑い時期には不思議と亡者が多くなるそうだ。
「陸、僕はね。」
渡り廊下を歩きながら、先生が言った。水辺の金魚が、水面で躍る。
「君との約束を、果たそうと思うんだよ。」
その言葉は、当たり前に迎えた夏の朝に、冷たい風が吹き込んだようだった。
「夕べはずっとそのことを考えていた。僕が、今のうちに彼女を手放さなかったら、彼女は強制的に路地裏の奥へと流され、僕は溶け崩れて、ここは無人になる。それは一番最悪のシナリオだ。もし君が自分の体に戻った時、ここでの生活を覚えていたら、なおひどいよね。君が訪れてくる場所がなくなってしまう。」
もし覚えていたら…。本当に、そうだったらいいな…。僕はここに来たい。
「それに、本当は僕だってあんな姿になりたくはない。今までは、ギリギリまで苺花と過ごせればいいとしか考えなかったけど…。溶け崩れるということは、きっと正当な死じゃないはずだ。そうなったら僕の魂は、どこへ向かうんだろう?きっと苺花と同じ所へはいけないと思う。」
そうなったら、結局僕らは三人とも哀しい思いをするじゃないか…と、診療所のドアを開けながら、先生は笑った。
その日の午前、亡者の姿はなかったが、その代わりに珍しい顔を見ることが出来た。
「夏風邪引いちゃって…」
そう語るのは、あのパスタ売りの女性である。胸には、以前会った時より随分大きくなったあの赤ん坊を抱いていた。しかし、風邪をひいたのは母親のほうであるらしく、先生が喉にライトを当てている間、僕は部屋の隅でずっとその赤ん坊をあやしていた。
「いててててて。」
あやしていた、というのはあくまでも職務上の表現であって、実際は抱き方もままならない。その子はその子で髪の毛を引っ張ったり鼻の穴に指を突っ込んでみたりと、全部終わった頃には僕はすっかりボロボロだった。
それを見た先生は、ここを小児科医院にしなくて良かったなァ、と笑っていた。
昼食は、夏野菜でサラダを作った。これは、僕が久々に市場に行って買って来たものだ。トマトやトウモロコシや、厚めに切ったキュウリが入っている。それから、ふかしイモに、バター。僕はそれが気に入って、胃が重いほど食べたような気がする。
苺花さんの飲む水の量は、今朝よりもずっと増えていた。
夕方近くになった頃だろうか。僕は、自分の部屋に置いていたアヒルの子を抱え上げ、渡り廊下へと降りた。気温が上がっていたし、池に放して泳がせてやろうと思った。でも、本当のところは、何かしていないと気が済まない。何かそわそわして、落ち着かない。
すると、ちょうどアヒルを落とそうとした頃合いで、母屋から苺花さんが姿を現した。
その表情を見て、僕の心臓が一気に跳ねあがる。彼女の目が、また遠くを見つめている。
「陸。」
彼女は困ったように、僕を見た。
「私…ちょっと…出かけようと思うの…。」
本当はここで、僕も行きますからと言うはずなのだ。僕がそう口にするのを、苺花さんも待っているけれど…。
「たまには、先生と二人で行かれては?」
僕は、声の震えを隠すのに必死だった。両手で抱えたアヒルの体温で、手の表面が湿っ
てくる。
すると、彼女はいたずらっぽく笑って、僕の頬に顔を近づけた。一瞬の柔らかい感触。
「先生にはヒミツね。やきもち焼くから。」
そして、そのまま診療所に入って行った。
それが、僕が見た苺花さんの、最後の笑顔になった。
僕はその晩、泣くことも出来ないまま、まんじりともせずに過ごした。薄いタオルケットに包まって、ただ、震えていた。母屋からはまったく何の気配も感じられず、隣の書斎に先生が入ってくる気配もなかった。アヒルの子もまた、物音一つ立てずに過ごしている。
僕は何度も何度も、もう嫌になるくらい、夕方起こったことを反芻し続けた。思い出すたびに、朝が近づく。
僕は、苺花さんが入って行ったドアがゆっくり閉まるのを見つめたあと、そのドアの近くまで行って、佇んだ。
「先生、私また…遠出したいの。でも、陸は一緒に行かないって。先生一緒に来て…。」
その時の先生の話し方は、本当にいつもと同じだった。心の冷静を保つ方法など、彼にとっては心得たものなのかもしれない。
「たまには一人で行きなさい。」
「え、でも…。」
「僕にはまだ、やることがたくさんある。」
「何よ、二人ともつれないのね。いつもと違うことを言って。」
先生は少し考えてから、実験だよ…と言った。
「僕らが一緒にいると…君はなかなか、行きたいと思う方向へ行けないだろう?それじゃあいつまでも、君が探している場所は見つからない。だから、たまには一人がいいよ。」
そう?と苺花さんは聞き返した。僕は、いつの間にか、ドアに寄りかかるようにして。ずるずるとその場に座りこんでいた。
とうとう苺花さんが、逝ってしまう…。
自然と流れてくる涙を、僕は止めることが
出来なかった。鼻をすすりあげることも憚られる。その音を彼女に聞かれてはならない。
「そんなことをしたら、私帰って来られなくなるかも…。」
「仕事が終わったら、探しに行くよ。」
本当?と苺花さんが不安そうに聞き返した。
「もちろん。約束する」
「だって…私がどこにいるか、分からなかったら?」
「そんなことあるもんか…。君が探していた場所が見つかったら、そこで待っていればいい。」
ぴい、と鳴き声を上げたアヒルに、僕は泣きながら、しっと声を出した。
「そう?じゃあ、待ってる。」
その時初めて、僕は苺花さんの足音を聞いた。彼女はゆっくりと診療所の出入り口へ進み、そしてドアを開ける。どうしよう、逝ってしまう。でも、今追いかけたらダメだ。泣いている顔を見たら苺花さんは不思議に思って、逝くのをやめるだろう。いや、僕はきっと引き留めてしまう。そうしたら、先生の決意はどうなる。先生は…先生はいま、一体どんな表情をしているのだろう。
僕が歯を食いしばっていると、そのドアが閉まる少し前、苺花さんは先生に向かって、こんなことを言い遺した。
「そうそう、白衣…今着ているもの以外は、全部きれいにお洗濯して、アイロンをかけておいたからね。そこの箪笥の二番目。」
「もちろん…分かってるとも…。」
僕ははっとして、一瞬涙を止めた。
まさか、苺花さん…。
「あなたはお医者なんだから、汚れたものを着ていては駄目よ。陸にもそう言ってね。」
僕は、そこで再び涙が止まらなくなった。苺花さんは、分かっているんだ。
「うん、必ず伝えるよ」
先生は、最後まで声を震わせることなく、その言葉を話し終えた。
「ありがとう苺花。」
そしてゆっくりと、ドアが閉まった。僕はとうとうこらえ切れなくなって、その場をかけ出した。でも、細い糸のような理性が、かろうじて、渡り廊下より外へ出ることをやめさせた。そこからは、敷地の門へとむかう彼女の後姿を、見ることが出来た。いつもと同じように細く、姿勢が良い。その体には、もう何度も見て来たあの銀の砂が、キラキラとまとわりついていた。
苺花さんの姿はその砂と共に、夏の夕暮れの風に乗って、美しく、はかなく消えた。
僕は手すりにつかまったまま、声を上げて泣いた。
先生はその晩、一度も診療所から出てくることはなかった。幸か不幸か、診療所を訪れる患者もなく、朝を迎えることとなった。
朝食は、どうするだろう。
こんな時にそんな心配をしている場合ではないが、僕にとって…いや、この家にとって大事なことだった。苺花さんはほとんど食べなかったけれど、いつでもちゃんと準備をして、揃って食卓につくのが好きだった…。
そんなことを思うと、どっと、これまでの思い出が頭の中に溢れて来る。嵐の夜のこと、アイロンをかけているところ、頬の感触。それは、昨日にもまして大きく僕の脳裏を支配し始めた記憶たちに、負けないほどだった。僕がここで過ごした時間は、対して長くはないと言うのに、こんな気持ちになるなんて。
重い体を起こし、切れ切れになりつつある視界のせいで、転びそうになるのを注意しながら、再びアヒルの子を抱いた。結局昨日は、池で遊ばせてやらなかったから、今日こそ放してやろう。おぼつかない足取りで下へ向かうと、診療所に先生の姿はなかった。窓から入った夏の朝日が、その空間をぼんやりと浮かび上がらせているだけだ。
僕は、苺花さんのいない母屋に行く気になれなくて、診療所のドアから外に出て、池の縁に立った。
いつだったか、苺花さんは、このふわふわした羽毛と黒い瞳が、僕によく似ていると言ったことがあった。そうかな?似てるかな?僕はこんなに丸くないんだけど。
そして、ゆっくり水に浮かべてやった。誰に教わったわけじゃないのに、気持ち良く水面を移動している。その姿に向かって、ごめんな…と謝った。
「大人になるまで一緒にいてやれないよ。」
そう、僕は苺花さんを失ったことに嘆いている場合ではない。今度は、僕自身を失う恐怖に耐えなければならない。その時は、もうすぐ目の前まで来ていることを、僕は今朝を迎えた辺りから感じ始めていた。
「どうして?」
突然そんな言葉が聞こえたので、僕はぎょっとして隣を見た。
そこには、いつかここを訪ねて来た、あの少女が佇んでいた。怪我をしていないのに膝が痛いと言っていた、あの子だ。
「最後まで飼わないの?」
僕がこの“院長”を、子犬のように捨ててしまうと思っているらしい。
「そうじゃないんだよ…今日はどうしたの?また、どこか痛む?」
少女はぶんぶんと首を振って、おばさんに会いに来た、と言った。
困った、なんて言おう。ちゃんと説明した方がいいのだろうか。もういないって…。
「苺花さんはね、旅に出たよ。ちょっと長い旅。いろいろなものを見に行くんだって。」
なんだ?心の中と違うことを言ってしまった。面倒だな、人間の精神って…。
すると少女は、ちょっぴり口を尖らせた。
「ねえ、どうしてこんなに可愛いのに、飼ってあげないの?」
そうじゃないんだと、僕は同じことを言った。
「あのね、本当の僕はね、今ベッドで眠っている。頭に大きな怪我をしてて…。僕はもうすぐ、その体へ帰らなくちゃいけないんだ。だからもう、ここにはいられないんだよ」
ふうん、と少女は分かったような、分からないような顔をした。
「あのさ…楽しい夢って見たことあるだろ?友達と遊んだり、空を飛んだりする夢。ああ、ずっと覚えていたいなって思っても、目を覚ましたら、忘れちゃうよね…。」
「うん…。」
「そういう時って、どうしたらいいのかな。今は、そんな気分なんだ。忘れたくないことが多すぎる。でもきっと…目を覚ましたら、僕はみんな忘れてしまう…。」
こんな女の子に、そんなこと言ってもしょうがない。でも、どうしても…僕は誰かと話したかった。こんな、とりとめのない話を。
「じゃあ、今こうしてアンナと話しているのは、お兄さんにとっては夢なの?」
そうか、名前はアンナって言うのか…。
「そうだね、そうかもしれない。長い夢。」
「ふうん…それで、この夢の続きをまた見たいの?」
「ウン、見たい。できるかな?」
その時少女が発した答えは、意外なほど呆気ないものだった。
「出来るよ、簡単だよ…もう一度ぐっすり眠ればいいんだよ。アンナはそうする。」
「えっ…」
「また夢の続きが見たいなあって思いながら眠る。次の日の朝、何の夢をみたか忘れちゃっても、起きた時に楽しい気分だったら、続きを見れた証拠だと思う。」
ああ、そうか…それでいいのか。なんて簡単なことに気付かなかったんだろう。僕はまた、溢れて来そうになる涙をぐっとこらえた。
「でも、寝るのは夜だから、ここには夜にしか来られないかもね。」
そうだね、と僕は笑った。
「ねえ、アンナはもう帰る…。おばさんが帰ってきたら、教えてね。」
ああしまった…嘘なんかつくんじゃなかった。心の中で深い後悔を感じて、僕はちょっとだけ、話題を変えた。
「アンナちゃん、苺花さんのこと、好き?」
少女は、うん、と頷いた。
「優しいもん。助手のお兄さんは?おばさんのことすき?」
しかし、アンナは僕の答えを聞く前に、軽やかな足取りで門を出て行ってしまった。猫のように気ままな子だ。さよならも言ってないじゃないか。
残念に思っていると、どこかから煙草の匂いがした。周囲を見回すと、いつの間にか、渡り廊下に先生の姿があった。
手すりを掴んでいる指の先から、風に乗って煙が流れている。
「先生、煙草…。」
はは、見つかっちゃったな…と笑うその顔は、一晩でやつれたように見える。泣いていただろうか?視界が霞みつつあって、良く見えない。
「弔いですか?」
「そう…。」
「苺花さんへの?」
すると先生は、煙を吐きながらもう一度、そう…と頷いた。
「ありがとう、これで良かったんだ。」
自分に言い聞かせるようにそう話す姿は、痛々しかった。
「僕だって…先生は、約束をちゃんと果たしてくれたんですから。」
先生がこちらを見つめて、僕らはバラバラになるね言った。僕は先生から見て、どんな姿に見えているのだろう。苺花さんが消えたばかりで、僕まで行くことになるなんて…。
「大丈夫です、先生。僕は戻ってきます。いつになるのか分からないけど…先生が生きているうちには、きっと。」
僕は強い口調で言った。先生はこの言葉に、怪訝な顔をしているだろうか?それとも喜んでいるだろうか?視界は、壊れた映写機で写した映画を、曇りガラスを通して見ているような感じだ。
「僕、いいこと聞いたんです。おかげで、ここに戻ってこられるような気がするんです。だから、待ってて下さい。」
陸…陸…ありがとう…。僕は君に、なにか償いをするべきだった…とても、苦しめてしまったからね…。
聴覚まで壊れ始めたが、確かに先生はそう言った。
じゃあこの“院長”を…どうか大人になるまで、育ててやってください。
僕はそう答えたかったけれど…。
最後まで言いきることが出来なかった。
まぶたが重い。息が苦しい。
泥の中に潜っているような暑苦しさと息苦しさを感じて、青年は一気に息を吸い込んだ。新鮮で湿った空気が、肺に入り込んでくる。
どこだ、ここは。
視界がぼんやりとしているが、白く塗られた木の天井と見慣れたライトに、明るい光が差し込んでいるのが分かる。そこは間違いなくその青年の家であり、自室だった。首はほとんど動かすことが出来ず、視界の端には点滴のパックが下がっているのが見えた。なぜ自分がこんな昼間にベッドの上にいて、こんなに体が重く感じているのか、なぜ点滴を受けているのか、まったく理解が出来ない。布団の上に投げ出されている自分の腕を持ち上げようとしたが、出来なかった。まるで骨も筋肉もないマリオネットにでもなったかのようにぶるぶると震え、力が入らない。
結局あきらめて、腕は投げ出したまま、手の平を握ってみた。同じく力が入らないが、何とか動く…。どうして俺はこんな状態になっているのだろう?混乱する頭をどう整理出来ずにいると、見知らぬ男と、義理の妹が慌てた様子で部屋に入ってきた。目に涙を浮かべている。何かあったのだろうか。彼女は青年の顔近くに座ると、ごめんなさい…と言いながら涙をこぼした。
男のほうは背が妙に高く、眼鏡をかけている。白衣は着ていなかったが、たち振る舞いからして医者のようだった。
彼は青年の傍らに座ると、持っていた鞄からいろいろと取り出し、布団をどけて胸の音を聞いたり、口の中を見たいから開けろと言ったりした。でも、顎が重くてなかなか大きくは開かない。医者は無理やりこじあけて中をチェックする。やがて、『自分の名前は言えるか』と聞かれたので、震える唇で名前を名乗った。すると今度は『自分(その医師自身のこと)は分かるか』と問うので、知らないと答えた。すると医師は、『君は一年と数カ月前、乗っていた馬車が事故を起こし、崖から海に転落した』と語った。その時、青年は頭に大きな怪我を負い、ずっと意識の無い状態だったのだと…。
さらにその医師は、自分は隣町で医師をしていると語った。事故が起きる前、数回会ったことがあるというが、やはり思い出せない。
そこまで話をして、医者は一枚の名刺を取り出した。重くて動かなかった青年の腕を目の前まで移動させ、力の入らない指に、その名刺を挟んだ。なるほど、これなら読み易い。
心療内科医 歯車大輔。
青年は不思議と、その名刺には見覚えがあった。かすれた声でそう呟くと、医者は目を大きく見開き、そんなはずはないと否定した。『君は僕を覚えていないのに、僕の持っている名刺にだけ、覚えがあるわけがない』と。
いいえ…と青年が答えたところで、急激な眠気に襲われた。それと闘うように、話を続ける。
この名刺は、いつもポケットに入っている。
すると、医師の表情が固くなった。自分は何か妙なことを言っただろうか。
ポケットって、何の?と妹が問うので、青年は白衣だと答えた。すると、白衣なんて、この家にはないという。
そんなことはない。綺麗にアイロンをかけたものが、箪笥の二番目に、いつでもきちんと入っている。
青年がそう語ると、見開かれていた医者の目に、大粒の涙が浮かんだ。青年はそれを見ながら、再び瞼を閉じる。やがて訪れた昏睡でも何でもない、『普通の眠り』…。数時間後には、再び目を覚ますことが出来るだろう。
窓の向こうでは、誰かが弾くピアノの音が、繰り返し繰り返し流れていた。