【1‐1】 夢(げんそう)を右手に込めて
この物語は、ある程度の史実を織り交ぜながらも完全にこの現実世界とは完全に別の未来を歩んでいる別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家とかその他固有名称で特定される全てのものとは、何の関係もありません。何も関係ありません。
つまり、この物語はフィクションです。
遠くから罵声が聞こえた。
その声は少年の鼓膜を震わせ、脳に言葉の意味を認識させる。
「畜生……何処に隠れやがったァ!」
怒り狂った、という表現が当てはまるような怒鳴り方だった。
少年と同い年くらいの体育会系の顔をした男があちこちを見回しながら歩いていた。黒いパーカー付きのコートを着ており、その黒い服は血まみれだった。
「……ッ」
階段の隙間から下層を覗き込んでいた少年は口を震わせながら静かに呼吸する。
どの階もあの男ともう1人別の男による攻撃で火災が発生している。
煙も発生しているので長居は禁物だ。
(やらなくっちゃならないんだ……)
少年は歯軋りして己の身体に力を入れる。
そして口と同じように震えていた両脚を叩いて震えを止める。
(俺は死ねない。俺は死ねないんだ……)
呪文のようにその言葉を心の中でひたすら反復させる。
少年はしゃがみ状態から半分だけ立ち上がる。
そして傍に持ってきていた石膏の頭の部分に右手で触れる。
ここに来る道中、美術室で拝借したものだ。
(覚悟を決めろ、栂村 啓介!)
少年――栂村 啓介は意を決して石膏を両手で持ち上げる。
狙いは下層でウロウロしているあの男。
「……行くぞ」
啓介は小さく呟くと石膏を思い切り地面へと向けて投げつける。
4階から落とされた石膏は1階へと吸い込まれていく。
そして石膏は地面と衝突し、派手な音を辺りに響かせた。
「うおわっ!?」
男の驚愕の声とほぼ同時に啓介は走り出す。
あの様子では直撃していないようだが、それは計算のうちだ。
「うおおおおおおおおおおッ!」
啓介は階段を全速力で駆け降りる。
階段を数段残したとこで飛び降りる。
「そこにいやがったか、テメェ!」
男は上を向いて啓介の姿を確認すると怒りながら階段を登ってくる。
1階から2階へ、4階から3階へ。
男よりも先に走り出した啓介の方が少しだけ多く走って、2人は対峙する。
「俺の弟の分、しかと受け止めやがれェ!」
「こっちの台詞だァ! アリエルの分、ボコボコにしてやらぁッ!」
2階の踊り場で向かい合い、互いを潰す為に突っ込む。
啓介は壁に設置されていた消火器を右手で掴む。
男はコンバットナイフを左手で取り出すと啓介へと向ける。
「テメェに弟殺された怨み、晴らしてやる!」
男は怨みを込めた叫びと共に右手の人差し指と中指をくっ付けて啓介のほうへ向ける。
すると指から白い粘着性の高そうなクモの糸が何十本と発射され、クモの網のように組まれて啓介へと襲い掛かる。
「ちッ!」
啓介は相手の超能力の厄介さに苛立ち、舌打ちをする。
しかし何も手を打たない訳ではなく、己を捕獲しようとする網に向けて持っていた消火器を投げつける。
そして啓介を捕獲し損ねたクモの網の横を通って男の元へと走っていく。
「クソがッ!」
「テメェがな!」
啓介は左手で握り拳を作り、拳を振り上げる。
殴りに来ていることを一瞬で察知した男は左手に持っていたコンバットナイフを啓介目掛けて振るう。
「何ィ!?」
しかしコンバットナイフは啓介が右手を伸ばし、受け止める。
コンバットナイフの刃が右掌の肉を引き裂いて突き進む。
「感謝しろよ? すぐにお前も弟と同じ場所へ送り届けてやるからよッ!」
啓介はコンバットナイフが貫通したままの右手で男の左手の自由を奪う。
そして拳を男目掛けて振り下ろす。
「ふざけんなぁッ!!」
男は最後の悪あがきとでも言うのか右手からクモの網を発射する。
普通の人間が触れれば二度と取れなくなるほどに強力な粘着性を有したその網は啓介を襲う。
「うおおおおおおおおおっ!」
しかし彼は恐れなかった。
全力を出して目の前の男の顔面に己の拳を叩き込むことだけで心が支配されていたからだ。
クモの網は彼の左手に吸い込まれるように粘着する。
しかし、クモの網は男の予想とは裏腹に左手に触れた瞬間にナイフで斬られたかのように千切れ、四散した。
男の顔が驚愕に包まれる。
「なっ――!?」
普通の人間ならば男の予想通りの結末だったかもしれない。
しかし、啓介は“もう”人間を辞めてしまったのだ。
拳はクモの網を物ともせずに突き進む。
啓介は全霊を込めて叫んだ。
「地獄に行って……閻魔の前で懺悔してこいッ!」
「!!」
拳は男の鼻骨に直撃する。
男は顔を歪ませながら奥へと吹き飛ばされる。
そして後ろのステンレス製の水のみ場に頭から突っ込む。
「はぁッ……はぁッ……」
啓介は顔を苦痛に歪めながら左手で右手からコンバットナイフを引き抜く。
大量の血が床に貼り付けられる。
それと同時に啓介はふらつく。
「クッソ……フラフラする」
右にある窓ガラスに右肩を押し付けてそのままズルズルと床へと落ちていく。
肩で息をしながら正面の水飲み場を凹ませながら倒れている男を見る。
(動かない)
男は白目を剥いて気絶していた。
死んだふりをしている様子もない。
つまり、これは――
「勝ったんだ」
啓介はジリジリと鳴り響く火災探知機のサイレンを脳裏に焼き付けながら意識を薄れさしていく。
(あぁ……意識、が……)
薄れていく意識の中、啓介は全ての元凶たるあの少女の顔を思い出していた。
そう、全ての始まりは5日前の晩になる。
全てはあの偶然から始まった――。
『貴方は運命ってどう思ってる?』
少女の声が、聞こえた気がした。