『冷たい方程式』
『冷たい方程式』
第1話:成分表示のパズル
第一文芸編集部の第一会議室は、中央制御の過剰な空調によって摂氏十六度にまで冷やし込まれていた。天井の吸気口から絶え間なく吹き下ろす冷気は、今朝、安物の自動販売機から紙コップに注いだ合成コーヒーの、焦げたプラスチックのような酸っぱい臭いと混ざり合い、重く澱んでいる。
「——Webのブックマーク数は四万二千。直近の週間ランキングでは三位を維持。記号(属性タグ)としての機能性は完璧です」
若手編集者が、手元の端末の数値をプロジェクターのスクリーンへ叩きつけた。青白い闇の中に浮かび上がったのは、現代読者が求める「ストレスを排した安易な糖分」を記号として並べ替えただけの、歪な文字列だった。
『追放された元社畜の夏野菜ガチャ無双〜幸運値が「999999」になったので、品種改良なしで異世界を農業革命する超余裕スローライフ〜』
統制席に座る氷室統括編集長は、一分の隙もないグレーのスーツの襟元を気にすることなく、指先だけでコンソールを叩いた。彼の細い金縁眼鏡の奥にある瞳は、人間を観察する目ではない。ただ流れるPOSデータの数字だけを測定する、冷徹なセンサーのレンズだった。氷室は、その作品の一冊十万字に及ぶ原稿など、一行たりとも目を通していない。
「……元社畜と脱サラ農家の設定が、大人の社会常識として完全に矛盾しているな」
氷室の口から出た声には、人間の感情がもたらす高低差がなかった。周波数千二百ヘルツの、平坦な音素の羅列。
「さらに幸運値が九十九万を超えて百パーセント特賞が出るなら、それは農業でも確率のギャンブルでもない。ただの壊れた自販機のボタン連打だ。最高の能力を手にして『何がしたいのか』という目的(哲学)が完全に虚無である」
「は、ははっ……ですが編集長!」
若手編集者が額に嫌な脂汗をにじませ、声を裏返らせて食い下がる。
「今のタイパ読者は、主人公が泥に塗れて試行錯誤する『プロセス(過程)』など読みたくないのです! 最初の三ページで全肯定されたい。社会常識のなさは、コミカライズ(漫画版)の『絵の力』という糖分が偽装して売ってくれます!」
「……わかっている」
氷室は無造作に、承認の電子印をコンソールに叩き落とした。画面上で緑色の「APPROVED」の文字が冷たく明滅する。
「文字データのままだと三話で出がらしになる薄さだが、漫画の権利(種)を押さえるためのコストとしては許容範囲内だ。採用。一巻目の表紙には最高級のイラストレーターを配しろ。……次だ」
スクリーンに、次の付箋が投射される。
『左遷された錬金絵師の国崩しパスパス生活〜能力値【落書き】が限界突破した結果、描いた聖女が実体化して世界経済を大爆破するお仕事ドラマ〜』
「これも採用。タイトルが『ティアムーン』のような逆行スタート型に見えるが、中身はただの出オチパズルだ。前半の二週間の数字(初動)でアホから小銭を毟り取るには十分だ。中身の十万字は、適当に薄めさせておけ」
パチ、パチ、パチ。
キーボードの乾いた音が機械的に響く会議室の片隅で、中堅編集者の榛名遠次は、熱を持ったコンソールの金属縁を白くなるほど強く握りしめていた。彼の右手の指先には、作家が数ヶ月、血を吐く思いでキーボードを叩いて紡ぎ出した「四百字詰め原稿用紙二百五十枚分の肉体(十万字)」を、深夜まで赤ペンで削り、リライトさせ続けたことで盛り上がった、消えないペンだこが固く固結している。
「……編集長。次の議題、私の持ってきた企画を」
榛名が喉の引っかかりを押し潰すような掠れた声を絞り出し、自らが二年間、作家と泥にまみれて改修を重ねてきた「緻密な伏線と重厚な経済描写」を持つ本格戦記小説の企画書を差し出した。
氷室は眼鏡のブリッジを中指の背で静かに押し上げ、榛名の十万字の原稿を、一度も見ることなく冷淡に切り捨てた。
「不要だ、榛名。その作品には、読者が一秒で快感を理解できる『成分表示』が存在しない。……これより、第二議題へ移行する。前月に出した新刊の、実数データの引き算(決算)を始める」
会議室の照明が一層落とされ、スクリーンには二週間前に発売されたばかりの榛名の担当作の、冷酷な「レジ通過数(POSデータ)」が投射された。宇宙船の燃料計算の如き、一文の狂いもない『冷たい方程式』の秒読みが、今、静かに幕を開けた。
第2話:損切り(カット・オフ)の基準
「——以上、今期の新規放流は三十六パーツで確定。……これより、第二議題『継続審議』へ移行する」
氷室統括編集長の平坦な声が、会議室の冷気を一段と引き締めた。室温は十六度から変わらない。若手編集者たちが新刊の企画を通した安堵の汗をハンカチで拭う中、部屋の全照明が落とされ、プロジェクターのスクリーンに血のような赤黒いグラフが投射された。
画面に躍り出たのは、前月に発売されたばかりの新刊タイトルと、その横に刻まれた残酷なまでの実数——「発売二週間のレジ通過数(POSデータ)」である。それは、宇宙船の重量をコンマ数グラム単位で冷酷に測り出す、逃げ場のない『冷たい方程式』の天秤そのものだった。
「加藤著、『星州の監査官』」
氷室の指先が、コンソールの上で滑らかに滑る。画面に映し出されたのは、榛名遠次が担当した一冊十万字の本格歴史ファンタジーだった。
「発売から十四日間の消化率、二二パーセント。当期の損益分岐点(重版ライン)に対し、実数で四百十二部不足。……システムコード『一巻切り(戦闘損失)』を発令。二巻の製作は不許可とし、作者への次回打ち切り通達を速やかに事務処理せよ」
「——お待ちください、編集長!」
榛名は椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。安っぽい合成皮革のシートがギシッと不快な軋み音を立て、会議室の全員の冷ややかな視線が彼に集中する。
「『星州の監査官』の十万字は、前半の二週間はあえて『謎』を仕込んであるんです! 三話までの安易な出オチや記号に頼らず、一冊十万字の構成力を極限まで高めて、後半の四巻目で一気にすべての伏線が回収される『プロセスの強度』を構築している! 作者は寝る間も惜しんで、四回もリライトしてこの十万字の肉体を削り出したんだ! 読者がこの重厚さに気づき始めるまで、せめて二巻目の製作猶予を!」
榛名は、熱を持った机の木目天板に両手を強く叩きつけた。痺れるような衝撃とともに、右手の指先にあるペンだこが、十万字の原稿用紙と深夜まで格闘し続けた生々しい熱量を持って脈打ち始める。
だが、氷室は眼鏡のブリッジを中指で静かに直すだけで、榛名の顔を直視することすらしなかった。
「君の言う『十万字の強度』など、この市場においては単なる『過剰重量』にすぎない」
氷室の声は、どこまでも低く、澄み切った無機質さを保っていた。
「現代のタイパ読者は、ハズレを恐れて三ページで快感が来なければブラウザを閉じる。前半の溜めの部分(伏線)など、彼らにとってはただの『不快な停滞』だ。読者がその十万字のプロセスを読み終える前に、そもそも本が店頭から消滅する。物理法則(POSデータ)は、個人の情熱や努力など一切考慮しない」
氷室はコンソールのエンターキーを無造作に叩いた。画面に容赦なく「TERMINATED」の赤文字が刻まれる。
「二週間で重版ラインに届かなければ、その作品は不良在庫として即座に処理される。それが我が社の、そしてこの出版業界の絶対の方程式だ。……加藤の次回作の進行を完全に停止せよ」
「編集長……! あなたは、作家の人生を……十万字の血肉をなんだと思っているんだ!」
「ただの『確定損失』だ」
氷室は冷酷に言い放ち、次の作品のデータへと画面をフリックした。
「榛名。作家の命を救うために、会社の帳簿に数パーセントの赤字を抱え込むことは不許可である。……次だ。一巻切りが確定した空席に、第一議題で選ばれた新しい『出オチのパズルタイトル』を機械的に繰り上げろ」
榛名は言葉を失い、喉の奥から乾いた酸っぱい胃液がせり上がるのを感じながら、力なく膝を折って座り直した。
スクリーンには、榛名の担当作から赤黒い「打ち切り」のスタンプが押され、その死体を踏み越えるようにして、先ほど第1話で決まったばかりの薄っぺらい流行りのタイトルが、次の枠へと滑り込んでいくのが見えた。作家が数ヶ月、血を吐きながら紡ぎ出した十万字の重量は、この会議室の冷たい方程式の前には、一瞬で消去されるべき単なる「マイナスの数字」に過ぎなかった。
第3話:風穴は空かない
発売からちょうど十四日目の朝、榛名遠次は王都中央駅の構内にある大型書店に立っていた。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける自動ドアのすぐ脇。二週間前には確かに平積みされ、榛名が担当した十万字の情熱の重みを主張していたはずの『星州の監査官』の山は、跡形もなく消え去っていた。
「——ああ、榛名さん。すいませんね、データ(POS)が動いていない新刊は、自動で棚から外す契約になってるんですよ」
エプロンを着た店長は、ハンディ端末の画面から目を離さずに淡々と告げた。端末がバーコードを読み取るたびにピッ、ピッという電子音が無機質に響き、その指先が画面をフリックするたび、売れない新刊たちのシリアルコードが「返品」の箱へと機械的に仕分けられていく。
平積みされていた特等席には、すでに昨日第一話の会議で放流が決まったばかりの、あの『元社畜の夏野菜ガチャ無双』の1巻目が、美しく洗練されたイラストレーターの絵表紙をこれみよがしに見せつけて、うずたかく積まれていた。
「ハズレ(プロセス)を読みたくない読者はね、こういう成分表示の綺麗なやつしか買わないんです。中身の社会常識がどれだけバグってようが、二週間で小銭になれば店としてはそれでいい。……お宅の十万字のガチな戦記、最後まで読めば鳥肌が立つ伏線回収があるってのは知ってますよ。でもね、その一・二秒の奇跡を待つほど、うちの棚の『容積』は甘くない」
店長は短く会釈すると、次の入荷段ボールをカッターの刃で引く乾いた音とともに切り開き、奥へと去っていった。
風穴など、最初から空くはずがなかったのだ。
いくら作家が命を削って十万字の強度を紡ぎ出そうと、いくら編集者が寝る間を惜しんで伏線を仕込もうと、読者が最初の3ページでブラウザを閉じる「タイパの檻」に囚われている以上、その十万字は発射される前に世界から強制排除される。
それが、現代の出版インフラという名の、冷酷な方程式の結末だった。
◆
午前二時。第一文芸編集部のフロアは、完全な無音の領域と化していた。
天井の空調が吹き出す冷気だけが、榛名の首筋を嫌な感触で麻痺させていく。手元に残された合成コーヒーの紙コップはすっかり冷めきり、一口含むと、焦げたプラスチックの酸っぱい苦味だけが舌の裏側にねっとりと張り付いた。
榛名の前には、一冊の分厚いB5ノートが置かれていた。
『星州の監査官・第2巻構成案』。
打ち切りを告げられた夜、作者が血の涙を流しながら「これからの大逆転劇をどうか見てくれ」と、震える手で榛名に託していった執念のプロットだった。
だが、この部屋にいるのは人間ではない。ただの処理装置だ。
榛名はゆっくりと立ち上がり、ノートを抱えてフロアの隅にある大型シュレッダーの前へと歩みを進めた。
ガチリ、と主電源を入れる重い音が響く。刃の回転するブーンという低音が静寂を切り裂く。
「……すまない」
榛名の口から漏れたのは、乾いた、惨めな謝罪だった。
榛名はそのノートを、一切の躊躇いを排して、駆動を始めた鉄の刃の中へと垂直に差し入れた。
バキバキバキバキバキッ……!!!
静まり返ったフロアに、硬い紙の束が引きちぎられ、解体されていく凄絶な断末魔の音が鳴り響いた。紙粉が小さく舞い上がり、インクと裁断された紙の匂いが鼻をくすぐる。
作者が数ヶ月、キーボードを叩いて指先を擦り切れさせて紡ぎ出した、これから生まれるはずだった「次の十万字の血肉」が、ミリ秒単位の冷徹さで、ただの無価値な白い紙くず(廃棄資材)へと解体されていく。
風穴など、空かない。
奇跡のハック(逆転)も、システムを内側からオーバーヒートさせる正論の牙も、POSデータという絶対の数式の前には、一瞬の火花すら残さずに圧殺される。
一分後、シュレッダーのダストボックスには、何万もの言葉の死体が、ただの容積の引き算の結果として静かに積もっていた。
榛名は主電源を落とし、歪んだ視界のまま、自分のデスクへと戻った。
椅子に深く身を沈め、右手の指先にあるペンだこを強く、強く握りしめる。
皮膚の奥の旧傷のような鈍痛だけが、かつてそこに本物の熱量が存在していたことを教えてくれた。
だが、彼はもう泣かなかった。
感情を殺し、冷え切ったPCの画面を開く。
そこには、Webサイトのランキングから抽出された、次のアホらしいブクマ数のデータ(大帳)が、無機質にスクロールされていた。
榛名は立ち上がると、誰もいないホワイトボードの前へと歩み寄り、新しい「成分表示タイトル」の付箋を、定規で測ったように整然と貼り付け始めた。
自らの中の人間性を損切りし、自壊を続ける歯車の一部となって、また次のパズルを並べる終わりのない日常。
窓の外、首都の暗い夜空の向こうでは、凍てついた星々が、一文の狂いもない世界の冷たい方程式を証明するように、無感情にまたたき続けていた。
(『冷たい方程式』全3話・完)
【あとがきに代えて】
最後までお読みいただきありがとうございます。
『冷たい方程式』の構造解説
本作のタイトル『冷たい方程式』は、トム・ゴドウィンのSF古典名作に対する最大級のオマージュであり、同時に「現代のコンテンツ消費社会」に対する冷徹な反転です。
ゴドウィンの原作における「冷たい方程式」とは、「1gの重量超過が宇宙船の燃料計算を狂わせ、密航した少女を冷酷に宇宙の虚空へ放逐する」という、人間の感情を一切顧みない絶対的な物理法則(自然の理)でした。
そして、本作においてその方程式を駆動させているのは、宇宙の物理法則ではありません。現代の読者が抱く「ハズレ(プロセス)を読みたくない」というタイパ至上主義、そして出版社が盲信する「発売二週間のPOSデータ」という、人間が自ら作り上げた歪んだ商業の数式なのです。
本作の主人公・榛名遠次は、作家が紡ぎ出した「十万字の肉体」を信じ、その強度と伏線回収によって、出版社の冷酷なシステムに風穴を開けようと泥臭く抗い続けました。
しかし、現実の方程式は、その正論すらも「過剰重量」として淡々と処理し、惨殺していきます。
なぜなら、現代の市場において、仕組まれた伏線を味わうために必要な前半の「溜め(ノイズ)」は、最初の3ページで全肯定されたいガチャ消費世代の読者にとっては、ただの「苦痛」でしかないからです。
伏線が回収される前に読者が脳内で読むのをやめ、二週間の時点で本が店頭から物理的に完全消去される以上、十万字の強度は誰の脳にも届かないまま、シュレッダーの刃の中で白い紙くずへと解体される運命にあります。
物語の結末に、奇跡の逆転劇など一文字たりとも起きません。
榛名は風穴の空かない冷たい暗闇のなかで、自らの中の人間性を損切りし、自壊を続ける歯車の一部となって、また次の「成分表示タイトル」の付箋をホワイトボードに貼り続けます。
「何のために生きるか(目的)」を失った、おままごとのような出オチタイトルがベルトコンベア式に乱発され、一発当てては一巻切りで死体を積み上げていく終わりのない消耗戦。
本作が提示した「風穴は空かない」という結末は、安易な全肯定チートに溺れる現代のエンタメに対する、最も泥臭く、最も社会常識と物理の解像度に裏打ちされた、本物の文学的鉄槌(決算)なのです。
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