【第八十六話 笑顔の裏】
「おや~?」
【茨の劇団】の青年が、ゆっくりと振り返る。
まるで軋む音が聞こえてきそうなその動き。
張り付いた笑顔の青年は、目を細めてアリスたちに向き合った。
とくんっ。
心臓を握られ、徐々に圧迫されていく感覚をアリスは覚えた。
かまびすしいほどに警鐘を鳴らす脳。
逃げろと震える両足。
――何故だ。
茨の劇団といえば、テンプル協会と同じように治安を守る市民の味方。それなのに、この青年から放たれているこのおぞましい気配とはなんなのか。
「見ない顔ですねぇ。旅行で、来られたんですかぁ?」
清涼な声色には、どこか粘つくモノがあった。
深く執着しているような、執念深い何かが。
「え、えぇ。昨日、こちらへ」
「ふぅん。ま、確かに何かが違いますねぇ。なんだろうなあ」
嗅ぎ回るように、アリスを目で舐める青年。
アリスは二歩、下がった。
アマクサが前に出る。
先ほどまで纏っていた柔らかい雰囲気は無く、トゲまみれのように見えた。
瞳が再び開かれ、刃のように鋭い眼光を飛ばした。
「茨の劇団ともあろうものが、乙女に対し不躾とは思わんか?」
「あっ、これは失敬。いやあ、昔からニオイで人を判断する癖があって」
青年は口元を緩め、ヘラヘラと笑いながら頭を掻いた。
金色の双眸が、くすんだ陽のもと輝く。
しかし、光はなかった。
「この方は、どうかなさったのでして? いえ、ほかの人も! 話ぐらいは通じたはずでしたのに……」
アリスの趣味がひとつ、人間観察。
道行く人々を眺め、ワンダラー家の新事業のアイデアを考えるというもの。
それが幸いしたか、ここスーノス地区の特色を把握できた。
狂信的でありながら、会話によるコミュニケーションを重要視している。
ボディランゲージを極限まで排した交流。
だからこそ、今日の人々は明らかに珍妙だった。
「う~ん。洗脳、っぽいですねえ。大罪か、その眷属か。少なくとも砕獣の仕業ではないっぽいですけど」
「洗脳とな。はて、如何様に」
「簡単ですよ。信仰心を捻じ曲げるんです」
何でもないように、青年は言った。
「捻じ曲げる、ですって? ですが、人の心につけ込む魔法なんて開発されて……」
「誰も魔法だなんて言ってませんってば。コトバ、ですよ」
金色の瞳を細め、青年は人差し指を口元に運んだ。
唇をつつき、強調するように「コトバ」という単語だけを繰り返した。
アリスの肩に、屍のように歩む中年男性がぶつかった。
だが、男性は意に介することなく引きずりながら歩いている。
「うん。これは厄介ですねぇ。この様子じゃあ、街のみんながやられたみたいです」
青年がため息交じりに言った。
「わたくしたちは、どうすれば……」
「ん、そうですね。消えてくれませんか?」
瞬時。
アマクサが刀を構える。
「あ~っ、待って待ってごめんなさい、言葉を間違えました! 帰ってくれませんかって言いたかったんですよ! これからお仕事なので!」
「其方は、あまりにも胡散臭すぎる」
「あ、アマクサさん、落ち着いてくださいまし! 今はお屋敷に戻りましょう。ヴァレンさんには叱られますが、事情を話せばきっと――」
アマクサが、横目にアリスを見る。
目を閉じ、カシャンと、乾いた冬空の下に音が響かせた。
「致し方あるまい。帰るとしよう。ごはん、残ってるかな……」
アリスを抱き上げ、アマクサは風のように走り去った。
「……いるね、あの様子だと」
青年が、笑った。
─────────◇─────────
手が震えていた。
視界の両端に移る、差し出されたスプーン。
右からは、パセリの散らされた魚のスープ。
もう片方は、キノコのような得体のしれない紫色のスープ。
カレンと、ローラだった。
「これ、食べてみてよ。あ~ん」
「ワタシがアナタを想って作ったモノです。四の五の言わずに食べなさい。ほら早く。さっさとしろっ」
究極の選択と言っていいだろう。
カレンを選べば、ローラは「上書き」と称して口の中に劇毒をねじ込んでくる。
ローラを選べば、再び天界で同僚たちの世話になる。
リウは今、マチィナに背中を摩られながらバケツに頭を突っ込んでいた。
逆カタツムリである。
屋敷内に張り巡らされた暖房のせいか、ロニアの額から一筋の汗が流れた。
心臓が早鐘を打つ。
この選択が、これからを左右するといっても過言ではない。
厨房で袖を捲ったヴァレンティノスが、眼鏡を上げてため息をついた。
「はぁ……。食を押し付けるの感心しませんね。自分のペースで味わい、自分の趣向で選ぶからこそ『おいしい』はあるのです」
キラリと輝く眼鏡の光に、ローラとカレンは目を眩ませた。
「うぅ、仰る通りっ!」
「このっ、元虚飾の癖にっ!」
「え? 虚飾って……」
ヴァレンティノスが咳払いを挟んだ。
「コホン。誰が姑息ですか。失礼ですね。言葉ひとつで人の認識など容易く歪むのですよ。ほら、ロニア様が困っているでしょう」
「ありがとう、ヴァレンおじさん……!」
その言葉に、ヴァレンティノスは大きく目を見開いた。
おじさん……。おじさん……。
振り返り、皿を洗っているロムレスの肩を力強く握った。
「ロムレス……。私、そんなに老けてますか?」
「皴が増えたな」
「なっ、取り消せェェェ! 取り消せよォオオ!」
ロムレスに掴みかかるヴァレンティノス。
冷や汗を浮かべ、腕にしがみつく彼を見つめる赤い目が細められた。
「ちょっ、言ったの俺じゃねぇよ!? キルちゃん落ち着けって!」
この騒がしい朝食を静観していたセスが深く息を吐き、立ち上がる。
目元を指で押し込みながら、厨房へと歩いて行った。
「ちょっと、あの男たち止めてくる……。子供に見せられんよあれは」
そんな喧騒のさなか、食堂の大扉が開かれた。
逆光に照らされた、ふたりの姿。
アリスの腕から脱走したソレイユが、ロニアの腹に収まった。
やはりそこが落ち着くのか、ゴロゴロと喉を鳴らして頬を擦り付けていた。
「む。買い出し担当が帰ってきたようですね」
セスに組み付かれているヴァレンティノスが顔を上げた。
「けっ、けどよぉ――いててて! 袋、無くね?」
「その事は、拙者が」
アマクサが空席に座り、紫色のスープを一口啜った。
「あっ、アマクサさんそれ……」
ロニアが切実な瞳を向けて止めようとするも、アマクサは動じる様子もない。
ただ、眉を顰めていた。
ひとくち。ふたくち。
いや、動じていた。
口角が震え、顔色は青ざめている。
「は、はは……。とっても、美味しいでござる……」




