【第八十五話 茨の劇団】
「不思議でござるな。猫は寒いところを嫌うはずなのに」
「ソレイユはただの猫ではありませんわよ。ね〜?」
アリスが屈みこみ、ソレイユの頭を指先で撫でた。
ソレイユが目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らす。
偽装用の首輪にリードを繋がれて、まるで寝不足のロニアのように眉を顰めていた。
ロンド家から徒歩十分。
かつてセスの背中を追い、流れるように走った小道。
ホーラドゥナの門は目と鼻の先。
食材を買い足すついでに、アリスがソレイユの散歩も兼ねてと名乗り上げた。
快く肯んじたアマクサと共に、早朝からふたりは外出していた。
何せ、コック長であるヴァレンティノスが切実な表情をして「食材が切れました」と訴えたのだ。
十人が寝泊まりするロンド家。
従者の類がいない分、住人自らがこうした雑務に翻弄されなければいけなかった。
アリスは、心から嫌そうな表情で掃除をさせられるロニアを思い浮かべていた。
セスか、カレンか。それとも、あの口が悪い妹か。
尻に敷かれている状況を想像するにはあまりにも容易すぎる。
「それにしても、冷えますわね。アマクサさんは寒くなくて?」
厚着をしているのにも関わらず、極寒の冷気は繊維を突き抜ける。
アリスのややピンクがかった素肌を、チクリと抉るように温度を奪う。
ソレイユを、今すぐに抱きしめたい気分だとアリスは思った。
「問題なし。拙者、寒いのには慣れっこでござる」
アリスは首を傾げ、両眉を上げた。
寒くないはずがない。
脇腹が露出しているうえに、半袖。
見ているだけでも繊維は薄いし、防寒性は一切ない。
だがそれでも、アマクサは平然としていた。
マイペースに、この散歩の主導権を握っていたソレイユが足を止めた。
毛は逆立ち、尻尾が垂れ下がる。
「ソレイユ? いかがいたしましたの?」
アリスがソレイユの頭を撫でたまま立ち上がる。
瞬間。アマクサ、腰に手をかけた。
「待たれよ、アリス嬢。何かが来る」
アマクサが小さく瞼を上げ、空色の瞳を覗かせた。
彼女の手のひらに、光の粒子が結合する。
鋭く、そして長く。
現れたそれは剣ではない。
東方の長物、刀と呼ばれるモノだった。
柄に触れ、彼女の剣筋は空を切る。
風が、アリスの金糸のような髪を吹き荒らした。
「嘘、なんで……」
砕獣がいた。
ぎょろりと蠢く眼球と長い舌を持つ爬虫類型。
空中で、それはふたつに裂かれた。
足元に転がる砕獣の残骸。
ソレイユが飛び上がり、前脚でそれを殴りつける。
「かめれおん型の砕獣であるか。しかし、なにゆえこの地域に?」
「そんなの、アーランヤでしか聞いたことがありませんわね。スーノスにはいないでしょう?」
「あぁ……。うむ、たぶん」
ホーラドゥナの街は、いまだ賑わっている。
それも、双子の片割れについて。
道行く人々が、十字架を握っていた。
首輪の効能により、ソレイユはぬいぐるみに見えている。
アリスはソレイユを抱きしめ、まさしく無垢なお嬢様を演じていた。
何かが妙だった。
人の流れが、まるで海流のように規則性がある。
誰もが、横に逸れることは無かった。
「この人たち、どこへ向かっているのでしょう……」
「うむ。警戒をしておく。アリス嬢は、当初の目的を」
「はい」と頷いたアリスは、二歩ほどアマクサに近づく。
ヴァレンティノス曰く、今は獣肉を食べる時期ではないらしい。野菜と魚。そしてキノコをありったけ。
アリスは地図を開き、昨日通り過ぎた市場へと辿り着く。
雪深いスーノス地区では、食品を外に放置しておいても腐ることはない。砕獣による模倣も遅くなる。
ローラのポケットマネーから、予算を取り寄せていた。
腰にぶら下げてある袋から取り出した、金貨八枚と銀貨四十枚。
エーテル列車の、片道分ほど。
節約すれば、一ヶ月は遊んで生きていける。
それほどの大金で、ありったけを買ってこいとのこと。
淡いランタンに照らされ、獣皮のコートに身を包んだ店主の男がいた。
脊髄を引き抜かれたように、椅子になだれ込むように腰掛けている。
「あ、あのぅ――」
アリスが恐る恐る声をかけても、男から反応はない。
瞳の焦点が合わず、ぼうっと虚空を眺めていた。
いびきのような唸りも上げていたのだ。
「おそらく訛らせないといけないのではなかろうか。スーノスの人間は排外主義的でござるから」
アマクサが横から割り込み、きついスーノス訛りの挨拶を見せた。
「ヨーソロー。どもども」
「……あげ」
効果はないようだ。
なんとなくだが、スーノスの訛りですらないような気がする。
そう、アリスは思った。
アリスに抱かれたソレイユが、ひどく呆れたようにため息を漏らす。
「……通じてませんわよ」
「うぅむ、勉強不足であるか」
その瞬間、男は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がる。
アマクサが間髪入れずに、刀へと手を伸ばす。
ぎょろりと男がアリスたちを睨み、首を折るように傾けた。
アリスは片手で杖を取り出す。
やはり、この街は何かがおかしい。
アリスは肌に違和感をひしひしと覚えながら、額に汗を垂らした。
来るなら来い。
ふたりがそう思った瞬間。
男はにへらと薄ら笑いを浮かべた。
「うひっ」
「何を笑って……」
アリスが眉を垂れ下げ、男を睨む。
「アリス嬢。下がるでござる。ここは拙者が――」
薬指から人差し指。締めに親指。
アマクサは、力いっぱいに刀を握りしめた。
くすんだ日光に、チラつく刀身が照らされる。
その時、背後から快活な声が聞こえてきた。
「あっ! おじさ~ん! キノコ、あります!?」
振り返ると、右目まで垂れ下がった黒髪。
そして、わずかにずれたつばの広い青色のハット。
胡散臭いほどにまぶしい笑顔を見せる青年が、アリスたちの間に割り込んだ。
ロングコートの赤い裾がなびき、ソレイユの鼻を撫でた。
「け、けひゃっ」
「うんうん、どうしたんですかおじさん? キノコ、ないんですか?」
青年は首を傾げた。
ソレイユの毛が逆立っている。
つまり、これは警鐘だ。
目の前の男は、只者ではない。
それどころか、学院祭で相対したベルゼブブの眷属。
ベヘモットと同じだと見ていいだろう。
しかし、アリス自身は強く違和感を覚えている。
彼の装いに見覚えがあったのだ。
赤いロングコートに、黒いズボン。
そして、その印象的な帽子。
――テンプル協会傘下、【茨の劇団】のモノだったのだ。




