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天界を追放された堕天使は、正体を隠して眠りたい  作者: 葱色信号
第二部一章:スーノス地区編

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【第八十四話 朝の訪れは強引に】

 まるで天界の雲海のように柔らかかった。


 ロニアは、丁寧に整えられたロンド家最高級の寝台に飛び込んだ。

 肺の奥底で渦巻いていた重たい空気を全て吐き出すように、深く息を吐いた。


 列車に揺られ、街で追われ、あまつさえ実家では自身のルーツを知る。


 数万年生きている魂とは言え、肉体は年端もいかぬ少年の肉体。

 心身ともに大きなストレスを覚え、疲労が澱のように溜まっていた。


「……やっぱり、思い出せないや」


 過去を回想しようとしても、虫食いのように映る。


 ちょうど、二百年ほど前からだ。

 大戦争で死した魂たちが天界で溢れているのは覚えている。それ以外はわからなかった。


 今見ているこの光景が、誰の記憶かも――。


 考えるほどに、存在が混濁していく。


 知っているのに、知らない。

 わかっているのに、噛み合わない。

「どうして?」の雪崩が轟音を立てて迫り来る。


 自分は天使だ。

 熾天使たちとも仕事をした。

 同等の力を持っていた。


 サタンとも会ったことがある。

 ウマが合わなかったことだって、覚えている。


 なら、なぜ自分は追放された?

 怠惰すぎたから。そう告げられたのは知っている。

 実際、記憶のロニアは怠惰だったからだ。


 神が、そんな理由で追放するものだろうか。


 思考を巡らせる度に、鎖が鳴る。

 ジャラジャラという音が気を散らす。

 鎌首をもたげ、ロニアの眼前で揺れている。


「――わかったよ。余計なこと考えてないでとっとと寝なさいって言いたいんでしょ。みんな世話焼きなんだから」


 鎖がブンブンと首を横に振った。


 ロニアもこれ以上、誰かが恣意的に隠匿した秘密を探ろうとはしなかった。

 

 意識を現実に向ければ、壁に備え付けられた暖炉がパチパチと燃えていた。


 火属性エーテルの暖房と相まって、ロニアはむしろ汗を滲ませている。

 

 明日は特に予定はない。この際、昼まで寝ていよう。

 ロニアはそう思った。


 布団から飛び出る。

 

 寝巻きのボタンを数枚外す。

 白皙とした肌がチラリと晒され、首元には鎖骨が浮かんでいた。


「ふわぁ……。おやすみなさい」


 誰に言ったのかは考えていなかったが、ロニアはそのまま目を閉じる。

 暖炉の赤い光がにわかに残っていたが、次第に真っ暗な闇が訪れた。

 

 ロニアの肉体は、そのままふかふかのベッドに沈んでいった。


        ─────────◇─────────


 夢を見ていた。

 とても、幸せな夢だった。


 カレンと同じ目線に立ち、口付けを交わす夢だ。

 しっとりとしていて、温かく柔らかい彼女の唇。

 ロニアたちは愛を囁きあい、彼女を寝台へと押し倒し――


「コラ〜! いつまで寝てるんですかクソ兄貴〜! そこまで寝たいなら永遠に寝かせて上げましょうか〜?」


 平たい鍋を玉杓子でカンカンと叩くローラ。

 桃色の熊柄エプロンを身につけ、頭部は黒い頭巾で覆われていた。


 寝起きの頭には、この金属音がひどく響く。

 髄液そのものが揺らされるようで、ロニアは寝そべっていた布団で自身を包んだ。


「うるさーい! 起きるから、起きるからそれやめてー!」


「なんですか〜!? 布団の中だと聞こえませーん!」


 カタツムリのように、布団の殻から顔だけを出すロニア。

 ローラは軽く笑うと、鍋のパーカッションを止めた。


「おはようございます。よく眠れたようですね?」


「んな訳ないだろ……。あんなことに気づいて、そうそう寝られるかよ」


「そのわりには鼻の下伸ばしてましたね。こんなにだらしない格好して、よだれまで垂らして。堕天使とは言えどエッチなんですねぇ」


 ローラが悪戯げに目を細めた。

 彼女がこの表情を見せるときは、たいていロクなことを考えていない。


「みっ、見てたのかよ!?」


「アナタのお嫁さんとお母様に、起こしに行ってくれと頼まれましたから。ニンゲンというのは、なぜこんなにも回りくどいことをするのですか? あの人たちが行けばよかったのに」


 スープが吹きこぼれるではないですか。

 ローラが口を窄めてそう言った。


 地獄の王が料理をする光景を想像出来なかったが、きっと天にも昇るような味なのだろう。物理的に。


 カレンたちに心の中で感謝を述べながら、ロニアは殻を脱いだ。


「ほらほら、グズグズしてないでさっさと行きますよ。せっかくのご飯が冷めちゃいます」


「わ〜ったから。着替えるからちょっと待ってよ」


 ローラが頷くだろうと、ロニアは傲慢にも思っていた。

 それが、間違いだった。

 ローラはボタンに手をかけるロニアの手を引いた。


「ダメです。さっきも言いましたよね? ご飯が冷めるって」


「寝間着のまま食べろって!? やだよ、母さんに怒られるよ」


「実家ですよ。羽根ぐらい伸ばしたらどうですか。あっ、天使だからすでに伸ばしていますか」


「こんの悪魔……」


「悪魔の王様ですが何か」


 パタパタと、スリッパが跳ねる音が廊下に響く。


 ハーブの芳しい香りが漂う。

 ザワザワと、何やら賑わう声も聞こえてきた。


「アナタが最後です。皆を待たせていますから」


 昨日の動乱とは打って変わって、実家特有のどこか肩の荷が下ろされるような感覚をロニアは覚えていた。


 ロビーから連なる二つ目の広場を、階段から見下ろしていた。

 

 中心にドシンと構える、長方形の食卓。

 上から見える範囲では、魚料理が数種類も陳列されている。

 

 どうやら食卓は厨房と直結しており、セスとカレンが忙しなく行ったり来たりしている。


「あっ、ロニアくん起きたのです! おーい!」


 マチィナがロニアたちを見上げ、飛び跳ねながら手を振っていた。

 ローラに軽く手を引かれながら、ロニアも振り返す。


 階段を一段飛ばしで駆け下りた。

 すると、足元でリウが倒れている。


「ちょっ――リウ!? どうしたのさ!?」


 ロニアが慌てて駆け寄ると、背後でローラがため息をついていた。


「はぁ……。この方は、ワタシの料理があまりにも美味しすぎたので倒れたんです」


 ローラの持っているお玉の先には、紫色の泡を吹いている得体の知れない泥のような何かが蠢いていた。


「絶対違うと思う……! それ地獄の釜から掬ってきたやつだよね!? ほらいまミギィって鳴いたし聞こえた!?」


 ふと、ロニアが厨房に目をやる。

 セスとカレンは配膳係のようで、実際にそこに立っていたのはあの男だった。


「おや、随分と遅いお目覚めですね。おはようございます。手と顔を洗ってご着席ください、ロニア様」


 ヴァレンティノス。

 包丁さばきは見事なもので、よそ見しながらでもその右手には残像が見えた。

 また、背後にいる男も目に入った。


「おっ! ロニア坊起きたか! ちぃ〜っと待ってろよな、メインディッシュはもうすぐだからよ」


 ロムレスが振る平鍋から、燃え盛る業火が上がっている。片手には、赤ワインの瓶が握られていた。

 芳醇で、少しツンとするアルコールの香り。


「おはようロニア。早速で悪いんだが、リウのやつを席に座らせてやってくれ。薬は飲ませてあるから」


 セスが額を袖で拭うと、ロニアの足元で倒れているリウを指した。


 カレンの眼鏡は、熱気により結露している。

 彼女がシャツの裾で拭き、ロニアを見た。


「おはようロニ――」


 サファイアのような瞳は、ロニアの顔と胸元を見比べるように、何度も上下していた。


 まるでロンド家の瞳のように、みるみると紅潮していくカレン。

 だが、咳払いでなんとか自我を保ったようだ。


「げ、げふん! もう、また寝坊して!」


「あっ、ごめん……」


 しかし、ロニアはどこか違和感を覚えていた。


「あれ、アリスたちは?」


 アリス、ソレイユ、そしてアマクサの姿が見えない。


「あの人たちなら、ソレイユのお散歩に出てるです。ご飯も街で食べるそうなのですよ」


「へぇ」


 ロニアは、心のどこかで夢見ていた。

 いつか、親しいヒトたちと共に食卓を囲んでみたいと。

 まだ、欠けている。


 だが、それも時間の問題だろう。


 倒れているリウを抱え上げ、マチィナの隣に置いた。

 ロニアも腰掛けて、完成を待つ。


「へっくしゅん」


「……風邪ですか? あんな格好していたのです。当然ですよ」


「いや、わかんないよ。誰かがボクの噂をしていたのかも」


 ロニアは、鼻をすすった。

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