【第八十三話 ゲイザー】
「ふむ。どうやら辿り着いてしまったようですね」
夜の闇を揺らす、低い声が響いた。
廊下の奥に、光る双眸があった。
それは、雪光に照らされた眼鏡だった。
黒い髪に、どんよりとした漆黒の双眸。
男の着崩した白衣が、今や肩からずり落ちてしまうようだった。
「ヴァレンティノス……。アナタ、もしかしてタイミングを伺っていましたね?」
冷たく吐き捨てるサタンの声色が、かすかに震えていた。
「いえ、単なる偶然ですよ。お初にお目にかかります。双子の片割れ、ロニア・ロンド様」
ヴァレンティノスがロニアに恭しく跪いた。
「教えてよ……。二百年前に何があったか、私たちに教えてよ!」
カレンが声を張り上げ、ロニアを胸元にしっかりと抱きしめた。
壊れモノのように、しかし確実に離さないという確固たる信念をもって。
背中越しに、カレンの力強い拍動を感じていたロニア。
それでも、太鼓のように鳴り響く鼓動は収まらない。
「落ち着きなさい。真実を話したところで、今いるロニア様とローラが否定されるわけではありません。あなたたちは、確かに人間として日々を生きてきたのでしょう?」
ヴァレンティノスが立ち上がり、ロニアとローラを見つめている。
だが、ローラに対してはどこか皮肉の色があった。
それもそのはず、ローラはサタンだ。
ニンゲンとしてなどと、滑稽な笑い話にすぎない。
ローラは眉をひそめてヴァレンティノスをねめあげる。
「二百年前の大戦争は、ここスーノス連邦が火種でした。最初は、ただの貴族同士の利権争い。醜いものでしたね」
「俺たちロンド家も、傭兵として殺し合ったんだよな?」
「ええ。確かそのはずです」
まるでその目で見てきたような口ぶりで、ヴァレンティノスは絵画の少年たちに触れた。
「ですが、クリスタリア王国が騒ぎに便乗。事態はより複雑化し、数万人が死にました」
カレンがロニアを抱きしめる力をより強める。
ロニアの耳元で、「大丈夫だよ」と囁いた。
ロニアは小さく頷き、カレンの腕に身を委ねている。
「こうしたとき、信心深い人間ならばどうすると思います?」
ヴァレンティノスが眼鏡を整え、カレンを見つめる。
フランカ家は、敬虔な教徒としても知られている。
初対面だが、それでもヴァレンティノスは見抜いていた。
「……神様に祈る?」
指を鳴らし、声を上ずらせるヴァレンティノス。
「正解。人々は神にこう祈りました。『神よ、どうか我らの敵を滅せよ』と!」
そして、その燃えるような祈りは届いたのです。
演説のように叫ぶヴァレンティノス。
「ルシフェルが降臨したってコト?」
ロニアが、今にも消え入りそうな声で言った。
ヴァレンティノスが何度も頷き、恍惚のような声を浮かべて絵画の少年を見る。
「ええ、ええ! ですが、天使の肉体には器が必要でした。そうして明けの君は作り出したのです! 自らの半身と、妹の半身を!」
「そうして生れたのが、このふたりというワケですね。サタンたるワタシと、ルシフェルたるクソ兄貴。ですが、あくまで器でしょう? 主としてのルシフェルは今どこに」
ローラが絵画を見上げ、流れるように足元のロニアへと視線を注いだ。
ルシフェルは今もきっと、どこかで生きている。
サタンがローラを演じているのも、失踪したルシフェルの捜索に役立つかもと考えたからだ。
そうでなければ、サタンの忌避する天界の連中と手を組むことはしない。
「そこまでは知りませんよ。地獄に堕ちて、サタンにでも訊いてみては?」
眼鏡を光らせるヴァレンティノス。
舌打ち。ローラが鳴らした。
「んで、俺みたいなのは失敗作ってことかい?」
ロムレスが自身を指し、皮肉気に口元を歪める。
双子の子孫でありながら、魔法が使えない。
天使のような聖性もない。
ロムレスは自分が何よりも劣っていることを理解していた。
「さあ。それは私が決めることではありません」
なあ、教えてくれ。
セスがそう言って、震える声を上げた。
壁を叩くその拳。爪が白くなっていた。
「器に近いロニアは、これからどうなるんだ……?」
「それは彼自身が決めることです。無垢な人間として生きるか。それとも、化け物として生きるか」
カレンの腕を掴むロニアがつんのめり、声を張り上げる。
「ボクはニンゲンだ! 化け物なんかじゃない!」
「そうだよ! ロニアくんはめんどくさがり屋で、甘えん坊で、ちょっとだけ食いしん坊なの!」
「素晴らしい信念です。ですが、心からそれを否定できますか?」
ロニアは喉元で詰まっていた言葉たちを、一斉に飲み込んだ。
口では否定できる。
だがずっと昔から、鎖の存在がロニアを締め付けていた。
自分の魂は、元から人間じゃない。天界から堕とされた『何か』だ。
その魂が、ルシフェルのために作られたこの『ロンド家の器』に、ぴったりと収まってしまった。
『オマエは堕天使だ。化け物だ』
『ニンゲンだなんて、おこがましい』
聞こえないふりを続けていた。
ときどき、その鎖を振りほどいた。
一本は引きちぎった。
破片が、今や喉に刺さっているようだ。
「心からそれを否定できたとき、あなたは真に人間へと昇華できるでしょう。陰ながらロンド家の一員として、応援していますよ。ロニア様」
ヴァレンティノスが口笛を吹きながら、すっかりランタンの灯った廊下の奥へと消えた。
「――ま、妹としても応援しておきます。ワタシは化け物としての生を受け入れましたから」
元より化け物ですし。
サタンであるその瞳を細め、ロニアに微笑みを向けた。
「……ロニア。お前には私がいる。友達がいる。そして、カレンがいる。天使だろうと、器だろうと。私たちには関係ない」
よろめくように、セスが壁に手を当てて接近する。
カレンごと、ロニアを抱きしめた。
懐かしい匂いが漂う。
セスが愛用している、カーネーションの石鹼。
ふと、ロニアは自身のベルトに括り付けてあるランタンを目にする。
マチィナからのプレゼントだ。
反対方向には、カレンからの贈り物がホルスターに収まっている。
カレンの物と同じ色をした、白銀の小さな杖。
合体することにより、剣となる。
天使の力を使わないようにと、友たちからのささやかな祈りが込められている。
「そうだよ。お誕生日会でみんなが言ったこと、忘れちゃった?」
「お前はロニア・ロンドだ。どんな運命が待っていようと、それを忘れるな」
セスがロニアの頭をわしゃわしゃと撫でる。
カレンにお仕置きをされ、ただでさえ髪型がボサボサだというのに。
「まだ、ちょっと怖いけど。でも、そう思うことにする」
ロニアはカレンの腕を両腕で挟むようにして掴んだ。
目を閉じる。
ランタンの明かりが、暗闇の中で踊っている。
嫌な景色は見えない。
カレンとセスの匂いがする。
血の臭いはしない。
ロニア・ロンドは、ひとまずここにいる。




