【第七十五話 降臨せし地獄の王】
「っ……ぐぐぅ……ふう。やはり、依り代がないとあの門は中々堪えますね」
竜巻のように荒れている吹雪を一身に浴びているのはサタンだった。
まるで長旅だったかのように体を伸ばし、頭に積もった雪を首を振って落とす。
曇った空の下、彼女の紅の瞳だけが輝いていた。
肌の内側から、無数の針で突き刺すような冷気。
耳は今にも千切れそうなほどに冷え切っている。
サタンの黒い尻尾も、力なく、ぐでんと垂れていた。
地獄の管理を暴食のベルゼブブに一任し、人間界にいるとされる虚飾のヴァニタスから助言を得る名目だった。
――表向きはそうだった。
サタンの真の目的は、ある少年を探すこと。
あのミカエルを追いつめたとされる、堕天使。
ルシフェルの力すらも行使できるらしい。
「しかし、ここはどこなのでしょう。レヴィアタンのやつ、係数をメチャクチャにしましたね。あの寿司アマ、覚悟してなさいよ……」
地獄にいる嫉妬の大罪に向けて呪詛を吐きながら、サタンは懐に忍ばせている地図を取り出した。
黄ばんだ、古い地図だった。
暴風に吹かれぬよう、しっかりとそれを小さな両手で握りしめる。
周りに生えている針葉樹。踏みしめるたびに崩れる積雪から覗く、くたびれた茂み。
何よりも、眼前に聳える冬の連峰。どれも、白銀の冠雪を頂いている。
それに対応する地域は、地図に記されていた。
中央にある、クリスタリア王国のはるか極北。
スーノス連邦だった。今は、ただの地区である。
ビュオォッと鳴く冬の嵐の中に、サタンが鼻をすする音が混じる。
憤怒を司る地獄の王ですらも、自然には抗えなかった。
「……へっくし!」
サタンの黒炎は、熱を持たない。
むしろそれは氷点下に近く、燃え盛る雪嵐と形容するのが正しい。
ドライな性格に、冷たい炎。
彼女を知る誰もが、まさしくピッタリな能力だと口をそろえて語るとか。
「あとどれくらいでしょうか……。ハァ、この姿は不便ですね。ま、蛇よりはマシですか……」
今、自分がどこにいて、どこを見ているのかはわからない。
地獄から羅針盤を持ってきても、座標が狂うだけ。
地獄の門はレヴィアタンが無理をしたせいで破損し、到着場所は完全ランダムになっていた。
「クソッタレ。どこかに夜を越せる宿はないんでしょうかね」
しばらく歩くと、背後で物音がした。
小枝がパキンと踏み割られるような音だ。
「……誰です?」
サタンが振り返ると、そこには蚤型砕獣がいた。
本物の蚤とは違い、中型犬ほどの大きさはある。
襲ってくるのかと思いきや、それはサタンに向けて平伏していた。
「砕獣はもともとワタシたちの同胞……ってコトですか。しかし、アナタも勝手に地獄を抜け出した問題児の一人なんですね」
雪を踏みしめながら、蚤型砕獣に向けて歩み寄るサタン。
アーマーリングの嵌められた指先に、夜闇のような炎。
凍り付いたようにその場でサタンを見つめる砕獣は、彼女に胸元を貫かれると刹那の間に霧散した。
指先が痺れている。やはり、元は悪魔だったと言えども鉱物。
それを、徒手で貫いたのであればその衝撃は大きいものだった。
満月が、雲間に現れた。
頭上にあったため、きっと今は真夜中だろう。
日付をまたぎ、おおよそのニンゲンは床に就いている。
こんな時間まで起きているニンゲンは、恐らく変人だろう。
熾天使たちが見てきた未来では、夜でも灯りがギラギラと灯っていると語っていたが、サタンは懐疑的である。
夜は眠る時間。イキモノの常。
暗闇が訪れるからこそ、死のような眠りでそれをやり過ごす。
闇は恐怖であるからだ。闇は未知であるからだ。
超克などできるはずがない。
サタンは過去と今しか知らないが、そう考えていた。
「……足の感覚が無くなってきましたか。仕方ない、ちょっとだけ飛びましょうか」
サタンが指を鳴らすと、彼女の肉体を黒炎が包む。
まるで蛇のように波打ち、やがて空へと浮かんだ。
蛇というよりも、その姿はまるで龍だった。
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「……帰還。至急、休暇を求める」
黒がかった片翼を折りたたみながら、雲を踏みしめるのはミカエルだった。
機械的な彼女が、初めて眉間に皺を寄せている。
紅の瞳は、布により覆われていた。
何も見たくない、という意思表示である。
「み、ミカたん……。その翼……」
最初に駆け寄ったのはガブリエルだった。
黄金の瞳を揺らし、辺りをきょろきょろと見回している。
ふと、ガブリエルの指先がミカエルの黒い翼に触れた。
バチィッ!
「ギャアッ!」
白雷が走った。
指先から肩にかけて、燃えるような痛みが広がる。
腰を抜かしたガブリエルが、雲に尻もちをついた。
「制止。ワタシに触れないで。それと、ラファエルを呼んで。これを、どうにかする」
「う……ぎぎ……。いってぇ……!」
「推測。この力は……きっとお兄様のモノ」
試練の鍵から外された、五つ目の宝石。
かつては白かった、明星の力。
今はもう黒く染まってしまっている。
そして、現存する鍵の最後の持ち主は、人間界にいたのだ。
「追憶。そういえば、サタンは?」
「……サッちゃんならもう地獄に帰ったし。何か用事?」
「……いや、何でも」




