【第七十一話 地獄の王】
「サッちゃん、今なんて?」
山のように堆く積もる始末書を横目に、レヴィアタンが素っ頓狂な声を上げた。
レヴィアタンの右手に握られたペンは紙の上を走らなかった。彼女の右手の中で、グルグルと螺旋を描いている。
頬杖を突きながら、レヴィアタンは目を丸くしサタンを見ていた。
「誰がサッちゃんですか。もいっぺん殺しますよ? それに、勝手に人間界の門を開いたバツはまだ済んでません」
真っ赤な瞳で鋭利に睨みつけるサタン。
最も小柄な肉体だが、傲慢のルシフェルの妹と地獄を司る憤怒の大罪なだけあって、その圧は他の悪魔たちの数倍。
「ヒィッ!? はい、スグやるっす!」
「ハァ……。そしてマモン! アスモディウスの再誕を見守るのでは!?」
「ひゃいっ! あ、アスモディウス様はいま冷脈期でぇ!?」
宝石を抱いた無垢な少年――マモンが、瞳に涙を浮かべながら答えた。
「あんのエロ悪魔、まさか淫らな夢でも見てるんじゃないですか? 叩き起こしてきなさい。アイツはそういうことする奴です」
「でもぉ! エーテルを観測しても昏睡だって出てますよ! 夢なんて見れませんって!」
サタンは、眉間に皺を寄せて親指の爪を噛み締める。
ギザギザの牙がのぞいた。
「ベルもお兄様も失踪して、あと残ったのはアナタたちですか……。全く忌々しい。そんな体たらくですから、ワタシが人間界に先輩を探しに行く羽目になるんです」
「あのぅ……。サタン様? 先輩ってのは……」
「虚飾の……なんだっけ?」
「ヴァニタス先輩です。ワタシのセリフを取らないでください。序列というモノが分かっていないようですね?」
七つの大罪が、現在知られている大悪魔たちの総称である。しかし、それらよりも前に存在している者たちがいた。
虚飾と、憂鬱。
現在地獄が掴んでいる情報では、虚飾のヴァニタスは人間界にいるとか。それも、ある人物に縁のある場所に。
「……前代未聞の事態です。ですので、先輩に掛け合ってみます。この間、代理を任せたいのですが……」
先日、ミカエルから知らされた情報が、サタンの胸を高鳴らせていた。
ロニア・ロンドという堕天使。
なぜ彼は、熾天使の力を扱えているのか。
なぜ、ミカエルがあそこまで負傷したのか。
今までに堕天した天使は多く存在しているが、どれもが無力化。
または破砕し、人間界にて意思を持たぬ畜生として生きている。
例外は、ロニアが初めてだった。
サタンは、また神のいたずらかと奥歯を噛み締める。
サタンが顎に手を当て、品定めするように目を細める。
ため息をついたのは、レヴィアタンたちが期待に沿わないのだろう。
「……仕方ない。おい、ハエ野郎。いますか?」
サタンは天井を睨めあげる。
揺れるシャンデリアのような灯りが揺らめく。
砂嵐のようにそれは乱れ、やがてひとつの姿を形成した。
いくつもの羽根を生やし、四つの複眼を持つ蝿。
それがギョロリとサタンを一瞥すると、前脚を擦り合わせた。
サタンが眉を顰め、鼻と口を右手で覆う。
「相変わらずキッショイ見た目してますね……。害虫駆除をしたいものです。とっとと降りてきなさい」
蝿の王を成すのは、無数の蝿たちだった。それは離散し、再び結合する。二足歩行のシルエットが次第に生まれていった。
「最初からそうしなさい。まどろっこしいですね、食べるコトしか頭になくて合理的な判断が出来なくなったのですか?」
「ヒドいなあ。こっちもこっちで、配下の規則違反を罰するのに忙しかったんだからさあ」
「――ベヘモットですね。アイツが勝手に抜け出したのは何故です」
「知らないよ。第一、門を開けたのはレヴィだ。そのときに唆されたんじゃないか? 人間界で誰に仕えてたかは知らないけど、ベッちゃんは腹でも空いてたんじゃないかな」
レヴィアタンの開けた門を抜け出した悪魔は、みな粉のように砕けた。残った核が、死した生き物を模倣して再誕する。
それが、砕獣の正体である。
ベヘモットのように地獄での姿を維持するには、いくつもの命を奪い、それらを模倣する必要がある。
やがて蝿たちの肉体が結合する。
腹を震わせる低周波の耳鳴り。
腐臭を放っていたそれは、一転して甘い花のような香水に変わった。
姿を現したのは麗しい美少年だった。
肩まで伸びた金色の毛髪が揺らめき、妖しく光る赤い瞳の目元には黒子があった。
深々と、鍔広帽子を被るベルゼブブ。
「それも含め、ワタシは人間界に赴きます。その間、地獄の王の代理をアナタには務めてもらいます。悔しいですが、アスモディウスがいない今は、アナタしか頼りになりません」
「……なんで。マモンでもできるだろ」
「このガキはまだ幼すぎます。トップを務めるにはまだ早いです」
「はっ、大罪は歳を取らないのにな」
サタンとベルゼブブの赤い目が、それぞれマモンの藤色の双眸を見つめた。
バツが悪そうに、マモンは宝石をぎゅっと抱きしめる。
今にも泣き出してしまいそうなマモンを、レヴィアタンがこっそり背中をさすって宥めた。
「……しゃあねぇな。その代わり、報酬としてリンボには行かせてくれよ。あそこの魂は絶品なんだわ」
「ご勝手に。せめて彷徨うより、システムに組み込まれる方がいくらか魂の救済になるでしょうね」
サタンが、黒炎を伴うドレスを整える。
手鏡で髪型を整え、鋭い目つきをわずかに緩めた。
「で、それはいいけどさ。ヴァニタス先輩の場所には目星がついてんのか?」
「はい。しかも、お兄様への重要な手がかりにもなる場所でもあります。二鳥どころか、三鳥四鳥でしょうね」
ベルゼブブの方を見向きもせず、手鏡を見ながら長く伸びた艶かしい睫毛をいじるサタン。
現状、憂鬱の罪を司る彼女は消えた。
人として死に、その魂は天界で管理されている。
一度ニンゲンとして昇華した大罪は、過去の記憶を全て忘れる。
だが、ヴァニタスの魂はまだ虚飾を放っている。
サタンは、それを嗅ぎつけたのだ。
「へえ、ルシフェル様も。それはどこなんだよ?」
「レサエル大陸。その極北にある、スーノス地区にある民家――」
ロンド家という所にいます。
サタンは、腰まで伸びた長い毛髪を櫛で梳きながら言った。
お待たせしました
ついに第二部開幕です!




