【第六十八話 極夜】
それは唸り声を上げていた。
十二枚の黒翼をはためかせ、白雷が全身に迸る。
刀身を握るその手からは血が滴り落ち、目は虚ろ。
彼の手に流れる血液を見て、カレンは息を呑んだ。
排除すべきモノの区別はとうになく、そこに自分も含まれているのだろう。
カレンはそう思いながら、唇を噛み締めた。
ロニアの十字に裂けた瞳孔が、ゆっくりとカレンらを凝視する。
渾身の白魔法を放ったカレンは脚元の硬い床に杖を突き立て、それを支えに辛くも地を踏みしめている。
もはや緑魔法をも扱えない。咳き込み、口元を手で抑えるカレン。
掌が赤く染っていた。
「ロニア……さん?」
カレンの疑問を代弁するように、アリスが声を震わせた。
クロウルの前で激昂するロニアをアリスは見たが、目の前の彼とは違っていた。
あのときはまだ、理性があった。
だが今の彼は違う。
目に映るモノを、全て塵に。
湧き上がる圧が、殺意を雄弁に語っている。
「ミ゙ャァ……!」
吹き飛ばされたベヘモットの眷属を踏みしめ、ソレイユはロニアに向け毛を逆立てていた。
白魔法を扱う、神聖な獣。そんなソレイユが、今は明確な天敵としてロニアを威嚇する。
「ロニア……。お前……」
セスは目を大きく見開き、まるで息が詰まってしまうかのようだった。
人間界での母親として育ててきた息子の、知らない姿。
不器用ながらも心根は優しい大事な我が子が、黒い衝動に突き動かされている。
巨大な闇の重力はまるで吸い寄せるように――カレンの放った白魔法が、ベヘモットではなくロニアに向けられる。
「へへっ……! 今がチャンスってワケ……!?」
ベヘモットはその隙を見逃さなかった。
背筋を凍らせる圧倒的な死の気配から逃れるため、巨体を揺らして割れたステンドグラスから身を乗り出そうとする。
だが、続く光景が彼の浅はかな希望を打ち砕いた。
神聖なる白魔法の閃光がロニアに直撃する刹那、彼はそれを掌底で受け止めたのだ。
ジュウッという肉の焦げる嫌な音が響くが、ロニアはそれを意に介さない。
球技のパスを無造作に受け取ったように、彼はそれを握りしめた。
そして、背後のベヘモットに向けてひどく乱雑に放り投げた。
聖なる白を持つ魔法は、どす黒い呪詛を帯びたモノに変わっていた。
自分が身を削って灯した光が、真っ黒な毒に変わってしまった。
その事実に、カレンは呼吸の仕方すら忘れた。
空を斬る。大気が鳴く。
混ざり合うことのない光と闇を引きながら、それはベヘモットの背中へと迫る。
「ウソだろ、そんなのアリかよッ……!」
死という事実。
避けようのない現実。
ベヘモットの屈強な肉体は、恐怖によって完全に硬直していた。
王としての圧が、たかが暴食の眷属に『動くな』と命じているよう。
それは傲慢にも、胸元に風穴を開けた。
損傷を瘡蓋のような肉の芽が埋めようと試みるが、黒い炎がそれを拒む。
絶え間なく腐肉を焼く不快な臭いが広がった。
「ンだよ……。無理じゃんかよこんなの……」
絶望がその目に浮かんでいた。
「ロニアくん……まさか……ッ!」
血に染った視界の中で、ギラギラと光るものがあった。
ロニアの首筋に光る、五つめの宝石。
試練の鍵の中央。真っ黒な水晶だった。
四柱の熾天使とは明らかに違う。
あれはまるで、悪魔の王。いや、悪魔たちの神と言うべきだろう。
「ウア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ッッ!」
ロニアが咆哮を上げる度に、空間が捩れる。
「また……暴走したの……?」
カレンがアスモディウスとの戦いで見たロニアとは違う。
淡々と敵を排除するあの形態ではなく、ただの殺戮兵器だ。
悍ましいほどに広げられた黒翼の毛先が、一斉にベヘモットを見る。
「また……!? カレンさん、ロニアさんは……いったい何なんですの!?」
カレンは、ただ口を噤むしかなかった。
正体がなんであれ、ロニアはただ平穏に暮らしていたいだけだったのだ。
視界がだんだんと晴れ渡ってきたころ。カレンはロニアに一歩近づいた。
接近するたびに、内臓が裏返るような重力と凍えるような冷気。
額に冷汗をにじませ、心臓が早鐘を打つ。
「いや、冗談じゃない……。ボクはこんなとこで終わるわけにはいかないんだ! 来い、オマエたち!」
ベヘモットが上空に手を伸ばし、眷属を呼び寄せようとしている。
彼の背後に現れる、黒の魔方陣。
だが、ロニアの足元には白魔方陣があった。
唸る。
ロニアが黒魔方陣へと手を伸ばす。
茨のような鎖。放たれる。
それがベヘモットの展開したモノに吸い込まれると、色が変わった。
黒から白へ。主はベヘモットからロニアへ。
現れた眷属は獣ではなく、ひとりの堕ちた天使だった。
捻れた三本の角。
ギョロリと睨む大きな目。
まるで焼け落ちたような翼に、ヤギのような蹄を持つ少年。
言語を失ったロニアの代わりに、その名を叫ぶのは首元の黒水晶だった。
「【我が光に怯えよ、ルキフグス】」
「――ックソ、ざけんな! ボクがこんなとこで――」
自身の肉を変化させ、獣の爪のような鋭さでルキフグスに斬りかかる。
直撃する瞬間、ルキフグスは口元をニヤリと歪め、虚空から宝石の光る、黄金の大剣を取り出した。
そして、無慈悲にも剣先は肉をグチュリと両断する。
カレンも、アリスも。その場にいた全員が、目を大きく見開いた。
圧倒的な力を持つベヘモット。
それが今や、なんでもないように蹂躙された。
ふたつに分かれて足元で倒れるベヘモットを見て、ルキフグスは満足気に塵と消えた。
「やった……のか?」
「の……ようですが……」
しかし、闇の圧は消えない。
ロニアにとって、次の対象が変わっただけだった。
ぐりんと首を捻り、カレンらを見るその十字の瞳。
カレンの真っ赤に濡れた掌は杖を滑らせる。
それでも、カレンはロニアに向けて、ふらふらと歩き出した。
今にも吹き飛んでしまいそうな意識を、思いっきり現実に引き寄せる。
目の前の、何も分からなくなってしまった彼へ。
獣のような咆哮の内に、哀しみと呻吟があることをカレンは感じていたのだ。
「ロニア……くん……。私が……わかる?」
「待ってください! 今のロニアさんは……」
「……いや、行かせてやれ」
「先生まで!? 何故ですの! 生徒を殺す気なのですか!」
「……これは、カレンにしかできないことだ」
セスは額に冷や汗をかきながら、いつでも動けるように姿勢を落とした。
「辛いよね……ロニアくん。感じるよ。『痛い』って叫んでるの、わかるよ」
カレンを見るロニアの目には殺意が満ちている。
捕食者が獲物を見る目だ。
「ごめんね……。私、まだロニアくんの痛みがわからないんだ……。あなたがどれだけ悩んで、どれだけ苦しんで、それでも私たちにはなんでもないように接してくれて」
地面を抉り、瓦礫を撒き散らしながら接近するロニア。
翼が芽吹くように開かれ、カレンを飲み込もうとしていた。
「だから、おねがい。これからは、ロニアくんの痛みを私にも分けて。あなただけが苦しむなんて、私には耐えられないよ」
カレンが両手を広げ、まるで攻撃を受け入れようとしている。
白銀の杖が、カランと足元で倒れる。
けれど、血痕が色濃く残るその眼には、覚悟の色が灯っていた。
「ウ……ア……」
「帰ってきて。ロニアくん。たとえ、誰もがあなたを拒絶しても、私だけはあなたを受け入れる。ラファエル様と約束したの。ロニアくんがどんな化け物でも、私はあなたのそばにいるって」
聖剣エレクシアの刃先が、額の寸前で止まった。
それはかたかたと震えている。
十字に裂けた瞳孔が、血を流し赤く染ったカレンの姿を映し出す。
『彼女を傷つけたくない』という、心の奥底で泣き叫ぶロニアの悲痛な慟哭が、暴走する肉体に一瞬の枷をかけたのだ。
「カ……レン……」
「そうだよ……。私だよ。見えてるかな……?」
十字の瞳孔は、気づけば元に戻っていた。
背中の黒翼はふっと消え、ロニアの瞳からは大粒の涙が流れている。
まるで、茨に巻き付かれたような感覚をロニアは覚えていた。
「ボク……こんな……」
「ううん。ロニアくんのせいじゃないよ。だから――」
おかえり。
カレンは、力を振り絞ってロニアを抱きしめた。
力を入れれば折れてしまいそうな、とても華奢な体だった。
セスもアリスも、そしてソレイユも。
疲労が身体を重くさせていたが、少年の帰還に、肩の荷がおりたような気を覚えた。




