【第六十六話 王の再来】
自身の心音すらも聞こえない、暗闇の中。
どこを見ても光明はなく、どれほど名前を呼んでも、応える声はない。
浮遊感は、身体がマヒしているせいなのだろうか。
ロニアは、誰もいない空間でひとり彷徨っていた。
踏みしめる地盤はまるで砂原のように、歩む足に抗っている。試練の鍵を覆うような鎖に、喉元を締め付けられながら。
重い足取りで、どこかへ向かっている。
行き先は、わからない。ただ、足が動くままに歩むだけ。
全身に重りを結ばれたように、鈍重な足取り。
突如、白い電がロニアの身体に迸る。
呻き声をあげて、思わず倒れ込んだ。
もはや、痛いという言葉では語れない。
内側から、何かがロニア・ロンドという殻を突き破って生まれそうな感覚だった。
「ぅっ……がぁっ……!」
声帯を絞り込むような呻き。
しかし、喉を震わせたと脳が感じただけで、音は聞こえない。
立ち上がろうとも、身体に力が入らない。
これは罪。これは罰。これは、試練であった。
喉元の鎖が、白雷と共に黒い結晶に覆われた。
それは、試練の鍵にある黒いものと同じだ。
ジャラリと、鎖が鎌首をもたげる音を皮切りに、男の声が響く。
《ダメな子だね。使うなって言われたでしょ?》
爽やかなのに、どこか胡散臭いモノを感じる声色だった。
それに、なんだかなじみ深い。
《キミが彼女を想うキモチもよくわかる。そのために、わざわざミカエルの力を使ったんだろう?》
口を動かして発声を試みる。
『そうだ』
喉が震えたが、ロニアが発した声は聞こえなかった。
揺らす空気もなかったのだ。
《じゃあ、ここで倒れていていいのかい? 会いに行かなくて、いいのかい?》
『行きたい』
《……そう。いいよ。でも、罰は罰だ》
パリンッ。
軽やかな音を立てて、黒い水晶にヒビが走った。
その亀裂から、生き物のように白雷がロニアを覆う。
体内から何かが突き破るような痛みが、よりいっそう強まる。皮膚が押し出され、筋肉組織が断裂するような激痛。
《解放しろ。これはキミへの、ワタシからの試練だ。あ、ほら。アリスちゃんの腕が折れそうだ。それに――》
カレンちゃん、血塗れだよ?
男が、嘲笑交じりに言った。
脳裏に、血みどろで事切れるカレンの姿が浮かんでしまった。それだけは絶対に嫌だと、ロニアの心臓が早鐘を打つ。しかし音は無かった。
ロニアの意思が、何かに塗りつぶされる。
護りたい。助けたい。傷つかせたくない。
戦わせたくない。死なせたくない。
敵を寄せ付けたくない。
敵を殺したい。
潰したい捩じりたい刻みたい穿ちたい抉りたい焼きたい、引き裂きたい。
意識が、暗い闇から現実へと引きずりもどされた。
だというのに、それすらも黒く染まった。
─────────◇─────────
「安堵。やっと起き――」
ミカエルが、眼を大きく見開き背筋を震わせた。
吊られた糸繰人形のように立ち上がるロニア。
その目は虚ろで、光がない。
なによりも、瞳孔の形が変化していた。
ニンゲンのモノと変わりなかったそれは、今は十字に走っている。
「困惑……。ロニア……?」
ミカエルの姿を目にしたロニア。
「ウアアアアアアアアアアアッッ!」
喉を潰してしまわんばかりの咆哮をあげた。
大気を揺らし、真っ黒な曇り空が広がる。
民家のガラスは次々と割れ、瓦礫は宙に浮かび上がる。
首元の宝石は、中央の黒いモノがいっそうギラギラと輝いている。
そして、ロニアの背には漆黒の翼が十二枚。
雷鳴と共に、それは顕現した。
黒と白が分けられた魔方陣に手を突っ込み、愛剣――聖剣エレクシアを乱雑に取り出すロニア。
握っているのは柄ではなく、刀身だった。
フードを脱ぎ捨て、畳んでいた翼で防ぐ彼女。
だが、鋼鉄の翼であってもその暴力には抗えない。
危機を察知し、三歩後退する。
試練の鍵にも使われている、【聖典黙示殲滅銃】を構える。
ロニアが動く瞬間に引き金を引くも、瞬きする間もなくそれは細切れになっていた。
それに気づいた瞬間には、もう遅い。
胸倉を掴まれ、叩きつける。
粘土のように弄ばれ、ミカエルは地に臥した。
「ぐッ……! 異常事態……! まさか、アナタが目覚めるなんて……!」
獣のように、理性はない。
ただ、目の前で動くモノを排除する。
それこそが、今の堕天使ロニアだった。
現熾天使最強のミカエルですらも、児戯のごとく切り伏せる。
だが、これは単なる障害にすぎなかった。
ロニアの目的は、他にある。
黒くくすんだ記憶の中でも、ひとりの少女が笑っていた。
それと同時に、同族の気配を肌で感じ取っている。
暴食の眷属が、現世にいる。それも、こんなにも近くに。
ならば、カレンが危ない。カレンを怪我させるわけにはいかない。
その為ならば、全て消してもいい。
ロニアは深く唸りながら、黒く染まった天界のエーテルを纏う翼で羽ばたいた。
「待っ――」
制止するミカエルの声が届くはずもない。
そもそも、ミカエルは障害のひとつであった。
耳を貸す道理もない。
深く咳き込むミカエル。
震える彼女の翼も、徐々に黒く染まりつつあった。




