【第六十一話 激務】
「ひぃ……もうムリ……死ぬ……」
「もう、これでもまだ対応数八十ですわよ! これぐらいで音を上げてどうしますの!」
実行委員長として、ロニアは学院の端から端まで奔走していた。
やれ、食い逃げだとか。やれ、迷子だとか。
中には生徒を口説く軽薄な男までもがいた。
まだ三時間も経っていない。
地面に横たわり、墓場から蘇った死者のような唸り声をあげるロニア。細胞のひとつひとつまでもが怠惰の色に染まっている彼の肉体は、突然のハードワークに呻吟していた。
忙しくなく出入りする冷気に肺が痛みを覚える。
ロニアが見上げる空には、冬の空が凍てつくような青さを放っている。
まつ毛に霜が生まれそうな感覚に、ロニアは思わず目を擦った。
「まだ……まだあんの?」
「当然ですわ! 次は、例のクレープ屋ですわね!」
「うぅ……パスしちゃダメかな?」
「ダメですわ! ほら、ソレイユも何か言ってやりなさいな! 『ニャー! 働かないヤツに食わせるメシは無いニャー!』」
ロニアの足元で欠伸をしていたソレイユの前足を掴んで、二足で立たせる。
ビシッと背筋を伸ばし、ロニアの顔に肉球を押し付けた。
寒さに凍えた地表を踏みしめていただけある。
キンと冷えた氷のようだ。
「ボクの十八番、取ったな……!」
「ソレイユはクラブみんなのものですの! 当然、扱い方も共有すべきですわ」
アリスが、地に伏すロニアに手を差し伸べた。
「ほら、立ちなさいな。仕事が終わったら、カレンさんの所へ連れて行ってあげますわ」
彼女の柔らかい手を握る――
のはまだ恥ずかしいので、彼女の腕を握った。
「ほんと? えへへ、聖母アリスだ」
「せいっ……! ちょ、調子に乗ってますと、仕事を増やしますわよ!」
「そんなぁ!」
どしどしと足踏みを重くして去りゆくアリスの背を、ロニアが慌てて追いかけた。やれやれと言いたげな表情で、ソレイユが駆ける。
ときどき、彼は変に後ろを気にしていた。
人混みを抜け、さらに人混み。
ミルクとバターの甘い匂いが漂い始めた。
人流の波を掻き分けると、ミカエルのクレープ屋には長蛇の列ができていた。
やはり、彼女ら未だにフードを深く被っている。
客の質問には簡潔に答え、見とれるほどの手際でクレープを焼いている。
「あのう、この【チョコレート】っていうのは?」
「回答。カカオ豆を甘くしたココア。それを固形にしたモノ」
「ウソ、それがたったの銀貨二枚!?」
客の一人が手にしていた硬貨を落とした。
それは、肩で息をするロニアの足元にまで転がった。
「ねえアリスさん。なんであの人あんなに驚いてんの?」
「ココアは、庶民の皆様にとっては贅沢品ですわ。胡椒ほどではありませんけれど」
「へえ。飲んだことないや。アリスさんはある?」
アリスは空を見上げ、手を顎に置いて思索に耽った。
ちらりとロニアを見ては、視線は青空へと向けられる。
「……少しだけ」
「そう? アリスさんって、いちおうお嬢様だよね」
「カレンさんほどではありませんわ」
ロニアの知る限り、ワンダラー家というのは中流貴族である。
カレンのフランカ家ほどの大貴族というワケではない。
話を聞くに、ココアは貴族であれば嗜好品のひとつ。
違和感を覚えながらも、ロニアは転がっていた硬貨を返却に向かった。
「ハイ、落としましたよこれ」
「あっ、ありがとうございます!」
「邂逅。また会ったか。前に話した通り、ワタシは貴校と提携したから」
ミカエルは、ロニアのほうを一瞥もせず、鉄板に向き合っていた。
仕事熱心というより、呼吸の代わりに仕事をしているような天使だ。
ハチミツのように粘性の高い、焦げ茶色の液体が鉄板の生地に垂らされる。
先ほどから感じている匂いの正体だと、ロニアはすぐさま気づく。
「これが、チョコレート……」
「提案。ロニアも食べるか? 猫には毒だからあげられないけど」
「あ、そう? じゃあ、一個もらおうかな」
「把握。作り置きしておく――」
ミカエルがそう言った瞬間、二人の赤い目がギラリと発光した。
脳内で鐘が鳴り響き、景色がボヤける。
頭部から、何かがあふれ出しそうな感覚。
誰かが来る。不穏な未来が訪れる。
――敵だ。
「み、ミカエルさん……! これは……!?」
「驚愕。ニンゲンの体でそれを使えるようになったか。ネコ!」
フードから覗く真っ赤な目を捉えたソレイユは、振り向いて走り始めた。
「ちょっ、どこ行きますの! ソレイユ!」
アリスがソレイユの背を追う。
ロニアの心臓が早鐘を打ち、よろめきながら彼女らに続いた。
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暗い洞窟の封印を、彼はこじ開けた。
男の表情には、下卑た笑みが浮かべられている。
男の肉体には、生えかけの翼がある。
男の足取りは、根雪が残る校舎へと向かっている。
彼の心を支配するのは、かつての嫉妬と憤怒だった。
【天才生徒】と【学院長の孫】に計略をひっくり返された怒り。
強さと権力への嫉妬。
「へ、へへ……。覚悟しろよ、ロニア・ロンド。お前の大事なモノを、まずは全部ぶっ殺してやる」
かつてぼさぼさだった毛髪は、より長さを増している。
まるで噴火した火山の雲のようだ。
「全部全部、奪ってからお前をじわじわと苦しめてやる……!」
男の道行きを阻むように現れたのは、テンプル協会の役員たち。
構えるは、大剣と大楯。テンプル協会の象徴。
「何者だ。身分を証明できるものは?」
「あぁ~ん? 俺はここの教師だったンだよ」
「……まさか、お前が脱獄犯の!」
役員が牽制を始める前に、空から赤い雨が降り注いでいる。
黒い魔法陣から現れた、呼吸する闇の剣が血塗られていく。
「あぁ、死んでるわ。ザコが」
「ちょっと~? やりすぎなんじゃないの、クロウルくん」
彼を咎める声が背後から響く。
軽薄な若造の声色だったが、やけに腹に響く。
「黙れよ」
振り向いた彼が見たのは、平均的な身長を持つクロウルの三倍はある背丈の男。
ひどく艶めかしく笑い、足元に散らばる死体を手に取る。
よだれを滴らせ、かぶりついた。
完食すると、彼の肉体は先ほどの職員のモノに変化した。
「さてと。キミの復讐、叶えてあげよう」




