【幕間その一 恋する天使】
これは、まだアダムとイヴが楽園を追放される前の話。
何万年も、前のことだった。
薄紅色の帳が常に広げられ、雲、または綿のように柔らかな足場を越えた先。
見上げるほどに巨大な純白の城間が聳えていた。
書類の束を抱えた智天使、アスモディウスは、乱れていた息を整えた。
「あぶな、遅刻するとこやった……!」
これまでの運動によって、額に浮かんだ汗をぬぐった。
熾天使のような機動性に優れた制服ではなく、露出を限りなく抑えた制服。
白いスーツに、これまた無垢なまでに真白いコート。
対照的なまでの黒髪と、その内に広がる赤。
亜麻色の瞳に、目元と胸元にあるホクロが、一段と彼女というシルエットを際立たせていた。
「おっせえなあ。オレら遅刻するかもしれなかったんだぞ」
褐色で、腰まで伸びた赤髪の女。
しかし彼女も、智天使の装いをしていた。
「ごめんねベレトちゃん! ちょっと、失くしてしもたんかと思って、家中書類探し回ってたんよ」
「相変わらずテメエはドジだなあ。さっさと行かねぇと、ミカエル様がカンカンだぞ!」
熾天使のミカエル。
ルシフェルの双子の妹であり、神の軍団の切り込み隊長。
圧倒的な武力と、機械のように冷徹なその目は、想像するだけでアスモディウスを震え上がらせた。
雲海を突き抜けるほどの白亜の階段。
空では、いくつもの太陽が輝いていた。
欄干は無く、落ちればそれまでといった様子だ。
だが、ここの主な利用者はアスモディウスらのような天使である。
翼さえあれば、落ちてもどうということはない。
「ひぃ……ひぃ……階段キッツ……」
「大丈夫か? オレ、手貸そうか?」
ヒールで段差の高い階段を上るのは苦行に近い。
いや、実際苦行だった。
アスモディウスは膝に手をついて必死に息を求めた。
天使であるため、酸素は必要ないのにも関わらず。
心がそうさせているのだ。
「ええよ、大丈夫。 自分一人で歩けるし……!」
「本当か? だって、アスモすごい顔してんぞ」
「えっ!? そないひどい顔してたん?!」
汗で口元に張り付いた髪。
疲労を湛え、やや蒼白した顔色。
きっとベレトには、そう見えているのだろう。
「あ~あ、ほら、髪飾りがずれてる。どれ、ちょっとツラ貸せ」
ヒールのカツカツとした音を鳴らし、ベレトはアスモディウスの髪に飾られた二本のヘアピンに触れた。
それぞれに、蒼い水晶がきらりと光っている。
確かに、それはわずかに傾き、智天使らしからぬ乱雑さを語っていた。
「オマエさ、これ誰から貰ったんだっけ。ずっと着けてるよな」
「これ、ルシフェル様から貰ったんよ。 悪魔掃滅ですっごい忙しそうにしてはったさかい、ウチ、手伝わしてもらったん。 そうしたら、ルシフェル様、ほんまに喜んでくれはって……」
「よっぽど好きなんだな。ルシフェル様のこと」
「そらもう、大大大、超大好き!」
きれいに整えられた髪飾りを指先で感じ、笑顔で城間を見上げた。
あと数千段。
アスモディウスたちは、今にも飛んでいきそうな勢いで駆け上がった。
すれ違ったウリエルに、『翼を広げるのは交通違反ですよ』と釘を刺された。
すでに、一般天使たちの長蛇の列が出来ていた。
この城間は、【セフィロト】と呼ばれている。
天使らの均衡を管理し、昇進や降格を担う。
また、死した人間を天使として再誕させるための施設でもある。
智天使たちは、そこのナンバーツーだった。
「やっば……! もうこんなに人がいてはるわ……!」
「しょうがねぇ。職員専用の出入り口は空いてるか?」
「まあ、空いてるんやろうけど。 ウチらだって職員なんやし」
「よし、行くぞ、ダッシュだ!」
ベレトが、アスモディウスの手を強く握り、足を速めた。
豪速、または神速。
運悪く直撃してしまえば、遥か彼方まで吹き飛んでしまうだろう。
風を切るその感覚が、翼へ直に伝わった。
捥ぎ取られそうだと、アスモディウスは声を上げた。
「入口だ! 時間は……、あと一分! よし、いける――」
足で扉を蹴り破ろうとするベレト。
しかし、膜のようなものに阻まれた。
熾天使のみが使える、白い防護膜だとアスモディウスは理解した。
「憐憫。常にゆとりをもって行動するように」
「み……ミカエルさま!」
上空を見上げる。
アスモディウスとベレトの顔面が蒼白した。
よりにもよって、今一番会いたくない人物だった。
ミカエル。
つい最近、熾天使に繰り上げ昇格となった元一般天使。
学院を首席で卒業し、ルシフェルのコネで成り上がったと噂されていた。
しかし、それは彼女の実力由来だと、アスモディウスら智天使は知っている。
「閉鎖。受け入れはここまで。一般天使向けのカウンターからどうぞ」
「そこを何とかお願いしますミカエル様……! あと一分やないですか!」
「拒否。ダメなものはダメ」
へにょおっと、萎れそうなアスモディウスとベレト。
しかし、空を流れる雲のように柔らかく、澄んだ小川のように爽やかな笑い声が聞こえてきた。
男のものだった。
そして、アスモディウスはその声を聞き、目を輝かせた。
「あっはは。いいじゃないかミカ。開けてやりな?」
ミカエルにも似た――。
いや、この場合はミカエルが彼に似ていた。
腰まで伸びた白髪に、ザクロの実のように真っ赤な瞳。
180センチはあるだろう高い背丈に、端正すぎるほどの顔立ち。
完璧と言わざるを得ない男。
ルシフェルだった。
ミカエルは8枚の翼が生えていたが、ルシフェルには12枚だった。
天使ですらも、『神々しい』と感じてしまうほどの輝きを放っている。
機械的だったミカエルの顔が、わずかに動揺したようにも見えた。
ベレトも思わず背筋を正し、アスモディウスは彼をただ見つめている。
「困惑。ですがお兄ちゃん、ああいえ、お兄様。彼女たちは、時間通りに行動できなかっただけで……」
「うんうん。それは問題だね。でも、だからと言って厳しく突き放しちゃうのはどうなんだい? ワタシは、むしろ寄り添ってやるべきだと思うな」
ルシフェルが、アスモディウスの顔に視線を注ぐと、片目をパチンと閉じてウィンクをして見せた。
アスモディウスの胸元が、きゅうっとときめいた。
その姿が、脳裏に焼き付くように刻まれた。
「ね? お兄ちゃんからのお願いだ。彼女たちを、見逃してやりな」
「許諾……。お兄様が言うのなら」
「ありがとう。さすがワタシの妹だ。物分かりがよくて助かるよ」
言って、ルシフェルがミカエルの頭を、壊れ物のように優しく撫でた。
ミカエルは、熾天使の制服をぎゅっと握りしめた。
機械的に振舞ってはいたが、こうして見ると彼女はただの女の子だ。
「る……ルシフェル様! あの……えっと、こないだはありがとうございました! おかげさんで、書類の整理、すぐに終わりました!」
「あぁ~、えっと……。そうだったね。ワタシが力になれたようでよかったよ。もしもよかったら、またワタシを呼んでね」
「そ……そんなん! ルシフェル様はお忙しいお人やのに、ウチなんかがおいそれと『手伝って』なんて……言えまへんえ!」
優しい笑みを浮かべるルシフェルは、アスモディウスの前に降り立った。
ふわりと、ミルクのように甘い匂いがする。
そして、アスモディウスの頬を両手でまるで飼い犬のように撫でていた。
「むぅ~! ルシフェル様ぁ~! ウチ、ワンちゃんやないです~!」
「ごめんごめん。ついね、可愛らしくって」
口では嫌がっているものの、アスモディウスの目じりは下がっていた。
とろんと、想い人に触れられる今の感覚を、ただ噛みしめていた。
「ああ、キミはアスモディウスちゃんだったか。まだ、この髪飾りを着けていたんだね」
「はい! これは、アナタから頂いた宝物ですさかい!」
愛おしそうに、アスモディウスの亜麻色の瞳を見つめるルシフェル。
そして、自身と彼女の額を重ね合わせた。
急接近するルシフェルの美貌に、アスモディウスは、あわあわと顔を紅潮させた。
「絶対に失くさないでね?」
「もちろんです! ルシフェル様!」
満面の笑み。
彼女の辞書から、『否』という単語が消え去ったかのようだった。
恋する少女をよそに、ベレトはルシフェルがどこか物悲しい表情を浮かべているのを目にした。




