【第四十六話 ラファエル】
滴る雨音を思わせるほどの清涼な声に、カレンたちは振り向いた。
崩れゆくアスモディウスの空間が持つ橙色の揺らめきと対照的な、空のように青いその姿。
容姿端麗なその天使は、傘を広げながら翼によりふわりと浮遊していた。
「あの姿……もしや……」
リウは、彼女に見覚えがあった。
忘れもしない、ロニアとの特訓の日々。
緑魔法が如何に尊いかを解いてもらったときに、ロニアが小石で破壊した天使像。
あれは、目の前の彼女のカタチをしていた。
閉じられたまぶたに、くるんと巻かれたセミロングの蒼い髪。
それがまるで波を表しているかのようで、ラファエルが水を扱うのだと示していた。
「ラファエル……!?」
「あっ、リウ! 【様】付けしないと!」
「あら、ワタクシを知っているのですか? 有名になりましたねぇ。それよりも、油断するのはまだ早いみたいですよ。大罪は、アナタたちが思っているよりもしぶといですから」
カレンたちが振り返ると、アスモディウスがいた場所には二体の人型砕獣がいた。
一体は牛の頭部をしており、毒蛇の尻尾が生えている。
それ以外は、ごつごつとした肌を持つヒトのものだった。
片方は羊の上半身に、ガチョウの足で直立しているが両腕はやはり同じような肌質のヒトのものだった。
喉元の皮膚がぶくぶくと波立ち、湿った空気が漏れるような音を立てている。それは対話を試みようとしているのか、それとも獲物を定めた合図なのだろうか。
砕獣を研究しているカレンは、眼を細めて様子を窺う。
ふと、目が合ってしまった。
ドクン。
カレンは、心臓を握りつぶされるような感覚を覚え、肌に粟が立った。
指先が白く染まるほどに強く握られていた杖を、ぽとりと落としてしまいそうだった。
その様子を見ていたラファエルが、慈愛の笑みを浮かべる。
そして、カレンたちの前に降り立ってロニアを抱き上げた。
ことんと言うヒールの音が木製の床で響き、ミルクのような甘い匂いが広がった。
リウよりも背が高い。176センチはゆうに超えているだろう。
「このコは、いったんよそに置いておきましょう。大罪の配下をまずは片付けましょうか」
【道を示せ、アザリア】。
指先が円を描くように動かされると、クラゲのような水泡が気絶しているロニアを隅まで運んだ。
いまだ力なく、ぐったりとロニアは横たわっている。
べっとりとした脂汗が滲み、呼吸はか細い。
「あの……ロニアくんは大丈夫なんでしょうか?」
「ご心配なく。ロニアはとっても頑丈ですから。ああなったのは、試練の鍵を行使したからでしょう」
「試練の……鍵?」
「ワタクシら四人の熾天使の力が込められた鍵ですよ。あのコったら、堕天したときにくすねたの」
実際は、カマエルがこっそりとロニアに渡したのだが、カレンらはそれを知らない。無駄な情報を与えても、混乱を招くだけだ。
「さ、チャッチャと片付けましょうか」
傘を閉じると、槍のように鋭い石突きが姿を表した。ガシャンと音を立てて、それはさらに隆起する。
蝋燭の淡い揺らめきに、その切っ先がギラリと赤く照らされた。
癒しの熾天使らしからぬ圧を放ち、まず初めに牛頭の人型砕獣が動いた。
牛であるはずなのに、猪突猛進。
木片を撒き散らす正直すぎる突進に、ラファエルは綿のように跳躍した。
「ふふっ、闘牛士なんて久しぶりに見ました。でも、あいにくワタクシには心得が……ないのですよッ!」
刃先を眼下の人型砕獣に向け、突如重力が加速したかのように落下する。
風を斬る。
――ぐりん。
砕獣の硬質な肌が、まるで焼きたてのパンのように貫かれる。
鍵を差し込むかのように二度三度捻じると牛頭は雑巾のように絞られ、瓦解していった。
「す……すごい……!」
「天使っつーもんは、バケモノしかいねぇのかよ……!」
「あら、いわゆる人外というやつですわよ。砕獣も大罪も天使も。みんな同じです」
ちらりと、ラファエルが眠っているロニアを横目に見る。
口元に微笑を浮かべ、その視線はすぐに残りの砕獣へと移された。
メエェェッ、と鳴き声を上げた砕獣。
なんと、球状に身体を丸めて毒の蜜を纏いながら回転してきた。
S字に走り、対象はラファエルではなくカレンへ。
「ウソ……私!?」
杖を握りしめて詠唱の構えをとる。
だがしかし、カレンの魔法はチャージするという癖があった。緑魔法は即座に使用できるが、砕獣の勢いを殺せるかと言われればその答えは『否』である。
リウが庇おうと前に出るが、1歩遅かった。
回転に押し負け、吹き飛ばされる。
「あら、これは大変ね」
大して焦った様子を見せないラファエルは傘槍を引き抜いた。如雨露の如く、刃先から浄めの雫が垂れていた。
絶体絶命。
反射的に目を閉じるカレン。
だが、終わりは来なかった。
彼女と砕獣の間には、真っ白な膜が張られている。
熾天使のみが使える防護膜。
ラファエルではない。
なら、これを用したのは――。
「……離……れろ……」
鈍重な鉄球を背負っているかのように、ゆっくりと身体を起こすロニア。
右腕で身体を支えてはいるものの、やがて潰れる。
唸りを上げながら、彼はまるで全身の骨が粉砕されているかのように、ぎこちなく立ち上がった。
その目に光はない。
「ロニアったら……」
弟の成長を喜ぶ姉のようなラファエルだが、その表情にはわずかに懸念と杞憂が混じっていた。
(ああなってはこの先危険ね)
傘を再び広げ、盾のように構えた。
起き上がり、カレンの元へ駆けつけたリウが砕獣を殴り飛ばす。
金属同士が擦れ合い火花が散り、リウの右腕が研磨されていく。だが、吹き飛んだ砕獣は崩れゆく壁に埋もれ、大きな窪みを作った。
糸に吊られるよう、立ち上がるロニア。
力なく腕をぶらんと垂らし、呪詛をボソボソと呟いていた。
『――行け。行け。我らがサタナキア』
『アスタロトは愚者に要らぬ知恵を授けルキフグスは金に溺れよ。我の光に怯えたオマエと共に交信せよ』
『――曰く、カミこそ我らにありと』
巨人の拍動にも似た重低音が、その場に響いた。
ロニアから伸びる影は少年のものではない。
そこにあったのは、背丈の高い青年の影だった。
ロニアの魔力バックアップを受けていたカレンとリウの肉体に、黒い稲妻が迸る。痛みはなかった。
それは四肢を動かす電気信号を支配し、意思に反して肉体を動かした。
操られた両手は、まるで眼前の少年に祈りを捧げるかのように握られてしまった。抗おうとしても、眼前の彼に跪こうとする意思が働いた。
「どう……しちまったんだよ……ロニア!」
「目を覚まして……ロニアくん!」
光なき少年の喉から、今までに無いほどに低い声が響いた。二重三重にも重なった声にノイズが走っている。
「オープン。外典:真なる奥義の書」
ぶらんと吊り下げられたようなロニアの右腕が上げられ、丸まっていた身体を起こした人型砕獣に向けた。
虚空に浮遊する黒いページと、この空間そのものに書きなぐるような血文字が浮かんだ。暗黒の霧が立ち込める。
魔法に使われるルーン文字ではない。
天使と十二神徒の第一席のみぞ知る天使の言語だ。
「いけない……。あのコ、侵食されてるわ」
ラファエルが目を開いた。
彼女の目に映るロニアは、酷く淀んだ白い魔力に包み込まれ、かつて天使だったというよりも悪魔の王のそれに近かった。
「【癒しなさい】!」
ラファエルの足元で白い魔方陣が回転し、カレンとリウを照らした。魚の肝のような、ほのかに生臭い臭いが鼻についた。
癒すだけの、優しいものではなかった。
稲妻は塵となり消えて、2人は身体の自由を取り戻し、肺が酸素を求めるかのごとく荒い呼吸を繰り返す。
「いったい、ロニアはどうしちまったんですか!?」
「あれは、ロニアくんじゃないみたい……!」
「その通りです。【試練の鍵】は、デメリットが付き物。権限を酷使しすぎて、人間となった肉体に大きな負荷がかかったのでしょう……。暴走、と言うべきですね」
実際、カレンはおろかリウですらも、ロニアの歪で肥大化した白く、しかし同時に真っ黒な魔力を視認できたからだ。
「【認証。黒魔法:来たれ燼滅。救済を掲げよ】」
色が反転し、音という音が止まった。
アスモディウスの甘い匂いが焦げる灰の臭いへと変わり、五臓六腑がねじ曲がるような圧が広がる。
漆黒の魔方陣。
それに似つかわしくないほどに、目が眩むほどの輝きを放つ72本の光剣が姿を現した。
「許可する。行け」
剣たちが風を斬るその音は、さながら魑魅魍魎の咆哮。
まず一本が貫いた。
それだけでも、砕獣の肉体七割が吹き飛んだ。
続けて二本。
残ったのは左腕。
そして三本。
砕獣を構成する組織すらも消えた。
光の剣は、すべてかつて砕獣がいた場所へと降り注ぐ。
これ以上は、もはや無意味な殲滅。
悪趣味な死体蹴りだ。
そこにあったのは、ただ真っ黒な虚無。
「ダメ……こんなのはダメ……!」
震えが止まらなかった身体を無視。
いや、カレンを縛る鎖を振り払い、ロニアのような少年の元へと駆けた。
「い、いけません、カレンさん!」
彼女の腕を掴み制止するも、涙が浮かぶ彼女の瞳になにか覚えるものがあったのか、ラファエルは思わず手を離してしまった。
「もうやめて! ロニアくん、戻ってきてよ!」
眼前の魔王に手を伸ばす。
触れられるのは恥ずかしいと、手を繋ぐことを拒む彼の柔らかな手。
離さないよう、力一杯握りしめる。
殺気を含んだ瞳だけが、カレンをぐりんと睨んだ。
飲み込んだ唾液が喉で固定されたような息苦しさがカレンを襲う。
やがて、その赤い目はゆっくりと大きく見開かれた。彼から伸びた青年の影が消え、そこにあったのは少年の小さな姿。
「カ……レン……」
抑えきれぬ圧が、まるで水流にさらわれたようにふっと消えていった。彼女の甘い香りに、ロニアは現実へと引き戻されたのだ。
瞳に光が戻ったロニアはカレンに倒れ込み、やがてすぅすぅと寝息を立て始めた。
アスモディウスの空間が、まるで最初からそこに無かったかのように消え、地下実験室が戻ってきた。
「か、カレン……その人は誰なのです!?」
「……紹介は後だよ。まずは、ロニアくんを安静にしないと」
マチィナの方はケリがついたようだ。
勝利を収めたが、ロニアにとっての代償は大きかった。
ユーノに寝室へと案内されたカレンたちは、柔らかな寝床にロニアをゆっくりと寝かせた。
月明かりが照らす彼の寝顔。
カレンは、彼の手を握りながら目覚めのときを待っていた。




