【第四十四話 聖剣】
マチィナの眼前に、雨粒のような弾丸が迫っていた。一瞬のことながら、彼女にはとても遅く映っていた。
手に汗を滲ませながら剣杖を握りしめる。
心臓が早鐘を打ち、瞳は震えていた。
マチィナは腰を落としてひとつずつ弾丸を切り落とす算段を立てていた。
横薙ぎは脳天に直撃する。――却下。
袈裟斬りも同様。――却下。
魔法で防護壁を展開するのはどうか。
間に合わない。――却下。
ならば。
未だ腐臭のするこの地下実験場の、吸い込めば嘔吐いてしまうような空気を吸い込み、助けを叫んだ。
いつもなら、喉奥でつっかえて声にならなかった言葉が、今や彼女の声帯を強く震わせた。
「助けて! お姉ちゃん!」
一陣の風が横切り、マチィナの眼前に太陽が瞬いた。
あまりの眩しさに、彼女は思わず目を細める。
一瞬の事だった。
襲い掛かっていた黒の弾丸たちは、どろりと溶けて足元に落下。
むせ返るほどに、鉄と鉛の臭いが充満した。
輝いていたのは、アレサの剣、擬似聖剣だった。
凛として、マチィナを庇うように立ち塞がるアレサの後ろ姿から、押し潰されんばかりの圧があった。
妹には笑顔を向けようと努めるその表情だが、未だに彼女の涙袋は痙攣し、口角は引き攣っている。
「ねずみちゃん。いえ、マチィナ。頼ってくれてありがとう」
「お姉ちゃんこそ」
マチィナの頭をポンと撫でるその手には、激怒とは正反対の慈愛があった。
アレサの内側を駆け巡る感情の数々がマチィナにも伝わってきた。
それがマチィナにとってはどうしようもなく、心の澱が晴れる気分だった。
『私は、この人に大事にされている。こねずみではなく1人の妹として』
誰もこの言葉を口に出さなかった。
もはや、心で通じ合っている。
「ははっ……はははっ……! 私の聖剣も完成し、もうじきクレアが目覚めるんだ……! だから、邪魔をするなァ!」
どこからか弾丸が再装填され、再び銃口がアレサとマチィナを捉えていた。
横目に蹲っているユーノをアベルは一瞥し、これは使えそうだと言わんばかりに笑う。
「おい、ユーノ。マチィナとかいう子が嫌いだったんだろ? なら私に従いなさい! その剣で、処分しろ!」
名前を呼ばれ、心臓が抉られるような感覚に陥ったユーノ。
かたかたと震えながら帯刀している剣に手をかけた。
親指の腹が僅かに柄に触れると、糸で引かれた様に体が強張る。
肺の機能が停止したかのように、ユーノは窒息を覚えた。
目じりから流れるこの生暖かい涙は、果たして悲しさからか、それとも生理現象か。
どちらにせよ、ユーノは目の前で構えている姉妹たちを見て、無力感に苛まれていた。
「と……とうさ……ん」
絞り出すように放った言葉は、アベル自身の呼吸音にすらかき消されてしまった。
絶望。無意味無価値。
ユーノを覆う感情の正体だ。
あんなにも虐げてきた【こねずみちゃん】は今や啖呵を切り、実父に刃先を向けている。
あんなにも慕っていた【お姉ちゃん】は、妹の為に激情に顔をゆがめ、実父をも殺す勢いで立っている。
ならば自分はなんだ。
安全圏に立って、実際のところ自分よりもはるかに優れていた妹を嘲笑していただけ。
それはまるで――。
「卑怯者……じゃん、私……」
心臓がねじ切られるような痛みは、心の負傷を悠然と語っていた。
謝りたいが、それで許してもらえるほど自身の投げかけた言葉は甘くない。
あれは、存在の否定だったのだ。
そのため、ユーノが何かしたくともそれを許さぬのはユーノ自身なのだ。
乾いた破裂音。
暗闇にぎらりと光り唸りをあげる何十発もの弾丸。
アレサが剣を掲げ円を描くように遣うと、薄暗い地下室に再び太陽が現れた。
「行け……!」
アレサは喉奥を震わせ、弾丸の一発ずつが仇敵であるかのように睨んだ。
太陽が拍動すると再び弾丸が溶解し、あの臭いが鼻腔を突き刺す。
それだけではない。
アベルが護るようにしていた培養液のカプセルに、ピシッっと不吉なヒビが入った。
内部で穏やかな眠りを謳歌していた少女が、不機嫌そうに眉を寄せたようにも見えた。
その音に気付いたアベルが、素っ頓狂な声を上げて振り向く。
そして、ヒビの入ったガラスを撫で回しながらまやかしを囁いていた。
「あぁ……!? クレア、クレア! 大丈夫だからね! すぐに終わるから! これはただの悪い夢だから!」
その様子をただ眺めることしかできなかったユーノは、既視感を強く覚えていた。
同じだ。
かつて、マチィナという妹を【母を殺したバケモノ】として扱っていたのは現実逃避だったからだ。
すべては悪い夢だから。
そう、自分に言い聞かせていた。
けれど太陽と月が何度も巡る度に、願いは妄想に腐り果て、残ったのは喪失感だけだった。
何をどうしても、母は戻ってこない。
騎士は何かの命を奪わなければならない職業だから、より一層命に敏感にならなければならないはずだ。
しかし自分は母の命の所在を忘れていた。
母は眠っている。誰にも邪魔されない、安らかな眠りの中に。
「はは……あはは……バカみたい……。一番のネズミは私よ……」
拍動していた心臓に、まるでガラスが刺さったかのような痛みが走る。
どくどくと、ユーノを保っていた自尊心が出血しているのだ。
両頬が温かい何かに濡らされる。
顔を上げてみれば、姉も、妹も戦っている。
姉は妹のために。
妹は、【マチィナ・ペンテレア・シトリウス】という個のために。
「ちょこまかと……。まだいるんだろう、失敗作!」
アベルの問いかけに応じたのは、培養カプセルの裏側で怯えていた失敗作のひとつだった。
他の個体と同じく赤黒い肉塊が蠢いているだけだったが、鳴き声が鮮明だった。
『コ……コワ……イ』
マチィナと同じ声で、それは鳴いた。
意味があるとそれは知っているのかどうか知らないが、とにかく怖がっていることはわかる。
傲慢にも、どうにかしてやらないと、と思ってしまったユーノだった。
「私の壁になれ! どうせ死にはしないんだろ!?」
爪を突き立ててその失敗作を鷲掴みにするアベル。
体液のべとつく感覚が、手のひらを満たす。
『イ……ダイ……イダダイ!』
小枝のように細く雑草のように薄い触手でアベルに抵抗するも、それは雲を掴むのと同じぐらいに無意味な行為だった。
「なんてゲスな……!」
「ひどいのです! あれも私なのに!」
姉たちは口々に怒りなどを湛えるなか、ユーノは憐憫を覚えていた。
恐怖心がある。
痛覚がある。
感情がある。
どんな化け物であっても。
それは、人間と変わらない。
そう結論付けた時、ユーノの身体は勝手に動き出していた。
「その子を……離せええ!」
震える脚で立ち上がり、アベルに組み付いた。
こちら側だと確信すらしていたアベルは、ユーノの裏切りに眼を見開いて肉塊をぽろっと落としてしまった。
自身の全体重をかけて、アベルの二の腕や脚を固定する。
どうしてこうしたかはわからない。ただ、あの肉塊と自分を照らし合わせてしまったからだ。
落ちゆく失敗作を、飛び出したマチィナが胸元に抱きかかえた。
血か、それとも別の何かかは定かではないが、ツンと鼻を刺す異臭を放つ肉塊をマチィナは嫌な顔をせずに撫でている。
そして、組み伏せるユーノの横顔をマチィナは眺めた。
「ユーノお姉ちゃん……」
「うっさい……! 自分でもなんでかわかんないのッ!」
彼女は、意識的にマチィナを視界に入れないようにしている。
罪悪感由来だろうか。それでもユーノらしからぬ行動に、マチィナは目頭を熱くした。
肉塊も、触手を揺らしている。
『おね……おね……かっこ……』
「うん。今のお姉ちゃんたちは、とってもかっこいいなのです……!」
上体を起こそうと試みるアベルの顔面を、ユーノは左手で押さえつけた。
血と蜜で湿った土が頬に生温かい感覚と同時に、ひんやりとした無機質な温度を与えた。
「お姉さま! 私が押さえている今のうちに、早く!」
「ええ、わかった」
言って、アレサは一歩一歩を踏みしめながら歩み寄る。
かちゃん、かたん。
金属製の足甲が鳴く。
「待て、待つんだ! 気が狂ったのか!? 私はお前たちの父親だぞ! それに、シトリウス家の当主でも――」
ザシャン!
アベルの眼前で、アレサの聖剣がまるで綿菓子を串で刺したときのように地盤を貫く。
父を見下ろすアレサの瞳は、今や絶対零度だった。
「もはや、何も語りますまい。あなたは、シトリウス家の恥さらしです。命までは取りません。テンプル協会に連絡しますから、一生を牢獄で過ごしなさい」
「頼む……! 待ってはくれないか……!? クレアが、もうすぐで目を覚ますかもしれないんだ! 一目だけでも、見させてはくれないか?!」
肉塊を抱えたままのマチィナが眼を伏せ、目尻から溢れるそれを堪えながら言葉を繋いだ。
「私じゃ、ダメなのです……? クレアとして作られたけど、マチィナとして育った私じゃ、いらないのです……?」
「そ……それは……」
「私はクレアじゃないのです。私はマチィナなのです。でも、パパの娘なのですよ?」
頬を濡らすものは思ったよりも冷たくて、ぽちゃんと肉塊に触れた。
触手を伸ばし、マチィナの頭をぽんぽんと叩いている。
「……私は、ダメな父親なんだな……」
アベルが、ついに抵抗を諦めた。
アレサが、自身のマントを引き千切って拘束ロープの代わりとしてユーノに渡した。
慣れた手つきで、アベルの四肢を縛り上げる。
マチィナと目が合うと、アベルの瞳から大粒の涙が零れ始めた。
その口は、クレアかマチィナと呼ぶべきかで葛藤し、しかしどちらも呼ぶことができなかった。




