【第三十八話 マチィナとクレア】
旅に疲れた肉体が、食事を求めている。
食堂の大テーブルからは、厨房の様子を確認できた。
白く背の高い帽子を被った三人のコックが、言葉を交わさずとも意思疎通をしており、流れるように料理が出来上がっていく。
内心、楽しみにしていたものがある。
マチィナが堂々と語った、ソーセージだ。
彼女があんなにも念押しするのだから、きっとよほど美味しいのだろう。
肉の焼ける香ばしさが鼻をくすぐり、口内で涎を大量に生成していた。
まだかまだかと、頬杖を突きながらぽけ~っと待ちわびているその様は、まるで猫のようだ。
ロニアの頭部に、白い毛の猫耳が生えていそうだ。
厨房をじっと見つめていると、なんともバツが悪そうにしている料理人たち。
ロニアもそれに気づき、視線を逸らした。
「おなかすいた」
そう呟くロニア。
「ロニアくん、ずっと我慢してたもんね〜?」
「うん。お昼からなんも食べてない」
白魔法は強力だが、その分エネルギーを多分に消費する。すきっ腹で行使すれば、飢餓は目前だろう。
「ねずみちゃんから、うちの事を色々教えてもらったようね、あなた達?」
「まあ、はい。ソーセージが美味しいそうですね」
「うちが優れている訳じゃないけどね。私たちのご先祖さまから受け継いだだけだから」
アレサが、謙遜の中にどこか気高さを感じられるような笑いを見せた。シトリウス家の人間は、昔のロニアが少しだけ知っている。
ものづくりに長けていて、初めて杖を開発したのもシトリウス家だった。
しかし近年、アポテオシス協会の台頭により、シトリウスの技術は斜陽となった。代わりに産まれたのが、アレサ率いる騎士協会だった。
彼女なりに、家を立て直す努力をしているのだろう。
「そうだ、ねずみちゃん。リウくんの他に友達ができたのなら、それまでのことを教えてくれない?」
それよりも、カレンはマチィナの過去が気がかりだった。何故、彼女がクレアと呼ばれているのか。
何故、ああまでユーノに嫌悪されているのか。
彼女は何故、笑顔を取り繕っているのか。
マチィナの双眸は、遠い過去を見つめているようだった。
カレンは、マチィナの薄氷のような瞳の奥に、きゅるきゅると動く瞳孔に吸い込まれていくような感覚を覚えた。
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それが羊水のものだったか、覚えていなかった。
けれど確かなのは、暗くそして温かい液体に浮かんでいたということだ。
浮力に従い、地に足を着くことが出来ないあの感覚を、マチィナはまず初めに覚えた。
「……ああ、クレア。私の可愛いクレア」
シトリウスの姉妹や、彼の妻とは違う黒髪の男が、無垢なガラスに手を添えながら恍惚とした表情で、安らかに眠る少女を見つめていた。
彼の足元には、赤黒く変色した何かが蠢いている。
それが音を発する度に、男は足で踏みつけた。
鳥の囀り、または悲鳴にも似た音が響く。
アベル・ブックメイク・シトリウス。
妻と三女を失った、哀れな男こそが、禁忌に手を染めた者だった。
三女クレアは水子。妻はそのショックで、自ら命を絶った。長女が12、次女が、まだ8つの頃だった。
まだ幼子だったふたりを差し置いて、アベルも妻の後を追おうとした。けれど、失敗に終わった。
そして、彼の目の前に現れたのだ。
何よりも冒涜的で、しかし蠱惑的な罪が。
「アンタのやや子……えらい大きゅうなりはりましたなあ。禁忌に手を染めた気分は、どうどすえ?」
男性であるならば、彼女に誘惑されないのは不可能と言えるほどの美貌に、艶かしい肉体。
舌なめずりをするその様は捕食者のようで、唾液は骨を溶かす酸の如く獲物を追い詰める。
色欲の大罪、アスモディウスだった。
「もうすぐだ。もうすぐ、クレアが帰ってくる……」
「産まれたてのやや子には、お乳あげるお母はんが要りますやろ? それとも、乳母でも雇わはったんどすか?」
「その必要がないのは、お前もわかっているんだろうに、アスモディウス」
アベルが振り返り、アスモディウスの瞳を見つめている。
彼女の黒髪の内には赤の帳が広がっており、亜麻色の双眸を輝かせていた。
「ふふっ、アンタも随分と、ヒトを捨ててこっち側へ堕ちてきはりましたなあ。アベルいう名前が、泣いてはりますえ」
「何を言う。娘を望んで、何が悪い」
そう言うアベルの背後に、娘はゆっくりと目を開けた。アスモディウスはそれに気づいていたが、あえて伝えなかった。
「ホムンクルス、それとも機械人形……? どのような形であれ、アンタの夢は、叶いはりましたなあ。おめっとさん」
「ま……きな……?」
あまりにも無垢で、しかし抑揚のない声。
初めての言葉。初めての発声。
それこそ、彼女が自分の名前だと勘違いした単語だった。
「可愛いお嬢ちゃんが、お目覚めどすえ。ほら……お父はん。ご挨拶、しはらへんの?」
アベルが、再び無垢なる少女と自分を隔てるガラスに触れた。
まるで撫でるように、それを撫でている。
「……クレア! ああ、成功した! クレア、パパだよ。見えるかい!」
「くれあ?」
「そうだ! 君はクレアだ!」
しかし、彼女は首を傾げた。
それが、自分の名前ではないと感じているように。
「ま……きな。マ……チナ。マチナ」
ただ、そう繰り返す少女。
光差すアベルの表情は、暗い影に覆われた。
それとは対照的に、アスモディウスは慈愛を含んだ顔で笑みを浮かべていた。
「あら、ウチが名付け親みたいどすなあ。困りましたなあ……いっそのこと、お母はん役にでも、なってあげまひょか?」
「黙れ。お前は、クレアの親などではない。私と、サラだけがシトリウスの親なんだ」
「せやけど、そのサラはんは、もう居てはりまへんえ。そうどすやろ? この子のせいで、死んでしまわはったんやさかい。」
アベルの脳内に、ふつふつと血液が沸き上がるような感覚が奔った。
サラが死んだ。クレアのせいで死んだ。
心の奥底で、ふと考えついてしまった禁句を、ほじくり返されたからだ。
サラは死んでいない。クレアも。
みんな、ここにいる。
アレサもユーノも、これで大丈夫だ。
また、家族で食卓を囲もう。
そう考えていたものの、足元の失敗作たちがアベルを現実に引き戻す。
彼のズボンの裾を、指のような器官で引っ張るそれ。
泡立つような音で、『ぱっ、ぱっ』と彼を呼んでいる。
アベルは、表情を引きつらせながらそれをなんども踏みつけた。
ぐちゃり、と嫌な音がした。
未熟な果実を踏み潰したか、それとも小さな骨か。
「見苦しいどすえ。クレアが、不憫どすなあ。いくらウチが『色欲』や言うても、それは……気分が悪うて、かないまへんわ」
「元はといえばお前が私に囁いたからだろうが!」
「望んだんは、ウチを呼びはったんは……誰どす? それを一度、よう考え直しておくれやす」
アスモディウスが、甘い肉の香る、暗い地下研究所を後にした。
呼び止めるアベルに、一度足を止めて振り向いた。
その眼は、まさしく悪魔。
上級をも凌駕する、大罪。
「人間たるアンタが、全ての元凶どすさかい……。そこを、履き違えたらあきまへんえ?契約通り、サラはんの体はいただきやす」
「待て、おい!」
制止するも、アスモディウスは粘つくスライムのように溶け、その場から消えた。
項垂れる、哀れな父親だけが残ったのだ。
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「お待たせいたしました、お客様。こちら、シトリウス名物の……」
カタッと、真っ白な食器が音を立ててロニアたちの前に置かれた。
ロニアの想像していたソーセージとは違った。
「ヴァイスヴルストでございます」
その肉は白く、焦げ茶色の焼き目がむしろ、コントラストを産んでいた。
「この香り……、レモンなんですね?!」
ロニアが、目を輝かせる。
食に興味はなかったが、何せ飢餓目前だ。
腹に入れば何でもいい。
けれど、おいしいものがいい。
すでに、肉汁と脂が表面を輝かせ、湯気が香りを鼻腔まで運んだ。
「すっげえ、うまそぉ……」
「ロニアくん、みんなの分も残すですよ?」
「わ~ってるよ、でも、ちょっと多めにいただこうかなぁ?」
食べ盛りの息子を見るように、カレンは自分のものを半分に切り分け、片割れをロニアの皿に置いた。
「えっ、いいの?」
「とってもお腹すかせてたし、いろいろ助けてくれたからね」
やったあ。無邪気な少年のように、ロニアはソーセージを口に運んだ。
しかし、このソーセージはずいぶんと固い。
ナイフで切るのに悪戦苦闘していた。
いっそのこと、白魔法マタイで切り裂いてやろうかとも思った。
「ロニアくん。これはね、皮をむいて食べるんだよ」
「え、そうなの?」
「ふふっ、皮ごと食べるなんて、ワイルドね」
アレサが揶揄うように笑っていた。
少しだけ恥ずかしかったので、唇をすぼめるロニア。
カレンが皮をむくと、香りはより一層良いものになった。
咀嚼するたびに、脂があふれ出る。
レモンとパセリの、一見相反する存在が、手を取り合って調和を生んでいた。
すると、食堂のドアが開かれた。
そこにいたのはユーノではない。
「おや、客人か。すまないね。研究に没頭していたから」
痩せこけて骸骨のような様相の男と――。
「えっ、どうしてあなたが……?」
アレサが、彼の連れている女性を見て、手に持っていたフォークを床に落とした。
桃髪で、翡翠色の瞳。豊満な肉体に、母性溢れる表情。
しかし、何かが違った。
ロニアが、列車で感じた違和感が、線でつながった。
美味かったはずのソーセージが、まるで腐臭のような味がする。
そのくせ、途端に空間に甘い臭いが満ちた。
「マチィナはんの、お友達どすか? 皆さん、えらい元気が良さそうで……よろしおすなあ?」
ロニアたちを見渡すその顔。
わずかに、舌なめずりをしたのをロニアは見逃さなかった。
「初めまして、お目にかかりますえ。ウチ……『サラ』言いますねん」




