【第三十五話 シトリウス】
いやに鬱蒼とした森だった。
黒い針葉樹の森が、乱雑に立ち並んでいる。
ここのにおいは、クリスタリアと似ていた。
ケリドリヒのような熱気はなく、ただ寒々とした風が、木の葉を揺らしていた。
「こっちなのです。逸れないようについてこいなのです」
彼女の小さな背中に、ロニア達は追従することにした。
星軒のように、案内人がいる訳でもなさそうだ。
自分たちはシトリウスという巣に迷い込んだ来訪者、と形容すべきだろう。
駅の出口は複数あり、しかし降りたのは自分たちと、わずかな人だけだった。
それに、ロニアたちと同じ方向から出る人間はいなかった。
先ほどの桃髪の女が、どうにも気がかりだったが。
彼女は、いやに懐かしい雰囲気がする。
甘い匂いのする粘着質なものだった。
前回は嫉妬。もしや今回は……。
いや、不吉なことを考えるのはよしておこう。
ロニアは、微かにかぶりを振った。
黄昏時の森は、もはや夜と言ってもおかしくなかった。
すっかり、夜の暗い帳が降ろされている。
今まで明るいところにいたせいか、余計に視認性が悪かった。
「うっへえ、暗いねぇ。カレン、いる?」
「いるよ。手でも握ろっか?」
「イチャイチャするなら置いていくですよ?」
マチィナの眼が光っていた。
思わず、すみませんでしたと頭を下げてしまった。
先導するマチィナの足が止まった。
どうしたと訊ねるリウだったが、マチィナは何も答えなかった。
すると、マチィナは右折する。明らかに、深部へと進む道だったのに。
訳は、ロニアも理解した。
正しい道にも見えるそこは、実際ワナだった。
エーテルの流れが歪で、侵された地盤があまりにも緩すぎたのだ。
「パパが作ったワナなのです。昔から、私たちの家系は怨みを買いやすかったですから」
「でも、騎士協会なんでしょ? 庶民のミカタって感じなのに」
「違うのです、カレン。それはお姉ちゃんの功績なのです。私のパパは――」
気の狂った研究者なのです。
彼女が、振り返りながらそう言った。
「私のあの杖も、パパの作った物なのです。『失敗作だ』って言ってたですけど」
剣杖。魔法も、白兵戦もこなせる武器。
レバーを引けば、それは変形し杭となる。
ロニアは見たことがなかったが、嫉妬の配下との戦いにおいて活躍したらしい。
「だから、持って来たくなかったんだね」
「……違うのです。あの……杖は……」
マチィナが、言葉を詰まらせた。
どうにも言えない事情があるらしい。
魔法を使うと何かまずいのか、それとも、失敗作を持ち込むのがまずいのか。
どちらにせよ、ロニアだけが解決できる問題ではなかった。
こんな時、セスはなんと言うだろうか。
『毅然としていろ』だろうか。
彼女のように、気の利いた言葉をかけられない。
マチィナの鎖は、リウやカレンの物とは違っていそうだ。
とても深く、深く食い込んでいるような気すらもする。
この森は、さながら迷宮だ。
ただいたずらに進んでいるだけでは、ワナにかかって命を落とすだろう。
リウが引っかかりかけて、ツタに首を吊られそうになったのだから。
すると、2つの銀色の影が見えた。
それは向かい合うように立っており、やがてマチィナが通ると跪いた。
彼らは、シトリウス協会の騎士たちだった。
「お帰りなさいませ。クレアさま」
「ご邸宅は、ここを真っすぐお進みください」
「え、クレア?」
ロニアは、揺れる桃髪から見え隠れする横顔を眺めていた。
涼しい顔をしているようにも見えるが、唇を噛み締めていた。
クレア。彼女は、マチィナだ。
狂った研究者の父。『失敗作』。
そして、マチィナと似た特徴の、あの女。
あの香りは、間違いない。色欲だ。
「まさか……」
ロニアが足を止めた。
今歩んでいる道が深淵への隘路で、自分たちは無謀にもそこへと誘われているようだった。
クレアと呼ばれたマチィナは、もしや好餌だったのか。
「ロニアくん。心配しなくても大丈夫なのです。アレサお姉ちゃんは、きっと優しいのです」
いつものように笑うその瞳には、光がなかった。
「マチィナ……いや、クレアなのか、お前?」
「リウ。私は、マチィナなのです。それ以上でも、以下でも。クレアなんて、知らないのです」
ロニアは初めて、恐怖というものを覚えた。
人間の内に秘めたる狂気と、それが織りなした悲劇の結末。
この里帰りはやがて、全員の心にべとつく記憶として残るのだった。
今回は少し短めです。
明日は物語が大きく動き始めます!




