【第二十八話 大罪の配下たち】
水の柱が上がったのを、カレンたちは目にした。清竜湖が割れている。
月天とロニアが黒魔方陣の中に引きずり込まれ、代わりに湖の中から獣たちが現れた。
水棲の爬虫類。
王朝の人々がよく口にする蛟にもよく似ていたが、その風貌は蛇のそれだった。
茨のようにトゲトゲした鱗の隙間から、青黒いヘドロのようなものが垂れている。
それと視線が合う度に、肌が粟立った。
ロニアが負けるとは思っていない。しかし、自分たちはどうかわからない。
目の前の、水獣を相手しながら、カレンは冷や汗をかいていた。
とにかく硬すぎる。赤魔法が、効く様子がない。
どれだけ魔法を打ち込んだとしても、ぬるりと表面を滑り落ちてしまった。
それどころか、物理も効かない。
リウの拳も、マチィナの剣杖も。
ぐるると唸りを上げ、獲物を見るような目で睨んでいた。
息を飲む。星軒が牽制し、なんとか動きは抑えられているのが幸いだった。
セスは残りの水獣2体を、ひとりで相手している。
大海のように流麗ながら、大岩のような一撃を打ち込む格闘術。
リウの豪快さとは違った。
「弟とその友人よ。私がここを抑える」
「ですが……、それだと星軒さんが!」
「構わぬ。異邦の朋を巻き込んだ責任は、我らジオ家にある」
言って、星軒は札を5枚取り出した。煌王朝に伝わる魔法。縛術と呼ばれるものだ。
「水術は効かぬだろう。ならば……」
【縛術:湖面万雷】。
唱え、その札を散らす。それを起点に、稲妻が走った。
それは連鎖し、水獣を痺らせたが、それだけだった。
並みの砕獣ならば、炭化する威力。
カレンの、最大威力のライトニングに近い威力だったはず。その粘ついた肌に、雷鳴が滑ったのだ。
それは地面に広がり、やがて消えていった。
それでも、何でもないようにその巨体で、押しつぶそうとしてくる。
いかん。星軒の対応が、刹那遅れた。
ズドンッ!
重い音。死を覚悟した星軒。目を瞑った。
しかし、痛みは来なかった。生きている。
恐る恐る目を開けると、小さな少女が支えていた。
巨体を、その身一つで。小さな脚がめり込んでいる石畳が、蜘蛛の巣状に粉砕していた。
膝が笑っている。けれど、翡翠の内側は燃えていた。
「ぐぅ……!こいつ、重すぎなのです!」
星軒の視界には、マチィナが映っていた。
彼女が片手でレバーを引くと、魔力のシリンダーが回転した。蒸発した水性エーテルが上がる。
剣杖が、がしゃんと音を立てて変形した。剣が、杭に。それが支柱となり、水獣を穿っていた。
「でも、これで仕上げなのです!」
青い魔方陣3つが、杖を通過する。
深呼吸。
「喰らえなのです!【青魔法:爆裂風】!」
グォオン!
くぐもった破裂音。水獣の眼球が飛び出した。
分厚い皮膚は、内部の衝撃を逃すことができなかった。風船のように膨張する。
次の瞬間。炸裂。
肉片と、汚泥をぶちまけた。
「……そうか!外側からの攻撃が通用しないなら、内側から!」
カレンが、活路を見出した。
かつて、ロニアがやって見せたあの魔法。取るに足らない緑魔法。だが、それが今突破口となった。一歩、彼に近づけたような気がした。カレンは、シニカルに笑うその赤い目を思い出していた。
「赤魔法や白魔法は万能じゃない。むしろ、緑魔法にこそ可能性はある。そういうことだよね、ロニアくん!」
カレンは、なんと水面に向けて走り出す。
制止しようとするセスを振り切った。
彼女の舌打ちを背に、ぱしゃっと音を立てて飛び込んだ。
「自殺するつもりかあのバカは……!」
「なっ、気が触れたか、お前の友人は!」
「……くそっ、連れ戻してくる!」
メガネ越しとはいえ、水中は視界が悪い。
肌がキンと芯から冷え上がる。鼻腔を水が満たす。
音がこもる。
この震えは、寒さか。それとも恐怖か。
足元に、蠢く塊が見える。あれが、大本か。
次第にそれが接近する。餌と認識したのだろう。
――それでいい。
水獣は、そんなカレンに狙いを定めた。その数十重二十重。
真っ黒な塊が、カレンに近づく。衣服が重い。耳が痛い。肺が苦しい。溺れそうだ。けれど、ここで決める。気づけば、震えは治まっていた。ロニアくんなら、きっとこうするから。
「【緑魔法:衝撃】!!」
澄んだ水中。緑色の光が広がった。
どぅんっ。
くぐもった音と、内蔵を押し込めるような衝撃が広がる。それは、水獣の大群をも仕留めた。
しかし、諸刃の剣だった。カレン自身にも、その衝撃が伝わった。
五臓六腑と、脳が揺れる。視界がチカチカする。次第に意識は酩酊し、水面が離れていく。
意識が途切れる前、カレンは何者かに触れられる感覚を覚えた。
「無理しちゃって……。心配させないでよこのバカ」
赤い目をした彼は、慈しみを含んだ瞳で笑っていた。背中に、なんだか綺麗な翼が見える。
きっと、幻覚を見ているのだろう。愛しているがばかりに、彼が天使に見えるなんて。
─────────◇─────────
一方そのころ。地獄。
卓上の7つのロウソクのうち、揺らめいていた1本が消えた。今燃えているのは、残り4つ。
「……ふむ。嫉妬に狂った馬鹿が、人間界を追い出されたようですね」
円卓の一席に坐していたサタンが、目を閉じて言った。
地獄といえば、めらめら燃える阿鼻叫喚だと思われているが、実際は人間界と変わらない。
緑は豊かで、静かな湖畔。地獄の門の前では、三つ首の獣が微睡んでいる。しかしそよぐ風には鉄の錆びた臭いが混ざり、湖面には月がふたつあった。外は未だに、昼の陽気に満ちているのに。そういった違和感が、ここを地獄たらしめていた。
地獄の王サタンは、大罪のうちひとつ、【憤怒】を管理していた。
だが、分かたれた彼女の半身であり、兄ルシフェルが失踪したことにより、【傲慢】も受け持つことになってしまった。
「勝手に持ち場を抜け出して、まったく自業自得もいいところです。次の定例会議には必ず顔を出すようにと言っておきなさい」
配下の伝令悪魔にそう告げた。ヒトの形をしていたが、肌や瞳、舌は蛇のものだった。
「し……しかしサタン様。ベルフェゴールも、お兄様も欠席ですが……。今までまともな会議など……」
サタンが目を開く。瞳の奥から、燃える黒炎。
伝令は、背筋が凍る感覚を覚えた。
いや、燃えていた。燃えているのに、冷たい。
「……暑さで鼻から脳が流れ落ちたのですか?それとも、耳掃除を怠っているようでしたら」
ワタシが穿って差し上げましょうか。アーマーリングに覆われた鋭い指先。
苛立ちを隠さず、見下すような表情で、耳をほじるそぶりを見せた。
「も……!申し訳ございません!至急行ってまいります!!」
「……最初からそう言っているはずです。時間は有限。ついでに兄さまの痕跡も探してきなさい」
「う、承りましたぁっ!」
逃げ帰るように、伝令は消えた。
はあ。疲弊したように溜息をつく。
「まったく、どこで油を売っているんですか。あのクソ兄貴。とっとと戻って、頭でも撫でなさいよ」
その時。いたずら気に、彼女の肩を揉む人物。
その手つきは、どこかいやらしかった。
柔らかな手が、サタンの控えめな胸元まで迫り――。
「触れてみなさい。その薄汚い手を捩じ切りますよ、アスモディウス」
振り返り、紅蓮の瞳で背後の人物をにらみつける。
桃髪で、挑戦的な翡翠色の瞳。豊満な肉付きは、控えめなサタンとは対照的だった。
その口元はにへらと笑っていた。
「まぁ、ええやないの、ちょっとくらい。サタンちゃんは、ほんまに毎日頑張り屋さんやねぇ~」
「13回死んでください。てか殺しますよ?こっちは、配下が最近いうことを聞かないから困っているんです」
「そらウチもそうやわ。おかしいわな。甘やかしが足らんのやろか」
「アナタの押しつけがましい母性とやらは、悪魔にもヒトにも毒でしょうに」
サタンの肉体に触れていたアスモディウスの手が、次第に首元へと近づいた。
「ふふっ。それがウチの役目なんよ。【色欲】。ウチの唇も体も、胸も秘め事も。ぜぇんぶ、そのためにあるんやから」
「わかりましたから、近づかないでください。ワタシはアナタと違って、脳で考えていますから」
股間ではありません。そうサタンは吐き捨てた。
「ほんなら、ちょい真面目な話するで、サタンちゃん。ウチらの配下やけど――」
勝手に人間界へと侵入してるみたいやわぁ。
アスモディウスの言葉に、強張っていたサタンの表情はより一層、濃くなった。
火柱が燃え上がる。扇動したのか、レヴィアタンのやつが。死してもなお、全く面倒なやつだ。




