【第二十七話 来たれ、我が刃】
光が、ロニアを包む。肉体が変化していく感覚。
背後に、湧き上がる何か。それは、バサッと自由を得たと思いきや、水を搔きわけた。
純白の翼。ロニアの倍はある大きさ。その姿は、まさしく天使そのものだった。
「……何よ、その姿」
「だから言っただろ? バケモノ同士だって。御託はいいからさ――」
言って、ロニアは口角を上げた。気分が高揚している。すべての心配事は、杞憂だった。これなら、思う存分戦える。
「思いっきりやろうよ、お姉ちゃん」
挑発。
相手がこの瞬間、最も投げかけられたくない言葉。
月天は、口元をわなわなと震わせた。
湧き上がる嫉妬は、まるで茨が巻き付いているようだ。
『あたしはこんなにも苦しんでいるのに、どうしてお前らは』
「こんのクソガキ……!」
「顔怖いよ? それじゃあ、ボク泣いちゃう……かも!」
触手。巻き付くように、五本。
一瞥。その一本を掴んだ。引きちぎる。
青血を噴き上げた。煙のように、それは水中に溶け込んだ。
引きちぎられたもので、後続の触手を薙ぎ払う。
翼が汚れた。生暖かい感触が伝わる。
ズキズキと、鈍痛が響く。
「どうして伝わらないの! あたしの気持ちが!」
「痛いほど伝わってくるよ。だから、アンタはレヴィアタンに食われたんだ」
「……あたしが?」
気づいていないようだ。
クロウルが、嫉妬と契約したのだとしたら、彼女は嫉妬の器にされた、と言うべきだろう。
かつて無垢だっただろう月天という人間は、レヴィアタンに食われた瞬間から消えた。
ロニアたちがあの時出会ったのも、リウを危うく殺しかけたのも。
それはすべて、レヴィアタンだった。人間の心はない。
「ボクも、アンタと同じだ。怠惰で、傲慢だ」
けれど、大罪に食われるということはあり得ない。
天使である以前に、自己を持っていたから。
ロニア・ロンドという存在を受け入れたから。
「じゃあ、どうしてあたしを止めようとするの!」
「……どうしてだろうね。まったく人間らしくなったよ」
自分はバケモノなのに。
「わかった。あなたがそのつもりなら、あたしだって……」
彼女の瞳が、深海の中で蒼く光った。
もはやその姿は月天ではない。
レヴィアタンそのものとなってしまっていた。
「契葉逆門。澱は『ラハブ』」
大罪と天使は、ある意味では似ていた。
祈りを掲揚する必要はなく、精霊に恐怖を植え付けている。
故に、そこには結果があった。
【エラー。黒魔法:否、これは秩序にあらず。荒れ狂う海。その名は汝】。
澄んだ女の声。ロニアのものとは違った。
黒魔方陣。
攻撃が来る。構えた。
空間が割れる。まるでガラスのように。
領域内の海水が、それに吸い寄せられた。
やがて、一振りの棘だらけな蛇腹剣を形成する。
あれは、レヴィアタンの主力武器。波立つような剣筋は、まさに海の獣らしい。
「……さあ、来なよ。あなたのお望み通り、お姉ちゃんがたっくさん可愛がってあげる」
剣が唸った。
まさに、剣が波打っていた。海を斬るように、刃先が水中で鳴いた。
来る。そう悟り、ロニアは飛翔しようとはためく。
重い。水圧で、いつもより体が動かなかった。
それだけではない。剣先が、まるで生き物のように捩じれた。
避けきれない。翼が傷ついた。
真っ赤な血液が、煙のように溶けた。
「邪魔な翼ねぇ。そんな危なくてキレイなもの、あたしが管理してあげちゃおっかな?」
「結構。美しさに見とれないでよ? 高く売れるかもね」
「ふふっ。減らず口は相変わらずね。お姉ちゃんが躾をしてあげる」
波が、再び押し寄せる。
水の赤魔法で対応できるだろうか。
けれど、彼女のテリトリーでは恐らく、水の精霊の権限が奪われている。
ならば、やめた方が適切だ。
「サディスティックだね、キライじゃないよ! スキでもないけど!」
とは言ってみるものの、心の中では冷汗をかいていた。
血液により、視界が悪くなりつつある。
翼が水を吸って、鉛のように重くなっていた。
彼女が素早く動けているのは、その身体に生えたヒレによるものだ。
本当に、人間をやめたようだ。
さて、何から始めよう。そう思いながら、迫りくる波を翼を畳んで回避した。
翼を広げたままでは、抵抗が増えるし、的が大きくなる。
ならば、盾のように自身を包んでしまえばいい。
螺旋のように、限界まで抵抗を減らしたその姿。
回転し、レヴィアタンに攻撃する。
白銀の旋風が、海水を穿つ。
大きな衝撃を感じたのち、肉を抉る感触がした。
めりっ。肉が剥がれる音。
「おい、【固めろ】」
羽先が硬質化する。リウにも教えた、肉体を武器とする理論。
天使である分、武器が増えたのだ。翼という、肉体が。
しかしこのままではジリ貧だ。ならば、この手しかない。
相手が剣なら、こちらも剣。
「ちょこまかと、大人しくできないの!?」
「うっさいな。じゃあ、お望みどおりにしてあげるよ」
刹那、翼を広げた。
「一節解錠。鍵は『マタイ』」
この世界のシステムに、封じられた【現象】。
だが、ロニアはそれをこじ開けた。
暗闇が照らされる。さながら、ここに光が生まれたように。
【認証。白魔法:是、平和の為ならず。齎すは剣也】。
そこに、結果が現れる。
白銀の剣。光と影がある。ロニアの手の内で、眩く輝いていた。
一瞬。そこに水はなかった。真空の球体。周囲の海水を、蒸発させたのだ。
「嘘……。私の海が、沸騰している!?」
「聖剣エレクシア。この味を、アンタにも教えてあげよう」
「……ズルい、ズルいズルいズルい! なんであなただけ、そんなにきれいなものを持っているの! あたしには、あたしにはないのに! こんなにも醜いのに、なんであなただけぇッ!!」
そう叫ぶ彼女。
巨大な鉄板で、肉を焼くような不快な音が水中に響いた。
ぶくぶくと湧き上がる気泡の内から、ロニアが現れる。
それだけではない。
体温を奪うほどの冷たい深海が、体の芯から茹で上がるような熱で染まった。
暗いのに、熱い。サタンの炎にも似ていて、大罪の中でも最も若いレヴィアタンにとっては、恐怖そのものだった。
触手がくる。一閃。断面すら焼灼され、切り落とされたものは色が変わっていた。
「美味しそうに焼きあがっちゃったね」
彼女の蛇腹剣が、再び唸る。ロニアを縛った。
「へっ」
軽く笑い、翼を閉じる。まだ、先は固い。
高速回転する翼が、絡みつく蛇腹剣を逆に巻き取る。
彼女の手首ごとねじ切る勢いで弾き飛ばした。
推進力で、間合いを詰める。
そして――。
どちゅっ。
鈍い音で突き刺さった。海の獣が、大きな唸り声を上げる。
熱の海を揺らした。衝撃。体中に響いた。
五臓六腑を揺らす。耳が割れそうだ。
「さて、どっちからやろうか。お姉ちゃんか、それともこのデカブツか」
2体のレヴィアタンを見渡す。月天だった彼女。
その瞳には、絶望が色濃く映っている。
強さへの嫉妬。美しさへの嫉妬。そして、存在への嫉妬。
比類なき海の怪物として名を馳せた巨獣。
黒く大きく開かれたその瞳が震えている。
その姿は、さながら捕食者に怯える被食者。
嫉妬の大罪そのものであろうとも、目の前の小さな光には敵わなかった。
「大罪どもは卑怯だ。摩耗した、人の心に入り込む」
エレクシアを、不運だった女に向けた。
「ボクは救済者じゃない。だけどせめて、楽にはしてあげる」
重い一歩が、海底を蹴った。
砂が舞い上がり、一筋の紫電が走った。
「【断て】」
「待っ――待って! まだ死にたくない! あたし、まだ誰にも愛されて――」
時空が歪む。捻じれ、剥がれ、崩れ落ちる。
エレクシアの一閃は、レヴィアタンの深海すらも両断した。
海が割れる。かつて、天界から見下ろしていた光景と似ていた。
モーセとかいう青年の起こした奇跡とやら。
彼の見ていた景色は、こんな感じだったのか。
滝の分厚い壁が、左右に聳えていた。耳を劈く、雷鳴にも似た音。
隙間から光が差し込む。まぶしい陽光だ。見上げたロニアは思わず、目を細めた。
「ふう、難しいもんだね」
そう呟くロニアの背後。
月天が膝つく。まるで溺れていたかのように、水気を含んだ咳を繰り返す彼女。
ギィイと鈍い音を立てて、海獣レヴィアタンの体が2つに分かれていた。
「大罪だけを切除するのは」
しかし。明るいはずの陽光は、かすかに紅を帯びていた。
ロニアは、大きくため息をついた。
「まったくもう。どうして面倒ごとがこんなにもあるのかな」
一方、清竜湖。
カレンたちは、苦戦を強いられていた。




