【第二十六話 深き海より来たるもの】
初めて会った時から、彼にはどこか惹かれていた。
一見頼りなさそうで、厭世的なヒトだったのに。
私は、どうも彼が心から離れない。
あのとき戒厳令にも関わらず外出して、彼と出会った。私は、奇跡だと思った。
自宅が、安らぎの場所だと人は言う。でも、私はそうじゃない。父親からの叱責。兄からの悪意のない善意の刃。
そんな要因が、私を少しずつ断崖へと追いやっていた。自室に籠るのも、ただ苦しかった。
学院長の孫。天才令嬢。皆は、私をそう呼ぶ。
私は、フランカ家に生まれたただの女の子なのに。
そこに現れたのが彼だった。なんでもないように、飄々と振る舞う。頼もしい背中を見せてくれたかと思いきや、すぐに顔を赤らめる純情さ。
私は気づいている。彼が私のことを好きなのは。
わかっている。面映ゆくて手を握れないのも。
だから彼は、上着の袖が好きなんだ。
手には届かないが、それでも触れられる隔たり。
だからこそ、何かを諦めた顔をして、『ひとりで行く』といったとき。
私の心から、どろどろと血があふれた。剣のような傲慢さが、貫くように。
そんなこと言わないで。
あの時、彼の腕を掴んで言った言葉は、ほぼ無意識に近かった。
私も、彼も――。
とても泣きそうな顔をしていた。今すぐに、彼の手を取ってあげたい。
でも、彼はそれを嫌がる。理由はわからない。
けれど、過去からの鎖に繋がれているというのは理解できた。
彼も、私たちと同じだ。
隣を歩く彼の顔を見下ろす。
強いくせに、ちっちゃい。誰よりもかっこいいちびすけ。
だから、もう一人だなんて言わせない。
いつか、私の手を握ってくれるまで。一生、傍にいてくれるって。
口には出さないけど、きっとそう思っているんでしょ。
――ねえ、私もあなたのことが好きだよ。ロニアくん。
─────────◇─────────
清竜湖までは、闘技場から北東に30キロ。
ジオ家の離れ付近にあった太湖である。
エーテル加速トンネルから見下ろした際に見えたものとは違った。
あれは、ここ煌王朝の心臓といっても差し支えない位置にある。
継承戦は、一時中断となった。故は報じられていない。
この王朝を牛耳る家系のひとりが、謀殺されただと知られたら、混乱が起きる。
まさかとは思うが、それを異邦人たるロニアたちのせいだと誹る輩も出てくるだろう。
いや、必ずいる。天界にいるとき、それが原因で殺されてしまった哀れな魂を見たことがある。
今は、喫緊の課題を片付けよう。後のことは、ジオ家が解決してくれる。
「おぉ……かわいい孫や……」
老婆が、控室前で涙を流している。
かつて蛟花春の従者だった者たちが、彼女の遺体を運び出している。
棺に詰められていた。竜を象った模様だった。
「奶奶。こんな時に言うのもなんだけど……久しぶり」
「……おぉ、おまえはリウ、リウなんだね! 大きくなったねぇ!」
彼女は、ジオ家の現当主の母親であり、リウや星軒らの祖母。
蛟雪慧だった。
療養中のはずだったと、星軒が諫めた。
しかし、彼女はそれでも、娘が非業の死を遂げてしまったことを悔やんでいた。
ならば、寝てばかりではいられないだろうと。
「……姐姐のことは、本当に残念だよ。昔、めちゃくちゃ馬鹿にされたから、見返してやりたかった」
ただ拳を握りしめるリウ。唇を噛みしめ、今にも血が流れそうだ。
「そして、白髪のあなた。星軒から聞いてるよ。リウ坊やを、育て上げてくれたんだね」
雪慧が、ロニアの手を弱弱しく握った。思わず、体がびくっと震えてしまった。
手を握られることは、どうにも苦手だから。いや、慣れていないというだけか。
「育てたって、そんな大げさな。ボクは、焚火のつけ方を教えただけですよ。彼が、勝手に燃え上がっただけです」
「そう謙遜なさらないで。あなたは、とても強いと星軒が言っていましたよ。だから……」
娘を止めて。月天を、これ以上血に染めないで。
切実な瞳で、ロニアを見つめていた。
ロニアは何も言わず、ただ頷いた。老婆には、なぜか弱かった。
さて、嫉妬に溺れた海の怪物を、皆で懲らしめに行こう。
ロニアは周りを見渡し、全員に目配せをした。
言葉で理解せず。行動で皆は肯じた。
移動には、やはりトンネルを使用した。
かつて子供のようにはしゃいでいたマチィナも、興味深そうに周りを見ていたカレンも。
その視線は、ただ一点。決戦の地、清竜湖へと向かっていた。
深呼吸を繰り返している。カレンにとっては、二度目の相対だった。
「怖い?」
「……うん」
「それでいい。怖くないなんて、人間じゃない」
「じゃあ、ロニアくんは人間じゃないの?怖くなさそうだけど」
首筋が冷える感覚を覚えた。天使であることが露呈したかと思い、動揺した。
ロニアにとって、嫉妬のレヴィアタンとは、家に出没する害虫のようなものだ。
いや、畑を荒らす害獣だろうか。害虫なら、暴食のベルゼバブになる。いずれ、やつとも戦うことになると考えると、頭が痛くなった。
いったい、いつになればロニアは休めるのだろうか。
「ははっ。一番の実力者が、ここでビビッてどうすんのさ。士気にもつながるよ」
「然り。上に立つもの、常に模範とあるべし」
「ノブレスオブリージュというものですな」
星軒の言葉に、セスが相槌を打った。
上に立つものか。神が、同じことを言っていたような気がする。
かつての熾天使ルシフェルは、そうできなかったから。だから叛逆を企て、敗れ、堕天した。なんだか、ルシフェルにも同情する。
彼はきっと、自由が欲しかっただけだ。
自分が、神の傀儡であることに気づき、ただ自由を得たかったから。
これを天界で口走ったり、もはや思念することすらもタブーだが。
「……着いたぞ。構えよ」
先頭の星軒が、ばっと手を広げた。
彼の衣服が、まるで波打つように揺らめいた。
足元が開き、落下する。しかし、その速度は緩やかだった。羽が落ちるような速さだ。
清竜湖。その畔。
ひとりの女が、しゃがみこんでいた。
水面に映る自身の姿を見ていて、しかし彼女はこちらに気づいているようだ。
あえて振り向かないことをしているようにも見えた。
「長女だから。我慢しなさい。長女だから。分け与えなさい。長女だから――」
呪詛のように、ぽつぽつとつぶやく彼女。
「ねえ、どうして早く生まれただけなのに、人は耐えなきゃいけないのかな」
ロニアたちに。いや、水面に移る彼女自身に、質問を投げかけた。
「……模範を見せねばならん。それは、長男たる私も同じことだ」
「誰が決めたのかな。先に生まれたから、ほかの子よりも偉いなんて。弟妹のほうが、優秀な時だってあるのに」
ロニアには、兄弟姉妹がいた記憶がない。だが、なんとなく彼女の言うことには共感できた。
周りをちらりと見ると、十二神徒の兄を持つカレンや、リウはもちろん。マチィナまでもが、眉に皺を寄せていた。
そうか、皆、同じような境遇だったのか。年長者は、手本を見せよ。年少者は、模範のようになれ。
一般家庭ならまだしも、彼女らのような名家にとっては、息も詰まるような感覚なのだろう。
「あたしはね。子供が好きなの」
立ち上がった。
「だからね、どうしようもなく、殺したくなるの。何も知らないくせに、あたしを見上げて」
振り返った。
哀しみ、笑み、怒り。すべてが混ざり合い、嫉妬で塗りつぶされたような表情をしていた。
空気が、どすんと重くなる。肺に湿気が満ちた。
来る。
足元に、大きな黒魔方陣が広がった。
海水が、徐々に満ちる。
「ねえ。ロニアちゃん。あなたも、あたしを見上げるの?」
「……正直キョーミないです。だから、その殺戮は止めますね。後処理が大変になるので」
「ふふっ。クソ生意気ね。決めた。あなたはあたしと二人きりで楽しみましょ?」
ロニア。足元。2つの魔方陣。蛸の足が絡みついた。
底へと引きずり込まれる。だが、ロニアは笑った。
「やっぱり、ボクを選ぶんですね。みんな、負けないでよ!」
ああ、どうしようもなく可笑しい。
だって、ここまで予想通りにいくなんて思わなかったから。
まったく扱いやすくて困る。
ロニアを孤立させるということが、どれだけ愚策だと気づかないやつらは。
真っ暗な海。深海。息は出来た。動きも問題ない。
眼前に、白銀の瞳を持つ、あの怪物が現れた。
それだけではない、まるで、魚類のうろこを持ったような女。
かつて月天だったものを伴っていた。
「おいおい、2人きりじゃなかったのかな?」
「ふふっ。この子はあたしよ。あたしはこの子なの」
「よくわかんないけどさ。まあいいよ、かかってきな」
チョーカーに手を触れた。
ここなら、バレる心配はないから。
「さあ、バケモノ同士、思いっきりやりあおう」
ロニアの目が、真っ赤に光った。
この深海を覆う真っ暗な膜を、一筋の光が貫いた。
【──人の鎖、蝋の翼、木々の船よ。我が罪を刹那赦し、再び光を我に灯したまえ】。




