【第十二話 あたたかい翼】
天界の端。小さな茶屋。熾天使たちが、一堂に会していた。
「ミカエル。ご機嫌ナナメね」
ラファエルが、淹れたばかりの茶を啜りながら言った。
「熾天使に感情はない。ワタシも、アナタも」
「コントロールしているだけよ。時には表情が必要になるわ。どうかしたの?」
ミカエルが、眼を隠していた翼を解いた。
真っ赤な瞳と、白い髪が現れた。
「あ! ミカたんの顔久しぶりに見たかも!」
同じく熾天使のひとり、伝令の天使ガブリエルが、ミカエルに顔を近づけた。
勿論、彼女に感情はない。その為、この陽気さは全て見せかけである。
「拒絶。キンキンうるさい。誰から影響されたの」
「だって、人間ちゃんが怖がるんだもん、アタシのこと。だから、イメチェン!」
ラファエルが、口元を手で隠しながら笑った。その様はまるで、貴族の令嬢だった。
「ガブ、人間界でのイメチェンとは、見た目の変化を言うのですよ」
えぇ、とガブリエルが声を漏らした。
「推測。パフォーマンス低下は、兄が原因」
「兄、ですか」
無表情の茶会に参加していた三人の熾天使の表情が曇った。
本来ならばここにウリエルも出席しているはずだが、仕事により欠席となっている。
「兄って言うと――」
「ルシフェル、のことかの」
右手に茶菓子の箱を、左手に椅子を伴って、神が入室した。
ミカエルが勢いよく立ち上がったが、神はよいと言い制した。
「……そっか。ミカたんのお兄ちゃんは」
「最悪の叛逆者。堕天使ルシフェル……」
しばらく沈黙が走った。眉ひとつ動かさないミカエル。しかしその瞳の奥は、今にも泣きそうなほどに震えていた。
「……あやつは堕天した。今は地獄でサタンと名を変えているさ。さ、今は茶を楽しもう。スコーンもあるぞ」
ガブリエルが子犬のように喜びを表した。無い筈の尻尾が振られているようにも見えた。
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頭がクラクラする。まるで酩酊しているような感覚だ。
天井が回る。臓腑がかき回され、胃液が口から溢れそうだ。
頭部をぶつけなかったのは幸いだったが、それでも恥ずかしい姿を見せた。
サイモン・フランカ・クリスチャン。
曲者だが、根幹にある信念や性格は、カレンに似ているようにも見える。
……自分は、カレンの何を知っているのだろうかとも思った。
しかし、このベッドは素晴らしいものだ。
寮のベッドも大したものだが、これは使用者の心を見て作られている。
夜中。ふと眠りが浅くなってきたころに寝返りを打てば、『何か違う』と違和感を覚え、ただそれの繰り返し。
そうならないように、ところどころに窪みがあった。まるで母の胎内にいるような安心感。
とは言ったものの、ロニアに母はいないし、どう生れたのかも知らない。人間の好む比喩表現というものだ。
もうしばらく寝ていよう。柔らかいし、いい匂いもする。ご丁寧に、抱き枕まで。
ふにっ。リアルな抱き心地で、あたたかい。流石名家だ。寝具に一切の妥協が――。
「ふにっ?」
目を開く。抱き枕なんかじゃなかった。それは、本当の人間で――。
「あっ……ご、ごめん!」
赤面し、唇をわなわなと震わせているカレンだった。裸眼で、髪は結んでいない。
あたたかい抱き心地は、寝巻で繊維が薄かった彼女の体温だった。
本来ならば、こうして抱き枕にされたら拒絶したりするだろう。
少なくとも、ロニアが上で見ていたニンゲンたちならそうする。
けれど、カレンは赤面は見せるも抱擁を受け入れている。
弱った目の前の少年を、彼女は無条件に包んでいる。
先ほど彼女に触れていたときに聞こえてきた拍動。
今、高鳴る自分の胸。
情報を照合する。
この感情の正体は、まさか──。
彼女と出会ってから、自分という何かが決壊したような気がする。
悪いことではないはずだ。セスに面倒を見てもらっていたときは、常に諦観があった。
何もかもが、無意味無価値。石のように重い怠惰。剣のような傲慢なエゴ。
でも、それらが少しだけ薄れたような。カレン。恐ろしい女だ。そう思った。
「セバスがね。運んできたんだよ」
「セバスって、あの執事さんが?」
確かに、ロニアは軽いし運ぶのは造作もない。
「浴場でのぼせたんだって? もう、うっかりなんだから」
「あはは……。キミのお兄さんと一緒になっちゃってね」
「サイモン兄さまに……」
カレンが顔を伏せる。やはり、彼女の重圧は、彼も関係していた。
身内が、伝説を継ぐ者になればそうなるのも無理はない。
ロニアが激励しても、考えは一日では変わらない。長い時間が必要だから。
「……悪い人じゃなかったよ。ま、ちょっと怖かったけどね」
あんなことを口走った自分がとは言わなかった。
経験上、人が嘘を吐いているかどうかは表情でわかる。
あの顔は、妹を気に掛ける兄の顔だ。クソ親と彼は言ったが、少なくとも兄のように愛している人もいるのだろう。
その中に、いつか自分が含まれるように。門の外から眺めていたロニアは、そう呟く。
「うん。兄さまは、口が悪いだけでひどい人じゃないから」
でも、だからこそ。彼女はそう言いたげだった。
悪意のない善意以上に、鋭い刃はない。
それは何でもないように、バターを切り分ける包丁のように、すぅっと心を斬りつける。
余計タチが悪いことに、包丁はそれに気づかない。善という風景に、悪はいない。
時計の音が、妙に喧しかった。
秒針を刻むごとに、だんだんと鼓動が聞こえなくなってくるようだ。
この重い雰囲気を変えないと。やっぱり、彼女に悲しみは似合わない。
「そういえば、スープ貰った?」
ラファエルが、冗談で言っていたこと。
『病魔は熱に弱い』
治癒を主にする彼女だから、強ち間違いではないのだろう。
入浴で外から温め、スープで内側から温める。
退路なく、体内の病魔は死滅するという計算だ。
カレンがかぶりを振った。少しの揺れで、彼女の茶髪が躍った。さらさらしている。
「じゃあ貰いにいこうか。案内してよ」
ロニアがカレンに微笑みかけた。その顔を見て彼女もどこか安心したのか、いつもの微笑を取り戻した。
心まで冷たくならぬように、今日はあたたかくしていよう。
どうやらここはカレンの私室だったらしく、見回せば確かに女子らしい家具があった。
かわいらしい人形や、砕獣の模型。……砕獣の模型?
「え、なんでこんなのがあるの?」
「私ね、砕獣の研究が好きなんだ。生き物とは違う。でも生きている。そんなアンバランスな生態を究明したいの」
「素敵な夢だね。応援してる」
ロニアの性格だと皮肉っぽく伝わるかもしれない。それでも彼女は、好意的に受け取ってくれたようだ。
やっぱり正反対だと思う。ロニアとカレンは。
彼女が努力家だとは知っているが、机に堆く積まれた書籍の数々を見て、思わず感嘆の声を漏らした。
さて、これ以上の詮索はレディに対し失礼だろう。さっさとスープを貰って、温かくして寝よう。
カレンの手を握りながら、部屋を出た。
まるで迷宮だ。メイドやセバスの部下らしきバトラーと何度もすれ違う。
よくもまあ迷わぬものだ。こんなに広い家だと、ロニアならまず自室から出ようとしないだろう。
それになんだか落ち着かない。鼓動が早くなっているのは何故だろう。
すると、眼前に見知った人物がいた。セバスだ。両手には、スープの皿を持っている。
助かったと、ロニアは安堵した。長い道を、また歩いて帰るのなら、いっそ飛んでしまおうかとも思っていたからだ。
「あ、セバス。持ってきてくれたんですか?」
「ええ。お嬢様と、ロニア様にご足労おかけするわけにはいきませんので」
「セバスさん……!」
頼れる大人の背中は大きい。セスしかいなかった信頼できる大人に、今セバスが加わった。
イザラムに恩はあるものの、なんだかウマが合わない。
「それでは、このセバスは就寝とさせていただきますぞ。くれぐれも、ハメを外さぬように」
「ありがとうございます、セバスさん!」
ロニアは、心さえ開けば全幅の信頼を置く。
ある意味では、一番ちょろいのかもしれない。
部屋に戻って、スープを啜る。スープというよりも、シチューだった。
ビートとタマネギがよく溶け込み、ニンニクの香りが引き立つ。
色どりもパセリを散らし、腹を空かせた。あっという間に完食し、しばらく談話を交わして床に就いた。
カレンがもう寝息を立てている。寒くないように――。
「【ちょこっとだけ赦して。ね、いいでしょ? 】」
真っ白な片翼。抱きかかえるように、カレンを包んだ。
せめて、夢の中ではあたたかく。綻んだカレンの寝顔を見ていると、自分の意識も泥に落ちた。
きっと、今日は凍えることはないだろう。




