ep.5 『公転』④
衝撃的な宣告を受け、ヴォルガーは慌てて宝石から眼を背けた。
しかし、その回避が手遅れなのは考えるまでもなかった。
「なんてことをするんですか!! ヴォルガー君に催眠術だなんて!!」
『まぁまぁ、そう慌てないでくれたまえ。いきなり死んだり殺したりするような催眠術はかけられない……そんな法則を君達も聞いたことはあるんじゃないかい?』
それは客観的な事実だ。
キルデイルの催眠術がなんであれ、すぐさま直接的な危害を加えるような暗示をかけることは不可能――それが現状の人類が把握している、催眠術という技術の限界であった。
「だったら一体、どんな催眠を仕掛けたというのだ!!」
『僕の催眠術はねぇ、ヴォルガー君……君の「乳首開発」を封じたのだよ!!』
「なっ……!!」
「なんて、なんて恐ろしいことを……!!」
それは、恐ろしく見事な一手であった。
『ふははははは!!! 開天流を調べているとは言ったけどねぇ、この一手で君が死んでしまうなら実験台としての価値すら無かったというだけことさ!!! 乳首開発を封じられた君がどう対処するのか、はたまた狂って終わるだけなのか……しっかりとデータを取らせてもらおう!!!』
「貴様……貴様ァッ!!!」
ただの虚像とわかっていても、思わず拳が飛び出すヴォルガー。
しかし彼の怒りがぶつかることもなく、青い炎も映し出されたキルデイルも雲散霧消し、拳はただただテーブルを破壊するのみであった。
『ふははははは――』
キルデイルも青い炎も完全に消え、あざ笑う声の余韻だけが残された。
「乳首開発を封じるなどと……そんな、そんなことが、そんなことがァッ!!!」
「おっ、落ち着いてくださいヴォルガーくん!! 混乱を狙った敵の嘘かもしれません!! まずは実際に乳首を開発してみてください!!」
「そ、そうか!!」
ヴォルガーの感覚では、今のところ特段身体には何の変化もなかった。
敵のハッタリである可能性は否定できない。
いや、ハッタリに違いない。
「うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっっっっ!!!!」
逸る気持ちを抑えきれず、彼はその腕力で黒いタンクトップを勢いよく破り捨てた。
そしてまろび出る、桃色に輝いた豊潤な乳首!!
彼はいつものように、まずはその厚く逞しい鋼の胸板に広がる乳輪に手を伸ばし……伸ばし……しかし、触れることが出来ない。
「何故だ……何故だぁッ!!!」
「ヴォルガーくん!! がんばってください!!!」
あとほんの数ミリ、胸板が僅かにパンプアップしただけで届きそうなこの距離で、彼の指先はどうしても硬直してしまう。
原因はわかっている。それでも口からは思わず「何故なんだ」とこぼれてしまう圧倒的な理不尽が彼を襲っていた。
「ヴォルガーくん……」
あまりにもむごい仕打ちに、ラピアの目からは自然と涙がこぼれた。
改めて説明するまでもないことだが、この作戦は人間心理の僅かな隙間を突いた非道の、そして至極の一手といえた。
前述の通り、催眠術では直接的に命を奪うような暗示をかけることは不可能である。
『呼吸をするな』という命令を下すことができれば催眠術はあらゆる人間を殺せる無敵の能力といえるが、それはできないという意味だ。
そのような命令は、自らを守るために脳が拒むのだ。
この限界は現状の人類にとっても、そして魔王軍の幹部にとっても同様の超えられない壁であった。
――この壁をすり抜ける唯一の妙手、それが『乳首を開発するな』という命令である。
言うまでもなく、人は乳首を開発せねば生きてはいけない。
しかし、それはあくまでも精神的な理由にすぎない。
そのため人間の脳は『呼吸をするな』という命令は拒むことが出来ても、『乳首を開発するな』という命令は拒むことができないのだ。
万橡の泉から離れることのできないはずの七沌将キルデイルが、一体どのようにして人間心理をこれほどまでに深く理解し、そして侮辱した策を弄することができたのか。
謎は深まるばかりであったが、今のヴォルガーとラピアにこの点を深く考えるだけの余裕は存在しなかった。
まずはこの催眠術を解き、再び乳首開発のできる肉体に戻すこと……それが二人のため、そして守るべき人類のための最優先事項であった。




