君が大人になってしまう前に 5
翌朝は思っていたよりすっきりと起きられた。眩しい朝の光がウィルを照らす。冬の朝陽は弱く、温度も低い。ウィルは布団から出るとそのまま歯を磨いて顔を洗った。
もう頭の中で今日一日のプランを考えている。
午前中に買い物を済ませてそれから支部でトレーニングをし、帰宅したら読みかけだった本を消化して一日を終えよう。なるべく何もしていない時間はなくしたかった。
ウィルの部屋は簡素だ。家は訓練のない日にたまに帰って寝るだけで、実際は殆ど寮で生活をしている。親が泊まりに来ることもあるがそれも殆どなくなってしまった。それでも寮だけで事足りると思っていた以前とは違い、いまはこうしてレイフの姿を見なくて済む場所があってよかったとすら思う。
ウィルはバッグに練習着と財布を詰め込み、ニットにコートを羽織ると玄関を出た。外は寒く、日差しの恩恵は期待できそうにない。階段を降りると愛車のバイクに霜がおりているのを見つけた。それをバイクの中に入れておいたタオルで拭き取るとそのまま乗り込み、アクセルを踏んだ。
買い物を終え、そのままロッカールームに荷物を置いて着替えを済ませた。そしてトレーニングルームへの廊下を、外を眺めながらぼんやりと歩く。この季節になってもまだ、葉が落ちない木もある。
「おい」
ウィルの耳にダイレクトに響いて来たのはどこか懐かしい声だった。
「お前、もしかしてウィルか!?」
「クレイグ……!?」
振り向くとそこには、高校時代の旧友の姿。白衣を着た、あの頃と変わらぬ聡明そうな顔立ちは、ウィルの感情を高ぶらせるのには十分すぎた。
「なんでお前こんなところにいる? 陸軍に行ったんじゃないのか!?」
「お前こそ! BSOCにいたなんて!」
二人とも相手に尋ねるばかりで答えにならない。どちらともなくそれがおかしくて笑い出した。
「お前これから時間あるか?」
「これからトレーニングに行こうかと思って」
「俺も付き合うよ、積もる話がありそうだ」
クレイグは眉を上げて笑った。ウィルの様子から何かを読み取ったのだろう。元から勘の鋭い奴だったが、それは歳を重ねてさらに敏感になっているらしい。
ウィルに並んでクレイグが歩き出す。
「あっちに行こうとしてたんじゃないのか? なんならトレーニングルームDに行くから用を終えてからでもいいのに」
「いや、ちょっと一服してこようかと思ったんだがお前がいたんでな」
「ふーん。いまはHQに所属してんの?」
「HQだがその中でも医療チームだ。お前は部隊だろ?」
「ああ」
クレイグの声は低く耳障りがいい。ざらざらしているけれどどこか艶がある。
高校時代も女性からの人気が高かったのはその優しく整った顔立ちと、文武両道だったところにあるのだろう。
「だよな。噂では聞いてたんだ。新人があのアルファに入ったって。しかもベックフォード隊長の引き抜きで。名前までは聞いてなかったけど、それお前だろ? すげえな」
「ああ、そうかも。でも隊長にはもうそろそろ見放されそうだよ」
ウィルがため息をつくと、それをみてクレイグも気持ちのトーンをあわせてくれた。その場の空気が変わる。
「大丈夫だ、我がストウィッチ高校の英雄はそんなことで落ちぶれたりしないさ」
ウィルもクレイグも、高校時代は体育祭でダブルヒーローと言われるほどに活躍したことのある選手だった。クレイグはバスケット部、ウィルは水泳部でそれぞれキャプテンを務めており、競技にはその身体能力を買われて引っ張りだこだったのだ。そして必ず二人のいるクラスは優勝すると囁かれており、クレイグもウィルも、それを自負していた。誇りに思っていたのだ。
「それがここにきて、BSOCってのは超人の住むところだと思ったよ」
「ああ、ここにいるやつはだいたいちょっとおかしい奴が多い。やたらに身体能力が高かったり、頭脳明晰だったりってな。俺も大学は飛び級してここに来たけど、ここの研究ってのは凄いよ。世界が知ったら驚くどころか自らの研究に失望した何人かの研究者は首吊っちまいそうだよ」
トレーニングルームは底冷えしていて、それに身震いしたクレイグがエアコンをつけた。急に寒いところで筋肉を動かすことが怪我につながるとよく知っているのだろう。
ウィルがストレッチを始めると、隣でクレイグも白衣を脱いだ。下はジャージだったらしい。そのまま何事もなく並んでストレッチを始める。
「それで? 何があってさっきはあんな泣きそうな顔してたんだ?」
「……聞いてくれんの?」
「ああ。洗いざらい話してみろ。いまに笑える話にしてやるさ」
ウィルはストレッチをしながらこの数ヶ月であったことを話した。陸軍から引き抜かれたこと、訓練についていけなくて落ち込んだこと、エリオットのアシストで大人の女性と付き合ったこと、レイフと衝突したこと、そして昨日失恋をしたこと。
「……それで、いまは何も考えたくなくてこうしてる」
「なるほど。激動期だったな」
「ああ。色んなことがありすぎて生き急いでる気分になるよ」
ウィルはランニングマシーンに飛び乗った。隣でクレイグもそれに便乗する。
「でも、これからは少し、訓練に集中すればいいんじゃないか? お前がその女性に惹かれたのも、元はと言えば訓練で思った成果が出なかったからだ。お前の話を聞いてると、訓練で成果をあげれば全てが解決するような気がするな」
ウィルは黙り込んだ。クレイグのいうことも一理ある。だがそれだけで、本当にこの先虚しさに押しつぶされることなくやっていけるだろうか。
「ま、お前の心がけ次第だけど、辛くなったら何でも聞いてくれる奴がいるって分かれば、いままでよりはストレス溜めずに過ごせるんじゃないか? そうなら嬉しいんだけど?」
少しおどけた風にクレイグは語尾を上げた。その言葉には何故か、妙な信憑性があって、ウィルは頷かざるを得なかった。
「……そうかも、しれないな」
「俺も今は彼女もいないし、お前にとことん付き合ってやれる」
「珍しいな。どうしたんだ?」
「仕事に精を出したくてね。次に付き合う人は奥さんにするくらいのつもりで付き合おうと思ってるんだ。少しくらい心が寒いからって誰かを焚き火代わりに使うのはやめた」
「むしろそう思ってたのが驚きだよ」
クレイグと話をしていると気が楽になる。それはやはり、高校時代を共にした信頼関係もあるのだろう。
「今日はトレーニングが終わったら飯でも食いに行こう。懐かしさを通り越してお前が愛しいよ」
「いくらお前でも男はごめんだ」
ウィルはエアコンを切った。もう十分に身体は温まっている。そして心も。昨日まであんなに張り裂けそうだったのに、自分でも単純だと思う。それでもクレイグの存在はそれほどに大きく、またウィルの心を動かせる存在でもあるのだ。
「俺は掘ってやることならできるけど?」
「お前な……。……もしかして経験済みか?」
「俺は来るもの拒まずなんでね。付き合った人はみんな愛してきたつもりだけど、お前の話を聞いた後だとやっぱりまだ俺は本当の愛に出会えてないのかなって気がしてきたよ」
「奇遇だな。俺もお前と話していて、彼女のことを本当に愛していたのか久々の恋愛に酔っていたのかわからなくなってたとこだよ」
今なら思う。確かに彼女が違う男と寄り添って歩いていたのをみたのはショックだった。だが、それは自分が認められていないと自覚したからかもしれない。
「本当の愛ねえ。自己陶酔のない愛ってのはどんなもんなのかねえ?」
「さぁね。そんなこともわからないようなんじゃ、愛を語るのはまだ早いってことだろ。俺はしばらくいいよ、お前のいう通り、訓練に集中するさ」
ウィルは首を振った。本当にもうしばらく恋愛は懲り懲りだ。前向きになれた頃に自然に出会えればいい。
「そうだな、俺もそうだ。いまは仕事が楽しい。色んな発見があるし、いま手元でやってる作業がのちに世界を救うと思うとたまらなく興奮するんだ」
「俺に何かあったら助けてくれよ、その世界を救う研究で」
「勿論」
頷くクレイグを笑って流す。もうすっかり心の闇は取り払われた。
「友人ってのは偉大だな……」
「なんか言ったか?」
「いや、なにも」
「ふうん?」
ウィルの呟きはマシンの音に消えた。