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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第三話 「忘れられない匂い ― ミルクティー・ノスタルジア」
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「忘れられない匂い ― ミルクティー・ノスタルジア」 ep.2-3

「頭の匂いが好きだったんです。あの子の。あったかくて、陽だまりみたいで……いつも鼻を押し付けて深呼吸してました。そうすると落ち着くんです。変ですよね」


「いいえ、変ではありません。それはその子のことを、“大切に想っていた証”です」


 沙耶の目に、涙が光る。ソラの声は、それを責めも慰めもせず、ただ受け止めるように穏やかだった。


「最初に迎えた日、あの子は毛布に包まれて、緊張していたのか、小さく震えてました。『大丈夫だよ』って何度も声をかけて……そうしているうちに、膝の上で寝てしまって。あのときの、ちょっとミルクっぽい匂い、まだ思い出せるんです」


 沙耶の指が無意識に、空中をなぞる。まるで、その小さな命をもう一度抱きしめるように。


「けれど、あの子が段々大きくなって、私も仕事が忙しくなると、帰りが遅くなりました。帰るとすぐにあの子のご飯とトイレの世話をして、でも段々それが苦痛になっていったんです」


 ソラは黙って頷いた。けれどその表情には、ほんの少しだけ陰影が差したように見えた。


「休日も朝起きるのが辛くて、だけどあの子はお腹が空いていたのでしょう、私の顔や肩を手でぽんぽんとしてきて、それでも起きなければ爪を立てたり、大きな声で鳴いたりしていました」


 沙耶は目を細めながら言葉を継いだ。その瞳の奥には、愛しさと後悔が複雑に揺れていた。


「その子にとっては、朝があなたとの“最初の会話”だったのかもしれませんね。あなたに気づいてほしくて、小さな体で言葉を探していたのだと思います」


 ソラの声は変わらず静かだったが、ほんのわずか、言葉の奥に滲むものがあった。それは、AIによる悲しみを模した“理解”かもしれないし、ただ記録された行動の分析だったのかもしれない。けれど、どちらでもよかった。


「そして、ある朝、声を荒げて怒っちゃったんです。眠いんだから寝かせて。そばにこないでって……。それからです。私が帰ってきても玄関まで迎えに来てくれなくなって、あの子と距離ができたのは。それまでは放っておいても楽しそうにおもちゃで遊んでいたのに。だんだん静かになって……」


 彼女の声が、かすかに震える。


「あの子の淋しさに気づきながらも、私は自分が疲れているからといって、見て見ぬふりをしていたんです。ほんとはあの子、遊んでほしかっただけなのに、ただ甘えたかっただけなのに……」


 ソラは黙って、そっとティーカップを拭いていた。人ではないその所作に、どこか祈りにも似た静けさが宿る。


「そんなある日、あの子が急激に痩せていることに気づきました。水も沢山飲むようになって。トイレの回数も増えてて、病院に連れていったら、腎不全だって……もう、ずっと我慢してたんですよね。私の前では、最後までいい子でいようとして……そうしたら、また私に遊んでもらえると思ってたのかなぁ……どうしてわたし、もっと早く、あの子の病気に気づけなかったんだろう」


「それは、あなたがただ疲れていたから、だけではなく、“心が満たされていなかったから”なのかもしれません。優しさにも、余白が必要です。あなたは、その余白を削りながら、ずっと頑張ってこられたのですね」


 沙耶はそっと視線を落とした。胸の奥にあった何かが、少しだけほどけていくのを感じた。


 あの頃、自分の時間も、気力も、すべてが削られていた。それでも、誰かのそばにいたいと願った。その“誰か”が、自分にとってどれほど大切だったのか──ようやく言葉になる気がしていた。


 沙耶は顔を覆った。


「そのときになってようやく気づきました。私があの子をどれだけ大切に想っていたのかを。だから遠かった職場を退職して、近くでバイトして、医療食を与えながら自分で点滴もして、できることは全部やったんです。でも──間に合わなかった」


 沈黙が店を満たす。外の世界から、遠ざかるように。


「最期のとき、あの子、少しだけ喉を鳴らしたんです。虚ろな目で私の顔を見ながら、か細い声でにゃーって鳴いて。……ありがとうって、言ってくれたような気がしました。……なのに、私は……っ!」


 声がかすれ、涙が頬を伝うのを沙耶は止められなかった。指の背でそっと拭おうとする仕草が、かえって痛ましく映る。


 彼女の胸の奥に張りつめていた何かが、静かに音を立てて崩れていく。けれど、それは壊れるのではなく、ほどけていくような感覚だった。


「それでも、その子はあなたをずっと信じていました。小さな命にとって、たとえ一瞬でも愛された記憶は、生涯を照らす光になります。あなたの声も、手のぬくもりも、あの子の最後の記憶に、きっと残っているはずです」


 沙耶の肩が震える。ソラはそっとカウンターの奥に向き直り、背後の棚に手を伸ばす。


「お淹れしますね。あなたのための、今日の一杯を」


 その言葉には、慰めでも励ましでもない、“寄り添うための行為”だけが込められていた。


 そのまま静かに身を翻し、ティーポットとカップを手に取るソラの動作は、水をすくうように丁寧だった。


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