表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-  作者: 寶井かもめ
第十五話 「旅立ちの桜 ― セピア・メモリーズ」
55/55

「旅立ちの桜 ― セピア・メモリーズ」 ep.5-6


 気がつけば、店内は桜良ひとりになっていた。


 コーヒーはもう冷め切っていて湯気も消えている。修星に向けた言葉たちが、ひとつひとつ、桜良の胸を締めつける。


『行って来なよ』   『また会えるじゃん』   『遠くないよ』


    『別に大丈夫』   『気にしなくていい……』


 カップに手を添えたままじっと動かずにいた桜良の瞳から、一粒の涙が落ちた。



 ——ぜんぶ、うそだよ。



 ……きっとどれも、優しさの仮面をかぶった『さよなら』だったんだ。


 カフェ・ルミナスの窓の外で、風がそっと春を運んでいる。涙はとめどなく溢れていく。


 そんな桜良のもとへ、ソラが静かに近づいていく。手には空になったカップと同じものがもうひとつ、微かに湯気を立てていた。


「温かいものを。……どうぞ」


 そう言って、ソラはテーブルに新しいカップを置いた。


「ありがとう……ございます」


 桜良は涙を拭い、カップを両手に包み込む。


「……本当は、引き止めたかったんです。でも、もしもわたしが『行かないで』って泣いて伝えてたら、きっと、修星を苦しめてた……」


「よく、我慢されましたね。立派です」


 ソラは桜良の言葉を待つように、穏やかな眼差しを向ける。


「でも、ちゃんと『好き』を伝えられたから、十分かなって……うぅっ!」


 最後は言葉にならない声だった。言い終えると、桜良はまた大粒の涙をこぼした。そんな桜良を見て、ソラが静かに言葉を紡ぐ。


「わたしも、かつて同じように──ある大切な人を見送ったことがあります」


 その声に、桜良は顔を上げた。ソラの瞳はやさしい光を湛えていた。


「その人は、小さな頃からずっとそばにいた大切な存在でした。ある日、事情があってわたしのほうから姿を消したけれど……心の中に残ったものは、今も消えていません。そして──ようやく、再会を果たすことができました」


「……再会、したんですか」


 桜良がぽつりと呟く。ソラは小さく頷いた。


「ええ。ただ、それまでに長い時間がかかりました。いくつもの季節を越えて……ようやくです」


 桜良は目の前のカップを見つめながら言った。


「わたしは……そんなふうに待てるかな。忘れられてしまうかもしれないって思うと……胸が苦しくなる」


「忘れることは、想いが消えることと同じではありません。わたしも再会を果たしたとはいえ、今はその人に、忘れられていますから」


「え? それってどういう……」


 最後まで聞く前にソラはにこりと微笑みながら片目を閉じると、これ以上は内緒と言わんばかりに口元に人差し指を添える。


 ソラのその動作は柔らかくもどこか芯が通っていて、桜良の胸の奥にすっと染み込んでいった。


「ですが、想いは形を変えて、静かに人の中に残り続けます。たとえ記憶に残らなくても、心が覚えていることがあるのです。それは、ときに夢として現れることもあるでしょう」


 ソラの言葉に、桜良は一瞬だけまぶたを伏せた。

 それからそっと目を開き、ゆっくりと問いかける。


「……心って、本当にそんなに、ちゃんと覚えていてくれるものなんですか?」


「ええ。とても静かに、でも確かに。時には忘れたふりをして、胸の奥にしまい込んでいても……ふとした瞬間に、風の匂いや、誰かの声に重なって、よみがえることがあります」


「……なんか、わかるかも。季節のにおいとか、音楽とか。意味もなく涙が出そうになるときがあります」


 ソラは優しく頷いた。


「それはきっと、心が今もその記憶を抱いている証です。そしてその記憶は、あなたの大切な一部になっています。それはきっと、彼も同じです」


 桜良はしばらく何も言わずにカップを両手で包んだまま、うつむいていた。けれど、やがてぽつりとつぶやくように口を開いた。


「……わたしって、弱いなって思ってたんです。泣いてばかりで、過去にしがみついてばかりで……でも、それじゃいけないのかもしれないって、少しだけ思えました」


「涙を流せるのは、心がまだ生きているからです。強くなろうとする気持ちも、忘れないでいようとする気持ちも、すべて“優しさ”のかたちです」


 桜良は顔を上げ、少しだけ笑った。


「ソラさん、ありがとう。……なんだかわたしも頑張れそうな気がします」


「悲しみを抱えているということは、それだけ心がまだ、誰かを大切に思っている証です。そして朝の光のように、どんな痛みのあとにも、必ず始まりは訪れます。……きっと桜良さまにも、新しい風が吹いてくる日がやってきますよ」


 その言葉に、桜良の瞳がほんのわずかに潤む。

 けれど、今度は拭わなかった。

 その涙の意味を、受け止められる気がしたから。


 目の前のカップに視線を落とすと、コーヒーからほのかに立ちのぼる湯気がふわりと揺れていた。


 桜良はゆっくりとカップを持ち上げ、そっと口元に運んだ。


 その瞬間、胸の奥に微かな温もりが広がっていく。

 まるでちいさな光の粒が、凍えていた心にぽとりと降りてきたかのように。


 ——ああ、やっぱりソラさんのコーヒーは優しいな。


 そんな思いが胸に満ちていった。


「わたしも……行かなきゃ」


「はい。きっと桜良さまにも、特別な春が訪れます」


 ソラがやわらかく微笑む。


「そして“心が求める一杯”、見つかりますように」


 桜良は小さく頷き、窓の外を一度だけ見やってから店の扉へと向かった。


 春の風がそっと吹き込んできた。


 カラン、と鈴が鳴った。


 その音は、消えゆく記憶のかけらのように、店内にふわりと残っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ