「光のゆらめき ― ルミナス・ブレンド」 ep2-2
だが、しばらく沈黙したあと、アケミはぽつりと呟いた。
「今日さ、仕事中にさ。『無駄なおしゃべりやめろ』って、上司に怒られたんだよね」
ソラは黙って耳を傾けた。
「私、別にサボってたわけじゃないんだよ? ちゃんとやることはやってたし。……ただ、さ。後輩たちが緊張しないように、明るく話しかけたりしてたのに」
アケミの声は震え、言葉の端に滲む悔しさを隠しきれない。
「あたしっていっつもそう。明らかに後輩が緊張してたからさ、わざと明るく、笑顔で話しかけてたの。意外だと思うだろうけど、あたし他人のそういう気持ちに敏感なんだよね。なのに誰も……あたしの気持ちはわかってくれないんだよ」
彼女は俯き、手元のカップをぎゅっと握りしめた。
静かな時間が流れる。
ソラはカウンター越しに、優しく問いかけた。
「……子どものころから、そうでしたか?」
アケミの肩がぴくりと揺れた。
「……うるさいな。なんでそんなこと聞くの」
それでも、彼女は少しだけ顔を上げた。 酔いのせいだけではない、涙で潤んだ瞳を隠すように、笑う。
「子どものころから、そうやって他人に気を遣って、笑顔を見せてきましたか?」
静かに言ったソラがアケミの瞳を見つめていると、アケミは重い口を開くように「……実はさ」と、か細い声を出した。
「子どもの頃さ……アイドルになりたかったんだ、私」
照れ隠しのような笑い。けれどその笑いは、どこか痛々しかった。
「ある日親に打ち明けたらさ、ゲラゲラ笑われたんだよね。大口開けてさ。『冗談言わないでよ』って。……だから、私も笑って、『そうだよねー』って同調したふりしたんだ。すっごい勇気出して言ったのに、ひどくない?」
アケミは鼻で笑った。でも、その表情は、今にも崩れそうだった。
「それからだよ。どこ行っても、ふざけて笑って。……泣きたいときでも、笑うようになったの」
カウンターの向こうで、ソラは静かにアケミを見つめていた。その瞳は、何も責めず、ただ、温かく包み込むようだった。
ソラは、ふっと微笑んだ。
「あなたは、ずっと、一人で頑張ってきたのですね」
アケミは反射的に顔を背けた。だが、その肩はわずかに震えていた。
「誰かに笑われるのが、怖かったんですね」
ぽつり、ぽつりと落ちるソラの言葉は、冷たくない雨のように、アケミの心に染み込んでいく。
「無理に笑わなくても、いいんですよ」
アケミは、ぐっと唇を噛んだ。
俯いたその瞳から、ぽたり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
ソラはそっと立ち上がると、棚から特別なカップをひとつ選び、丁寧に一杯を淹れ始めた。湯気とともに、やさしい香りがふわりと広がる。
アケミの前にそっと置かれたカップからは、かすかに甘く、けれど芯のある香りが立ちのぼっていた。
「あなたの心に、まだ灯っている、小さな光に」
ソラはそう言って、二杯目のカップを差し出した。
アケミは、震える手でカップを持ち上げると、そっと一口、口に含んだ。
温かさと、やさしい甘みが胸に広がった瞬間、堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
「……うぅ……っ」
声にならない嗚咽をこぼしながら、アケミは顔を覆った。
カフェ・ルミナスの静かな空間に、彼女の涙だけが、静かに流れていた。
しばらくして、アケミは袖で乱暴に目元を拭いながら、無理やり笑った。
「……やだな、あたし、こんなんじゃ……」
声が震え、笑いが涙に溶けていく。
「本当はさ、挑戦したかったんだよ。アイドル目指すのが無茶なことだってくらい分かってる。でも、せめて挑戦したかった。頑張りたかったんだよ。だけど、あたしはそれさえもできなかった。そのままこんな歳になっちゃって、今のあたしにはなんにもない。ただ空っぽで誰からも必要とされてないんだ!」
堰を切ったように溢れ出すアケミの言葉を、ただ優しく見守っていたソラが口を開いた。
「……いいえ」
「……え?」
アケミが呆けたような顔を上げて、ソラの目を見つめる。
「あなたは空っぽなんかじゃありません。心の奥には確かに、まだ夢を見る光が灯っています」
「そんなことないよ。もう夢なんて見ない。忘れたよ」
「夢を見ようとする心は、消えたふりをしても、あなたの中でちゃんと息づいています。諦めたように思えても、それは静かにあなたを支えてきた。誰かに必要とされるかどうかではなく、あなた自身が、あなたの夢を大切に思ってきたことが、もう十分に美しいんです」
ソラの言葉は、アケミの心を静かに、しかし確かに包み込むようだった。夢を見続けることそのものの尊さを、静かにそっと伝えていた。
アケミはカップを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
その言葉は、かすれた声だったけれど、確かに心からのものだった。
ソラは穏やかに微笑み、深く一礼した。
「こちらこそ、素敵なお話を、ありがとうございました」
アケミは小さく鼻をすすり、席を立った。
カウンターに手を置いたまま、ふいに振り返る。
「……また来ても、いい?」
その問いは、夜の隙間にそっと滲む、不器用な願いだった。
ソラは少しもためらわず、静かに頷く。
「もちろんです。いつでも」
アケミは照れくさそうに笑い、扉へと向かう。
その背中を、透月とソラは静かに見送った。
小さな鈴の音が、今度は優しく響く。
外の夜はまだ冷たかったが、彼女の背中は、どこかあたたかい光に包まれているように見えた。
カフェ・ルミナスの空間に、再び静かな時間が戻る。
透月は、空になったアケミのカップを一瞥し、心の中でそっと呟いた。
——またひとり、ここに小さな灯がともった。
ソラは、棚から小さな札を取り出し、カウンターに静かに置いた。
そこには、今日の一杯の名前が記されていた。
【本日の一杯】
◆ルミナス・ブレンド
産地:光の記憶が宿る幻の丘
焙煎:まだ誰も辿り着いたことのない夢の焔
香り:ほのかに甘く、夢へと駆け出す軽やかさ
味わい:優しい酸味と、心を解きほぐすやわらかな余韻
ひとこと:「あなたが灯し続けてきた小さな光は、誰にも奪われない」