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記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-  作者: 寶井かもめ
第十四話 「ソラに咲く花、ミライへの祈り ― メモワール・ブリーズ」
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「ソラに咲く花、ミライへの祈り ― メモワール・ブリーズ」 ep.5-7


 ◇


 改めて病院へ向かう日の朝。

 ルミナスの店内にはほんのりと陽が差し込んでいた。


 花音はカウンター席に座っていた。少しだけ目を腫らしながらも、その表情にはどこか決意のようなものが浮かんでいる。アケミと透月、そしてソラの三人は、何も言わず一点を見つめる花音の様子を静かに見守っていた。


「大丈夫かな?」


 アケミが小声で尋ねると、透月はゆっくりと頷いた。


「まだ揺らいではいるけれど、確かに前を向こうとしてますよ。彼女は強い」


「病院、一緒に行ってあげる人、ほんとうに私でいいのかな?」


「大丈夫です。アケミさんでなければ、むしろ心を開けないかもしれません」


 ソラは一冊のノートを開きペンを持つと、そこにそっと言葉を添えた。


『支えるというのは、そばにいること。そして、見守ること。判断を代わりにすることではありませんから』


 アケミと無言で頷き合ったソラは、そのまま身を翻すと小さなキャニスターから茶葉をひとつまみ取り、お湯を注いだ。琥珀色の液体に、淡く立ちのぼる白い蒸気。その香りはどこか懐かしく、遠い昔に夢を見た朝のようだった。


「花音さま、よろしければこちらをどうぞ。“メモワール・ブリーズ”――記憶のそよ風、という意味のハーブティーです」


 差し出されたカップを、花音は両手でそっと包み込む。


「記憶の……そよ風……?」


「ええ。レモンバーム、カモミール、リンデン……穏やかなハーブを軸に、ほんの少しだけバニラの香りを。呼吸を整え、花音さまが再び記憶と夢に向き合うための一杯です」


 淡い香りが胸の奥をやさしく撫でていく。


「今は考えなくてもいいんです。心が整うまで、ただここにいてください。ルミナスは、そういう場所ですから」


 ソラの言葉に花音は目を伏せ、小さくうなずいた。


 そして、ゆっくりとカップを口元へ運ぶ。

 温もりが喉を通り、胸の奥に広がっていく。

 思い出したくなかった記憶も、向き合うしかない未来も、そのすべてが少しずつ輪郭を持ちはじめるような気がした。


 花音は飲み終えたカップをそっと置いた。


 心の奥に積もっていた重さが、ほんのわずかにほどけた気がする。心を静かに整えてくれるような、深い呼吸のような安らぎを感じた。


 ソラは微笑み、花音の手を握る。AIとはいえ、その手は温かく、花音は人の心のようなぬくもりさえ感じていた。


「行ってらっしゃいませ、花音さま。あなたの選択が、どうかあなたの人生を照らすものでありますように」


 その言葉に花音は一瞬目を潤ませ、けれどすぐに深呼吸をしてうなずいた。


「……行ってきます」


 不安はまだ胸にある。でも、それを抱えたまま進もうとする自分が、ここにいた。


 花音の心が徐々に整えられていく――その小さな始まりの朝だった。


 ◇


 アケミの運転する車で花音は病院へと向かった。


 助手席で花音は窓の外をじっと見つめていた。ビルの谷間に差し込む朝の光。信号の合間に揺れる街路樹の影。世界は変わらず動いているのに、自分だけが少し遅れて歩いているような気がした。


 車内はほとんど言葉がなかった。それでもアケミの存在が、花音をそっと支えてくれていた。


 やがて車が病院に着いたとき、花音は気持ちを整えるように深呼吸をした。


「アケミさん、ご迷惑おかけしてすみません。なにからなにまで、本当にありがとうございました」


 アケミは口元をほころばせ、やわらかく微笑んだ。


「いいから、気にしないで。今は自分のことだけに集中して……ね?」


「はい……行ってきます」


 それだけ言って車のドアを開ける。アケミはただ、背中に向けて「……頑張って」と小さく呟いた。


 診察を終えた頃には昼近くになっていた。病院の扉を出たとき、空はどこまでも青かった。


 近くの公園に車を停めると、ふたりは車から降りて緑に囲まれた遊歩道を歩き始めた。アケミは少し先を歩き、振り返る。


「……先生との相談、どうだった?」


 花音はうなずいた。けれどその表情には、言葉にできない戸惑いがにじんでいる。


「お腹の子は順調だそうです。堕ろすなら日帰りの手術だと言われました。でも、まだ、わかりません。どうしたらいいのか……」


「いいよ。焦って決めなくて」


 アケミはそっと微笑んで、彼女の肩に手を添えた。


 風が吹き抜ける。

 新しい命を迎えること――それは決して綺麗事だけでは語れない。

 産むことも、産まないことも、どちらも容易ではない。


 花音の中にはまだ迷いがあった。

 好きな人との子どもではない。

 でも身体の奥で芽生えたものに、命という名が宿っていることもまた、否定できなかった。


 この子に罪はない。

 だけど、この世に生まれてくるだけで傷を背負う命があるのだとしたら。

 せめて自分がその責任を受け止められる人間でありたい。


 花音は小さく足を止め、空を仰いだ。

 雲の切れ間から差し込む光が、静かに彼女の頬を照らす。柔らかな風が木々を揺らし、遠くから子どもの笑い声が聞こえてきた。


「……綺麗」


 呟く声はどこか晴れやかだった。


 アケミは隣に立ち、黙ってその空を見上げる。ふたりの影が地面に寄り添うように並んでいた。



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