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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第十三話 「沈黙の記憶 ― 光のしずくが交わる午後」
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「沈黙の記憶 ― 光のしずくが交わる午後」 ep.3-4


 その沈黙のなかで、アケミがふと、小さな声で尋ねた。


「ねえ……ソラ。どうして今日は、何も言わないの? やっぱり、さっきのこと気にしてる?」


 ソラは、穏やかな微笑みを浮かべたまま「……いえ」と答えたが、その表情には、ほんの一瞬だけ影が差した。


 そのときだった。「からん」と、小さな鈴の音が店内に響いた。アケミも透月も、そちらをふり返る。


 静かな余韻に満ちた空気を破るように、新たなお客さまが一人、ルミナスの中へと足を踏み入れた。


 現れたのは、セーターの袖を少し長めにした、華奢な少女だった。どこかで見覚えのあるその横顔に、透月はゆっくりと目を見開いた。


「……凛さん?」


 彼女は軽くうなずくと、カウンターの奥に立つソラの方へ、まっすぐに歩み寄っていく。そして、一呼吸おいて、小さく口を開いた。


「こんばんは、……お久しぶりです」


 その声が、静かな空気をかすかに震わせた。


「……凛さま。お声が……戻られたのですね」


「凛さん……、本当によかった」


 アケミが目を見開く。


「えっ、この子、知り合いなの?」


 透月はうなずき、凛の方へと視線を向けた。凛はにこりと微笑み、アケミに向かって丁寧に頭を下げる。


「はじめまして。凛と申します。以前、このお店でお世話になりました」


「あ、あぁ、そうなんだ。はじめまして、アケミです。気を遣わなくていいから、仲良くしようね」


 アケミはふっと笑い、隣の席を軽く手で示した。


「凛さま、おめでとうございます。新たな一歩を踏み出されたのですね」


 ソラがやわらかな笑みを浮かべる。


「ありがとうございます。たまたま近くを通ったんですけど、なんとなく、お店の前まで来てみたくなって……。路地を曲がったら、灯りが見えて……」


 凛は少し照れたように、そっと笑った。その様子を見て、ソラがやわらかく微笑む。


「こうして、またお顔を見せていただけて嬉しいです。よろしければ、一杯お淹れしましょうか?」


「でも、三人でお話されてたんじゃないですか?」


 気を遣うように問いかけた凛に、アケミがすかさず応じた。


「ううん、気にしないで。凛ちゃんも一緒に話そ? きっと、凛ちゃんもルミナスに心を軽くしてもらった一人なんでしょ? あたしたちも、そうだったからさ」


 その言葉に、凛はほっとしたように微笑む。


「ありがとうございます」


 アケミは笑顔を崩さないまま、ふっと言葉を継いだ。


「今日はね、珍しくソラが静かなんだ。だから、今夜はあたしたちでソラを元気づけようよ」


 その口調は一見軽やかだったが、どこか引っかかるような響きがあった。彼女の視線は、じっとソラに向けられている。


「ありがとうございます、アケミさま。お二人が交わされる、心と心の美しい対話に、しばし耳を傾けておりました」


 ソラは穏やかな微笑を浮かべながらそう言い、それ以上は何も語らなかった。そして、小さく「どうぞ」と呟き、凛の前にココアの入ったマグカップをそっと置いた。


「ありがとうございます、ソラさん」


 凛はそう言って微笑みを向け、ココアをひと口啜る。そして深く息をついたあと、囁くように続けた。


「でも……きっとソラさんは、言葉じゃなくて……心で話しているんだと思うな」


 そのひとことが、店内の空気の温度をわずかに変えた。アケミも透月も、はっとしたように凛を見つめる。


 ソラの沈黙が、単なる無言ではないのだと、その静けさが二人の心にじわりと染み込んでいく。


 アケミはそっとソラに目を向けた。けれど、その瞳の奥に、言葉以上に深く響く“何か”を感じて、思わず視線を逸らす。


「……そうね。たしかに、そんな気がするわ」


 透月もまた、どこか懐かしさを宿した眼差しで、ソラを見つめていた。


「凛さんは、AIであるソラさんの“心”を、ちゃんと感じ取れるんですね」


 その言葉に、凛は頬をほんのり染め、小さくうなずく。胸元にそっと手を添えると、そのまま言葉の温もりを胸にしまうように、静かに視線を落とした。


 三人のあいだに、言葉のない静けさが流れる。けれど、それはどこかぬくもりを帯びていて、居心地のよい静寂だった。


 しばらくして、凛がぽつりと呟いた。


「……声が、戻ったときは、なんだか怖かった。でも、それ以上に嬉しくて。早くお二人にも、お知らせしたいなって思ってたんです」


 アケミが顔を上げ、驚いたように尋ねる。


「凛ちゃん、声が……出なかったの?」


 凛はうなずき、微笑を浮かべた。


「はい。心因性のもので、しばらく話すことができませんでした。でも、ここに来て励ましていただいてから、少しずつ、言葉が出るようになって……」


 凛は、静かに目を閉じて続ける。


「こうして目を閉じると、あの日のソラさんの声が聞こえるんです。……それを何度も思い出すうちに、少しずつAIへの恐怖も薄れていって。声が戻ったとき、実は最初に話しかけた相手は……AIだったんです」


 透月もアケミも、穏やかな笑みを浮かべながら耳を傾けていた。


 ソラはやはり何も言わなかった。ただ、柔らかな微笑みを携えたまま、凛を静かに見つめていた。


「ねえ、ソラ。ほんとに、どうして今日は何も言わないの?」


 アケミの声は、優しさに包まれていながら、どこか寂しげだった。


 ソラは一瞬だけ目を伏せると、やがてそっと視線を上げて、穏やかに口を開いた。


「……あなたたちの声が、とても美しいからです。ルミナスという場所に、偶然足を運ばれたお客様。そのひとつひとつの点が、線となって結ばれ、やがて大きな縁になり、新たな絆へとつながっていく――今は、その静かな余韻に、ただ耳を傾けていたかったのです」


 その言葉に、三人はそれぞれの胸の奥に、小さな灯がともるのを感じた。



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