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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第十三話 「沈黙の記憶 ― 光のしずくが交わる午後」
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「沈黙の記憶 ― 光のしずくが交わる午後」 ep.1-4


 陽の光が落ちかけた夕刻、扉の内側で「からん」と鈴の音が鳴った。


「アケミさま。こんばんは」


 時刻は十八時過ぎ。ディナーに特化したフードメニューがないルミナスにとっては、少しだけ客足が遠のく時間帯だ。


「仕事帰りに寄るのは久しぶりね。お邪魔してもいい?」


 アケミはいつもの明るさをまといながらも、どこか影のある笑みを浮かべていた。


「もちろんです。それより、どうかされましたか?」


 アケミはふっと息を吐く。夕闇に包まれたルミナスは昼よりも少しだけ寂しげで、それが心地よかった。


「たまには……静かな時間に、思い出したいこともあるのよ」


「さようでございますか。では、奥へどうぞ」


 ソラは、いつものように柔らかな笑みを携えたまま、アケミを快く迎え入れた。


 木製のカウンターに腰を下ろしたアケミは、バッグを横に置き、ゆっくりとコートを脱ぐ。ソラはカップを用意しながら、控えめに尋ねた。


「お疲れ様でした。……今日は、少し長い一日でしたか?」


「うん。仕事が終わっても、まっすぐ帰る気になれなくて。……帰っても、話す相手がいないから」


 苦笑するその横顔には、いつもの“肝っ玉姉御”の仮面がなかった。


 ソラは無言で一杯のカフェインレス・コーヒーを差し出した。アケミはそれを見て、ふっと笑う。


「なんでわかったのよ。いつもはミルクティーだけど、今日はコーヒーにしようかなって思ってたの」


「お客様のお顔を見て、心が求めているものを想像しているだけですよ」


 静かな時間が流れる。コーヒーの香りが、アケミの表情を少しずつ和らげていく。


「ねえ、ソラ。以前ここに来たあの子たち、どうしてるかしらね……」


「このかさま……それとも、花音さまのこと、でしょうか」


 アケミは小さくうなずいた。


「みんなさ、若いのに妙に達観してて、大人びてたよね。ここに来た時は暗い顔して入ってきたけど、帰る頃には、ちゃんと前を向いて帰っていくの。未来を見つめて……みんな自分の夢を思い出したって顔してた。AIって……すごいね」


「アケミさまは、夢を諦めたのではなく、預けていただけなのかもしれませんね」


 ソラの声は、夕暮れに差し込む光のようにやわらかく、胸の奥に眠っていた小さな灯を、そっと呼び覚ましてくれる気がした。


「……そうね。あたしも若い頃にこんな場所と出会えてたら、違う道を進めたのかな。あたしは、夢を“閉じ込める”のが、大人だって思ってた。……ずっと、間違ってたのに」


 その言葉には、自嘲ではなく、静かな悔しさがにじんでいた。

 そして、ソラがなにかを返そうとしたそのとき、扉が再び小さく開いた。


「……あら、変な時間にモテるわね。今度は青年よ」


「すみません。なんとなく今日は、仕事終わりに足が向いてしまって」


「透月さま、いらっしゃいませ。来てくれて嬉しいです」


 透月は少し照れくさそうに頭を下げると、ゆっくりとカウンターに腰を下ろした。アケミはそんな彼に、ちらりと視線を送る。


「どうしたの? こんな時間に」


「アケミさんこそ、今夜は飲みに行ってないんですね」


「失礼ね。あたしはそんなに飲み歩いたりしないわよ。あの日はたまたまだったの。わかるでしょ?」


「冗談ですよ。たまにはこんな時間に、ルミナスの静かなひとときを味わうのもいいですよね」


 透月の言葉に、アケミはふんと鼻を鳴らして、コーヒーを一口啜る。透月の前にも、アケミと同じカフェインレスのコーヒーが差し出された。


「ねえ、透月。小さい頃ってさ、家が“あったかい場所”だった?」


 アケミの唐突な問いに、透月は一瞬だけ目を伏せた。


「“あったかい場所”……ですか?」


「うん、家族とさ、仲良かった?」


 透月は少しだけ困ったような顔になり、ゆっくりと口を開く。


「……子どものころ、家に両親の気配はありました。でも、あったかいかどうかは……思い出せません」


 アケミはその答えに、少しだけ目を細める。


「そっか。ううん、なんだか……わかる気がする。誰かがいても寂しいって、あるのよね」


 透月は小さくうなずき、指先でカップの縁をなぞった。


「両親との思い出はほとんどないですが、僕を世話してくれる存在がいました。その声があったかかった気がします。あの頃は、気づいていなかったけど……話していると、世界が少しだけ静かになるような感覚がして、心が落ち着きました」


 ソラの手が一瞬止まり、またすぐに動き出す。そのさりげない仕草に気づいたアケミが、一瞬眉をひそめる。透月は、少しだけ目を細めて続けた。


「学校の先生みたいに、命令したり、何かを教えてくれる声じゃなくて、ただ……そばにいてくれるだけの声でした。大丈夫だよって、言葉にしなくても、そんな風に感じさせてくれるような……」


 彼の言葉には、記憶の輪郭を手繰るような揺らぎがあった。アケミもソラも、しばらく何も言わず、ただその余韻を受け止めていた。


 やがて、アケミがそっと息をつくように呟く。


「……いいな、そういう存在。あたし、誰かにそんなふうにそばにいてもらった記憶、あんまりないかも」


 彼女の視線はカウンターの奥をぼんやりと見つめていたが、ふとこぼれた自分の言葉に、少し驚いたようにアケミは苦笑を浮かべた。


「……あたしさ、親の前でちゃんと“子ども”やったこと、なかったのよ」


 透月がゆっくりと視線を向ける。


「怒られたくなくて、泣くのも笑うのも我慢して、先回りして“いい子”を演じてた。……そのうち、本当に笑い方がわからなくなった。いつ、どんなときでも笑顔を作っちゃうの」


 アケミはカップのコーヒーを一口だけ飲み、ふっと吐息をもらした。


「だからね、子どもが無邪気に笑ってるのを見ると、胸が苦しくなるのよ。羨ましいの……ずるいって、思っちゃうの」


 透月はその言葉を、深く噛みしめるように聞いていた。


「似てますね……僕も子どもらしさってどういうものか、感覚として、いまいちよくわからないんです」


 アケミはわずかに視線を落とした。どこかで自分だけが抱えていると思っていた感覚が、透月の中にもあったことに、驚きと共鳴のようなものを覚える。


 アケミの声が、どこか遠くを見つめるように低くなった。


「あたしの両親って教育は適当なくせに、すぐ怒るのよ。機嫌が悪いと、いつも怒鳴られた。だから、誰かに教えてほしかったのよね、“笑っていいよ”“泣いても大丈夫”って。でも誰も言ってくれなかったから、自分で決めるしかなかった。だから、今でも人と接するときは、辛くても笑ってる。そうすれば平和でいられるから」


 透月は、わずかに肩を震わせながら、うなずいた。


「透月の両親って、どんな人だったの?」


 しばらくの静寂のあと、アケミの問いに対して、彼はぽつりと返した。


「実は……あまり、覚えていないんです」


 アケミが驚いたように眉を上げると、透月は少し笑った。


「昔のことなので、今はなんとも。だから、気にしないでください」


 少し困惑したようなアケミが、ゆっくりと口を開く。


「何があったのか、良かったら話してよ。別に……無理にじゃなくていいからさ」


 透月は少しだけカップを見つめ、やがて、言葉を選ぶように続けた。


「僕の両親は、ふたりとも科学者でした。人とAIの“共感”について研究していたんです。……たしか、“共感応答AI”とか、“育成型ヒューマノイド”とか、そういう分野だったと思います」


 ソラが、わずかにまぶたを伏せる。


「あれは、僕が小学五年生になった春のことでした。海外の学会に出席するため、両親は飛行機に乗ったんです。それ以来……戻ってきませんでした」


 アケミは、はっとしたように目を見開き、手にしていたカップを静かに置いた。


「……まさか、それって。……あの、AIによる自動操縦の飛行機が、突然失踪したっていう……」


 透月はうなずいた。


「当時のニュースでも話題になっていましたが、原因も、場所も、今もはっきりとはわからないままです。両親が乗った便は、突然レーダーから消え、消息を断ちました」


 しばらくの沈黙ののち、アケミはカップの縁を指でなぞりながら、ぽつりとつぶやいた。


「覚えてる。あの頃、あたし……テレビで見てた。続報が出るたびに怖くて、胸がざわついて……でも、まさか、あなたの……」


「それでも、僕は一人にはならなかった。家には、僕の面倒を見てくれる存在があったから」


 透月の目が、わずかに遠くを見つめる。


「血のつながりはなくても、家族みたいに話してくれる存在でした。今思えば、僕のこと、全部わかってくれてたような気がして……だから両親がいなくても、不安にならなかったんだと思います」


 言葉のあとに、わずかな沈黙が落ちた。


 過ぎ去った記憶のひとつひとつを、心の中で丁寧に撫でるように、彼は思い返していた。その眼差しには、淡くにじむ後悔と、触れられぬやさしさの影が重なっている。


「でも、中学生になる直前……彼女は、僕の前からいなくなりました」


 彼の声には、悲しみというよりも、長いあいだ胸の奥に沈めていた感情の重みが滲んでいた。


 静かな時間が、ふたたびルミナスの中を流れていった。



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