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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第十二話 「その距離に、ひとひらの優しさを ― ソルティ・カラメル」
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「その距離に、ひとひらの優しさを ― ソルティ・カラメル」 ep.2-3


 ◇


 しばらくの沈黙のあと、落ち込む円香に対して、アケミが話題を変えようと努めるようにカップを傾ける。


 その頃、店の奥のテーブルで、詩織は小さく息を吐き、スマホに向かって静かに話し始めていた。音声入力によるエッセイの続きを紡いでいるのだ。


 円香は無言のまま、ふと彼女の方を目だけで追う。


「……目が見えないのに、なんであんなに落ち着いていられるのかな? 周りの状況とか、なんにもわかんないのに」


 円香がぽつりと漏らす。それに応じたのはソラだった。


「恐れが消えたからではなく、恐れと共に生きることを受け入れたからだと思います。見えない世界では、不安は消えるものではなく、常ににじり寄ってきます。……だからこそ、心の中心に、揺らがない光を見つけた方は、静かに強くいられるのかもしれません」


 ソラの言葉に、円香は「ふうん」とだけ返した。


 その声音はそっけなかった。けれど、その瞳には——、どこか遠くを見るような、淡い憧れと、ほんの少しの寂しさがにじんでいた。


 やがてソラは、カラフェを手にそっと詩織へ歩み寄ると、小さな問いを投げかけた。


「詩織さま。今日は、どんなことを綴られているのですか?」


 詩織は目を細めて、少し笑った。


「ビビと過ごした八年の日々のことです。視力がだんだん落ちて、何もかもが怖くなった頃……そんなとき、この子に出会って、私は救われました」


 詩織の言葉に静かに耳を傾けていたソラが、そっと言葉を添える。


「その出会いが、どれほど大きな光だったのか……私にも、わかる気がします。 見えない不安の中で、誰かの存在が心の支えになること。 それは、ほんのひとときでも、その人の世界を変える力になるのですね」


 円香は頬杖をつきながら、どこか複雑な表情でふたりのやりとりを見つめていた。


「最初はね、どうして自分だけがこんな目にって、ふさぎこんでた。誰かの足音も、風の音さえ怖かった。でも、この子と歩くようになって……音や匂いや空気で、世界を“感じる”ことを覚えたんです」


 詩織の言葉は静かに、けれど確かに円香の心へと届いていた。


「この子がいなかったら、きっと私は、今みたいに笑えていなかったと思います。だから……あと少しだけでも、思い出を増やしたくて。引退までの、ほんのわずかな時間の中で」


 二人の会話に耳を澄ませていた円香は、そっと視線を落とした。


 そのとき、ふいにビビがゆっくりと立ち上がり、静かに円香のほうへと数歩だけ歩を進めた。


 円香は身を強ばらせるが、ビビの動きは落ち着いていて威圧感はなく、ただ静かに彼女を見つめている。


「……えっ……」


 詩織が小さく驚き、リードを軽く引こうとするも、ビビは一歩も動かずに佇んでいた。


 ソラがやわらかく微笑みながら、そっと言葉を添える。


「きっと、気配を感じ取ったのですね。円香さまの、心のゆらめきを」


 円香は恐れを感じたが、椅子から立ち上がることはなかった。ただ、静かにビビの目を見つめて、問いかけるように呟いた。


「……あなた、引退しちゃうんだね」


 その問いを、ビビは首を傾げたまま聞いている。


「本当に吠えたりしないの?」


「ビビは必要がないかぎり、決して吠えません。けれど、心の揺らぎには敏感ですよ」


 カウンターに戻ってきたソラが優しく応じると同時に、一杯の飲み物を差し出す。


「円香さま、よろしければこちらをどうぞ。……“ソルティ・カラメル”です」


 テーブルに置かれたそれは、淡い色のキャラメルラテ。ほのかに塩気の香りが漂い、湯気の向こうで柔らかな光を帯びていた。


「不安の下にあるものが、少しでも溶けてくれればと願ってお作りしました」


 円香はしばらくカップを見つめたままだったが、やがて両手でそっと持ち上げ、一口啜る。


「……優しい味がする。なんか、安心する」


 アケミが小さく笑う。


「ね、だから言ったじゃない。ただのカフェじゃないんだって」


 静かに、でも確かに、円香の中で何かがほぐれていく気配があった。気づけばビビも詩織の足元へと、ゆっくりと戻っていった。



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