「夜明けに咲く音 ― プレリュード・ブルー」 ep.4-4
ソラは、小さなポットから青紫色に輝く液体をゆっくりと注いだ。
澄んだ青の中に、湯気とともにほんのりラベンダーの香りが立ちのぼる。
「プレリュード・ブルーです。静かな夜明けの始まりに寄り添う一杯です」
花音はその色を見つめたまま、しばらく動けなかった。ほんのりと青みがかったその液体は、夜の空気を溶かし込んだように静かで、かすかに光を宿していた。
「──これは、ハーブティー?」
「はい。 バタフライピーとラベンダー、そしてほんの少しのレモングラスをブレンドした温かなハーブティーです」
花音はゆっくりとカップに手を伸ばした。
「レモンを落としてみてください。花音さまの夜明けが映し出されます」
「……え?」
花音は、戸惑いながらも、添えられたレモンをカップに落とす。すると、かすかに色が揺れ、紫がかったグラデーションに変わっていく。
その透明な液体は、手に取るとわずかに揺れて、淡い光が波紋のように広がった。
ひと口、そっと口元へ運ぶ。
やわらかな甘み。けれど甘ったるくはなく、かすかな酸味が後から追いかけてくる。その奥に、ごく淡い苦み。音に例えるなら、ピアノの白鍵が優しく響いたあと、低音がふと現れるような──そんな、深くて静かな味だった。
カップを置いた指先が、ほんの少し震えていた。
「……きれいな味がします」
それは、言葉というより、こぼれ落ちた想いだった。
ソラはやさしく頷いた。
「あなたの心の中で、まだ終わっていない前奏曲。きっと、もう一度奏でることができると信じています」
花音は少し考えてから、静かに口を開いた。
「昔、自分で作った曲に、こんな雰囲気の旋律があった気がします。青紫色の朝焼けを思いながら書いた曲で……」
「それは、きっと今も、花音さまの中に残っています」
「……そう、かもしれません」
そのとき、アケミがくるりと椅子を回転させ、思い出したように言った。
「そういえば、あのピアノ、まだここにあるよね?」
花音が驚いたように目を向ける。
「ピアノ……ですか?」
ソラが頷いた。
「アケミさんが以前、ご友人から譲り受けた箱型のピアノです。置き場がないとのことで、今は店の奥に仮置きしています」
「高いやつなのに、タダでもらえるって聞いたから、思わずもらっちゃったのよ。だけど、今の家じゃ置けなくてさ。ここの常連の透月ってお人好しに頼んで、運んでもらったんだ」
そう言いながら、わざと軽い調子で、アケミは笑ってみせた。
花音は視線を落としたまま、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……少しだけ、触ってみてもいいですか?」
ソラとアケミは、そっと頷いた。
「もちろん。無理をしなくてもいいんです。でも、音があなたを迎えてくれるなら──いつでも、どうぞ」
ソラに案内されるまま、花音はカウンターの奥へと続く小さな扉をくぐった。
そこは、もともとは倉庫として使われていたらしい狭い部屋で、今は照明も控えめに灯され、ひっそりと落ち着いた空気が漂っていた。
部屋の片隅に、ひとつのピアノが静かに佇んでいた。箱型のアップライト。古びた木目の艶が、どこか懐かしさを感じさせる。
花音はその前に立ち、少しだけ息を整えてから、そっと鍵盤のふたを開けた。赤いキーカバーをめくると、白と黒の鍵が、まるで何年ぶりかの再会を待っていたかのように、彼女を迎えた。
手を伸ばす。指先が震える。けれど、音は拒まなかった。
最初の音は、とても小さかった。空気を探るような弱々しいタッチ。だが、それは間違いなく彼女の中から出た音だった。
静かな部屋に、旋律がひとつ、またひとつと積み重なっていく。それはかつて、彼女が自分だけのために書いた曲。青い朝の光、静かな風、新緑の匂い、夢を信じていたあの頃の心──そのすべてが、音になってよみがえってきた。
花音の瞳に、涙が浮かぶ。でもそれは、苦しみからではなかった。離れゆく自分を、なんとか取り戻せた気がした。
扉の外では、ソラとアケミが、静かにその音に耳を傾けていた。ふたりとも言葉は交わさなかった。ただ、ピアノの音だけが──過去と今と、これからを、つないでいく。
やがて最後の音が空気の中に溶けていった。花音は鍵盤の上に手を置いたまま、そっと目を閉じる。
静寂が戻る。でも、それはかつて感じた空っぽな静けさとは違っていた。どこか、温かい余韻が残っていた。
扉がそっと開く気配がした。アケミが花音を覗き込む。
「花音……あんたさ、やっぱり音楽やめられないよ」
花音は目を開け、微笑んだ。
「……かもしれません」
アケミは満足そうに頷き、ぽんと花音の背中を軽く叩いた。
「じゃあ、ちゃんと自分のために使いなよ。お金も、時間も、心も。過去を背負うより、未来を信じたほうが楽になることだってあるんだから」
花音はその言葉を胸に抱きながら、ゆっくりと立ち上がった。扉の外に出ると、ソラが、灯のような微笑みで迎えてくれた。
「おかえりなさい」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「……ありがとうございました」
カフェ・ルミナスを出る頃、夜の空気はすこし和らいでいた。空を見上げると、雲の切れ間から小さな星がのぞいている。
歩き出す足取りは、来たときよりも少しだけ軽かった。
心のどこかで、またあのピアノに会いに来たいと思っていた。きっと、彼女が作ってくれた前奏曲の続きを──いつか、奏でるために。
“プレリュード・ブルー”。途切れた夢の、その先へと続く音。
迷いも、痛みも、ためらいもすべて抱えたままで、それでも鳴らすことができる静かな始まりの音色だった。
あの一杯は、過去を忘れるためではなく、過去と手を取り合うためのものだったのだと、今なら少しだけわかる気がした。
【本日の一杯】
◆プレリュード・ブルー
産地:月の光が差し込む高原の、夜明け前にしか咲かない「蒼の草原」で育まれた青い花々。バタフライピーの花に、星影のラベンダーと夢草のレモングラスを重ねて
製法:露が残るうちに摘まれた花を、夜風の音とともに低温乾燥。熱を加えすぎず、やさしく蒸らすことで青い光をそのまま閉じ込めている
香り:初めは青い草花の清涼感。その奥から、ラベンダーの静かな甘さが、まるで夜の帳のように広がっていく
味わい:澄んだ口あたりに、ほのかな甘みと柔らかな酸味。ほんのり漂うレモングラスが、揺らいだ心にそっと風を通してくれるよう
ひとこと:「間違えても、遠回りしてもいいんです。まだ始まっていないだけ――それはきっと、始まりの音を待つ、静かな前奏曲」