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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第十話 「夜明けに咲く音 ― プレリュード・ブルー」
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「夜明けに咲く音 ― プレリュード・ブルー」 ep.3-4

「あたしアケミ。ここの常連。ねえ、よかったら話そうよ。誰もいないし、女同士だし」


 その言葉が不思議と、責めるでも詮索するでもなく、ただそこに“居てくれる”もののように感じられた。


「あっ、無理に話さなくてもいいけどさ」


 花音はうつむいたまま、ぽつりとこぼした。


「……花音です」


「へえ、かわいい名前じゃん。で、今日はどうしたの? なんかあった?」


「ただ……夢を、追いたかったんです。でも……現実は、甘くなくて」


「そっか……。どんな夢だったの?」


 花音はすぐに答えない。コーヒーが淹れられる音が、しばらく二人のあいだを満たしていた。


「……音楽です。子どもの頃からずっとピアノを練習してきて、高校の頃までは、ずっと音大に行きたかったんです。……だけど、親からは無理って相手にされなくて。だから……、いったんは諦めて、大学も音楽とは関係のない学部に進みました」


 言葉を選びながら、花音は続けた。そのあいだ、ソラは静かにアケミ専用のマグカップにコーヒーを注ぎ、そっと手渡す。アケミは小さな声で「ありがと」と言い、両手で包み込むように受け取った。


「でも……やっぱり、忘れられなくて。どうしても、もう一度挑戦したくなって。自分の力で学費を貯めようって思ったんです」


「なるほどね……それで、無茶をしたんだ?」


 花音はうなずいた。一粒の涙が、頬を伝う。


「少しでも早くお金が必要だったから……普通のバイトじゃ追いつかなくて。わかってたんです、こんなことしちゃいけないって。でもわたし、どうしても音大に行きたくて、気づいたら……」


 声がかすれ、言葉が喉の奥でほどけた。


 アケミは、それ以上は何も聞かなかった。自分のカップを両手で包みながら、静かにうなずいた。


「……全部、わたしが悪いんです。自分で選んだことだから……。だから、もう、音楽だって……」


 花音の声はわずかに震えていた。そのとき、カウンターの奥でお湯を沸かしていたソラが、ふと視線を上げた。


「花音さま、自分を責める心も、きっと何かを守りたかった証なのだと思います。悪いことだと、全部自分で抱えてしまう心こそ、優しさの裏返しなのかもしれません」


 花音は、かすかに眉をひそめた。

 それは、傷口をそっと撫でられたような痛みに似ていた。けれど、同時にその声に救われるような気がして、胸の奥がじんと熱くなる。


「人の心は、ときに言葉をなくして、静かに沈んでいくことがあります。きっと、あなたのように何かを大切に想いすぎる人ほど、心は深く静まってしまうのです」


 花音は、指先をぎゅっと握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。


「あんなふうに、自分を傷つけてまで音楽にしがみつこうとした自分が……すごく醜く思えて。もう、わからないんです。わたしが何をしたくて、何を捨てたのかさえ……」


「迷いも、傷も、花音さまが真剣に生きてきた証です。遠回りに見える道も、きっとあなたの音楽に、必要な何かを連れてきてくれる。傷ついた手でしか奏でられない音があると、私は信じています」


「でも……わたし、これからどうすればいいのか、わからなくて」


「わからなくなることは、とても自然なことです。人の心は、指先で地図を辿るように、うまくはいきません。今は、ただ止まっているのではなく、遠回りの道を歩いているだけなのです」


 ソラはやさしく微笑み、湯気をまとったケトルを持ち上げた。


「心の音が聴こえなくなる瞬間もあります。でもそれは、壊れたからじゃなくて……きっと、静かに呼吸を整えているだけなんです。まるで、陽だまりの片隅で、体力を取り戻している小さな猫のように」


 その言葉に、花音の肩がわずかに震えた。


「……私、音楽が好きでした。自分で曲を作って、ピアノの前に座る時間が、一番落ち着けた。でも……あんなことをしておいて、こんな気持ちでピアノに向き合うなんて、許されない気がして。それで……もう弾けないって、思ってしまって」


 ソラはそれを遮らず、静かに聞いていた。 花音は視線を伏せたまま、返ってくる言葉をどこか怖がっているようにも見える。 けれど、ソラの声は穏やかだった。


「音は、誰かの許可がなければ鳴らせないものではありません」


「……でも、自分が許せないんです」


「ならば、まずは小さく。許すことより、ただ思い出すことから始めてみませんか」


 ソラはそう言って、棚からひとつのカップを選び取った。白と青が混ざった陶器のカップ。その縁には、まるで波のような模様があった。


「花音さまに合うと思った一杯を、ご用意します」


「え……私、まだ何も頼んでません」


「はい。けれど、少しだけ……花音さまの心に触れた気がしました。あなたの感情に合う一杯を、お作りいたします」


「でも……」とつぶやいた花音の肩に、アケミがそっと手を添える。花音は目を伏せ、こくりと小さくうなずいた。


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