「ビター・スウィート・カフェ ― オーロラ・ブレンド」 ep.2-4
「……母が、よくコーヒーを淹れてくれたんです。試験の前とか、大学受験のときとか、『がんばれ』って言いながら。でも、それがすごく苦くて……正直つらかったんです。だけど母の気持ちを思うと、飲めないとも言えなくて。なんとなく、そのままずっと苦手意識があって……」
すると、カウンターの向こうから、ソラがゆっくりと目を閉じるようにうなずいた。
「誰かの真心が注がれた味は、たとえ少し苦くても、不思議と心に残るものです」
ソラの声は、ほんのわずかに熱を帯びていた。それは相手を諭すでも慰めるでもなく、ただ共に味わおうとするような、柔らかな響きだった。
「味覚としては好みでなくても、記憶の奥ではあたたかく灯っている。……それは、きっと味そのものよりも、その時そばにいた人の想い――差し出された優しさや空気が、心に沁み込んでいるからなのでしょうね」
春樹は、はっとしたように目を伏せた。胸の奥で、忘れていた何かがそっと揺れた気がした。
ソラは、そんな彼の様子にそっと目を細める。
「お母様との思い出も、そうして残っているのだと思います。言葉ではうまく言い表せなくても、その一杯が、今のあなたを静かに支えている……そんな気がいたします」
店内の空気が、ふわりと揺れたように感じられた。カップから立ちのぼる湯気と同じように、春樹の心の内にも、何かあたたかいものが広がっていた。
その様子を、透月は黙って見つめていた。
言葉を挟むこともなく、ただソラの言葉に耳を傾ける。
店内に漂う穏やかな空気が、春樹の表情を少しずつ和らげていくのを見て、胸の奥に、言葉にならない感情がゆっくりと広がっていくのを感じた。
――ああ、やはりこの空間は、誰かの何かを動かしている。
そんな確信が、静かに胸を満たしていった。
ソラの語りは不思議だった。ただ優しいだけじゃない。相手の記憶に寄り添いながら、その奥に眠っていた感情を、そっとすくい上げていく。自分には、いや、おそらく普通の人間には、到底真似できないやり方だった。
透月はふと、自分の手元のカップを見下ろした。冷めたコーヒーの表面に、ぼんやりと自分の顔が映る。それを見つめながら、ぽつりと心の中で呟いた。
――彼も、変われるのかもしれないな。少しだけでも。
自分にできたのは、ただ、この青年がコーヒーを苦手としていることを、少し早く察しただけだった。変わってほしいと願ったわけでもない。変わる手助けが、自分にできるとも思っていなかった。
なのに――今、目の前にいるAIが彼を変えようとしている。
人工“知性”の“知能”が人間の限界を超え、もはや人間よりも優れているのは、誰の目にも明らかだ。だけど、不思議と悔しさはない。むしろ、そっと肩の力が抜けるような……そんな、安堵に似た感情が静かに広がっていた。
ほどなくして、ソラが一杯のコーヒーを春樹の前にそっと置いた。
「こちら、季節のブレンドです。当店では、季節ごとにメインのコーヒーがかわります」
春樹はこくりと頷き、意を決したようにカップに口をつける。
「……っ! うぅ……やっぱり、苦い」
その様子を見ていた透月が、少し呆れ口調で言った。
「そりゃそうですよ。苦手なのに、どうしてブラックで飲むんですか」
そのときだった。
「もしよろしければ、少しだけ、お話を伺っても?」
ソラが静かに問いかけた。春樹は驚いたように彼女を見つめる。
「えっと……お話って?」
「あなたはコーヒーが苦手だと、透月さんはおっしゃっていましたね。けれど、今日こうして飲もうとされている。そこにはきっと、お母様との思い出以外にも、なにか大切な理由があるのではないかと」
春樹は戸惑いながらも、すぐに言葉を返した。
「すみません……せっかく淹れてくださったのに……」
ソラは首を軽く振って、穏やかな声で応じた。
「いいえ。どうか、お気になさらず。もしよろしければ、その理由をお聞かせいただけますか?」
春樹はためらうように視線を彷徨わせてから、ゆっくりと顔をあげた。
「仰るとおり、僕はコーヒーが苦手です。だけど今付き合っている彼女が、コーヒーの味や、カフェで過ごす時間が大好きで、本当に大切にしていて……」
そう言いながら、春樹は指先でカップの縁をなぞった。
「だから、付き合いたての頃は、よく一緒にカフェに行ってました。でもそんな彼女に、実はコーヒーが苦手だなんて、なかなか言い出せなかったんです」
春樹は言葉を選ぶように一瞬間を置き、胸の奥でそっと息を整えると、ゆっくり視線を落とした。
「だけど……近頃の彼女は、僕に気を遣ってなのか、あまりカフェに行きたがらなくなって、行っても他の飲み物を頼むようになったんです。たぶん、気づかれてしまったんだと思います」
そこには、申し訳なさと、切なさが滲んでいた。
「本当は、彼女だって、コーヒーやカフェでの時間を楽しみたいはずなんです。なのに、苦手な僕に気を遣わせないように、自分も違う飲み物を選ぶんです。今日はコーヒーの気分じゃないからって、そう笑ってくれるんです。だから……僕も、心からコーヒーを美味しいって思えるようになりたくて」
春樹の声に、ソラはふと、ほんのわずかに微笑を深めた。
「あなたのそのお気持ち、とても素敵だと思います。誰かを思って、自分を変えようとする優しさは、なかなかできることではありません。苦手なものを克服するとなると、尚更です」
春樹は思わずうつむき、そして小さく息を吐いた。
「……きっと、その想いは届いています。あなたがそうして悩んだ時間ごと、すべてがやさしさに変わっていくと、私は思います」
そして、ソラはそっと言葉を添えた。
「お話を伺って、少しだけ思い出した味があります。少々、お時間をいただけますか?」
春樹は少し戸惑ったように目を見開き、やがて小さく「……はい」と呟いた。