「再出発の音色 ― シュクレ・セレナーデ」 ep.5-5
しばらくの間、三人のあいだに言葉はなかった。だけど、何かが確かに、そこに流れていた。
やがて、このかがスマートフォンを取り出した。画面を見つめる彼女の指が、ほんの少し震えている。
「……久しぶりに、連絡してみようかな。……あの子に」
アケミが目を見開く。
「お、もしかして、例の“止めようとしてくれた子”?」
「うん。……でも、もう、どう思ってるかわかんない。わたしのこと、嫌いかもしれないし……」
「だったらさ、聞いてみたらいいよ。このかちゃんの気持ち、ちゃんと伝えてさ」
ソラが静かに言葉を添える。
「思い出は、あなたの中だけに留まるものではありません。伝えることで、重なることもあります」
このかは、小さく息を吐いた。
「……なんて送ればいいかな」
「それはねえ……」
アケミはすっと自分のスマホを取り出して、画面を見ながら考え込む。
「じゃあ、こういうのはどう? 『久しぶり。いろいろあって、距離を置いちゃったけど、本当はずっと感謝してた。ありがとう』……とか」
このかは、しばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「うん。……それ、送ってみる」
小さな指が、慎重に文字を打ち込んでいく。最後に深呼吸をして——送信。
メッセージが送られてから、数十秒も経たないうちに、返信が届いた。
《心配してたよ! ずっと、連絡待ってた。また会いたいな》
このかの目に、静かに光が宿った。
そのとき、外の雲がゆっくりと晴れて、窓辺に一筋の光が差し込んだ。
ソラがカウンターからそっと声をかけた。
「おめでとうございます。このかさん。……ささやかですが、お祝いの一杯をお二人に、よろしければ」
アケミがぱっと笑顔になる。
「えっ、それ私も飲んでいいやつ?」
「もちろんです。二人に、特別なミルクティーを——“シュクレ・セレナーデ”。甘い、小さな小夜曲をお楽しみ下さいませ」
ほどなくして、琥珀色のやさしい湯気を立てた二つのカップがテーブルに置かれた。
このかが、静かにアケミの方を見つめた。
アケミは少し照れくさそうに笑って、そっと声をかけた。
「……よかったらさ、乾杯、する?」
「うん」
「ミルクティーで乾杯ってのも、なんか変だね」
アケミの言葉に、このかがくすりと笑う。そして、二人のカップが、そっと触れ合った。小さく、やわらかな音が、ルミナスの午後に響いた。
その一音は、まるで再出発の合図のようだった。誰にも聞こえない、小さな決意の鐘の音。
このかの胸の奥で、何かがそっと動き出す。まだ答えは出せないけれど、少なくとも——今日は、来てよかったと思えた。このかの小さな勇気は、今日という午後に蒔かれた芽。きっといつか、胸の奥でそっと芽吹き、やがて静かに花を咲かせるだろう。
窓の外では、春の光が街角をやわらかく照らしていた。
【本日の一杯】
◆シュクレ・セレナーデ
産地:遥か霧の彼方、星の巡る高原〈セレナの丘〉で摘まれた幻想の茶葉と、月下に咲く夢見草の莢から採れたバニラ
製法:低温抽出で香りを最大限に引き出した後、ミルクでじっくり煮出す特製チャイ仕立て
香り:紅茶の渋みの奥に、やわらかく甘いバニラとシナモンの香りが重なり、まるで記憶のなかの旋律をそっと呼び起こすよう
味わい:ほんのりスパイシーで、深いミルクの甘みが余韻として残る。ひとくちごとに、心がふわりと緩んでいく
ひとこと:「心の奥に静かに響く小夜曲。甘さのなかに宿る、小さな勇気と記憶のぬくもりが、再出発の一歩をそっと照らしてくれるような一杯です」