「弾ける前の静けさ ― ソーダ・サイレント 」 ep.2-2
やがてカウンターに置かれたのは、細身のグラスに注がれた、透明な炭酸――淡い青のソーダ水だった。
微かに泡立つその液体は、これまでに見たことのないほど、儚く美しい青色を湛えていた。
「……ソーダ?」
「はい。こちらは“ソーダ・サイレント”といいます」
「洒落た名前つけやがって……」
荒木はぶつぶつ言いながらも、グラスに手を伸ばした。シュワシュワという泡の音が、耳に心地よく響く。
一口飲むと、ほんのりとした柑橘とミントのような、さわやかな酸味が舌に残った。
「……甘くねぇな」
荒木の言葉に、ソラがくすりと笑う。
「けれど、苦くもないでしょう?」
荒木も肩をすくめるようにして、小さく笑った。
「まあな……なんだよ、妙に沁みる味だ」
しばらく沈黙が落ちた。炭酸の泡が一定のリズムで弾けていく。その音が、荒木に何かを語りかけてくるようだった。
「この泡はきっと、怒りやざわめきをやさしく包んで、静かに空へと昇っていくんです」
ソラが笑顔で告げる。
「……詩人かよ」
荒木は口を歪めたが、その声に棘はなかった。
そして、小さく息を吐いた。
「なあ……あんた、ニュースとか見るか?」
ぽつりと、荒木が言った。
「最近、俺らみてぇな世代のやつが、無差別に暴れたりしてるって話……知ってるか?」
「はい。見ています」
「そういう奴らはよ、大抵自分の罪を時代や政治のせいにするんだ。昔はな、そういうの見ると“最低だ”って思ってた。でもよ……最近はちょっとだけ“わかる”って思っちまう自分がいるんだ」
荒木は俯き、グラスの中の泡をじっと見つめた。
「それが……怖ぇんだよな」
ソラはしばらく黙って、グラスの向こうから荒木を見つめていた。
「その怖さに気づける方は、まだ壊れていません」
「え……?」
「壊れてしまった人は、もう自分の痛みに気づけません。あなたは、まだ感じている。だから今夜、ここに来られたのでしょう?」
荒木は目を伏せたまま、苦笑した。
「慰めてるつもりかよ……」
「いいえ。ただ、事実をお伝えしているだけです」
炭酸の泡が、ひときわ強く弾けた。その音に、心の淀みが少しだけ揺らぐ。
「俺さ……誰にも言えなかったんだよ、こんなこと。言ったら“やべぇ奴”って思われるだろ」
「ここでは、思ってもいいんです。言葉にしても、いいんです。私はただの……AIですから」
ソラがやさしくも、寂しそうに呟いたその言葉に、荒木は肩を落とすようにして、深く息を吐いた。
「……少しだけ、楽になったかもな」
「それなら、よかったです」
ソラの声は穏やかだった。だがその響きには、どこか祈るような静けさがあった。
荒木は残りのソーダを飲み干し、グラスを眺めた。泡はもうすっかり消えていた。
「あーあ……明日も仕事か」
自嘲気味につぶやいた彼に、ソラは小さく首を振る。
「ええ。でも、今日より少しだけ、違う一歩を踏み出せるかもしれません」
「……そんなもんかね」
荒木は立ち上がり、少しだけ背筋を伸ばす。
「ありがとよ。……なんだ、店の名前、もう一度聞いてもいいか?」
「《記憶と夢の珈琲店 カフェ・ルミナス》です」
「……夢なんて、ずいぶんと遠ざかっちまったもんだな」
ドアを押して外に出た荒木の背に、小さな鈴の音が響く。
音の消えたあとに残る静けさが、彼にはどこか心地よかった。
夜の空気にまぎれて消えた炭酸の泡のように、胸のざわめきも、少しだけ静かになっていた。
振り返ることはなかったが、その背中には、確かに風向きの変化が宿っていた。
【本日の一杯】
◆ソーダ・サイレント
産地:黄昏の裏路地にひっそりと流れる、誰にも拾われなかった想いの泉
製法:微細な炭酸に心のざわめきを封じ、静かに弾けるよう仕立てました
香り:柑橘とミントの淡い調和。冷たい雨の夜に似た、透き通る気配
味わい:甘くもなく、苦くもなく。ただ静かに、喉の奥に残る余韻
ひとこと:「怒りや孤独は、心が生きている証です。誰にも言えなかったことほど、そっと泡にして手放しましょう。あなたのままで、大丈夫です」