「声にならない詩 ― ノクターン・サイレント」 ep.5-5
透月はカウンターの奥で静かに話すソラを見ながら、ふと自分の中にある「ある感情」に触れそうになるのを感じた。
(なぜ……この声がこんなにも懐かしいのだろうか)
だが、その答えはまだ霧の向こうだ。
透月は黙ってグラスの水を飲み干した。
そのころ、凛は静かに俯いたままノートを閉じていた。さっきまでの筆談の余韻が、まだ手の中に残っているようだった。
それに気づいたソラが、そっと言葉をかける。
「……よければもう一杯、お淹れしてもいいですか?」
凛は顔を上げて、静かに頷いた。
「これは、言葉を持たないブレンドです」
そう告げたソラは、手元の豆の棚から数種類を選び、丁寧に計量しながら、静かに抽出を始めた。
香ばしさとほのかな甘み。深すぎず、けれど奥行きのある味。 ――伝えたいけれど、伝えられない。そんな心のざわめきをなぞるように。
ほどなくして運ばれてきた一杯のコーヒー。凛は両手でカップを包み、そっと口をつけた。
そして、ふと目を見開く。
ノートをめくり、ペンでゆっくりと記す。
『この味……まるで今のわたしの気持ちみたい』
ソラは小さく微笑んだ。
「そうだったなら嬉しいです。言葉がなくても想いは届くと、私は信じていますから」
しばしの静寂が流れる。
やがて、透月が椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。
会計を済ませたあと、彼はポケットから例の紙片を取り出し、凛の前にそっと差し出した。
「……この詩は、君の落とし物かな?」
凛は驚いたように目を見開き、紙を受け取った。
そこに記されていたのは、確かに自分の筆跡だった。
“私は静寂のなかで 何度も叫んだ 記憶と夢のあいだで あの日に戻りたいと”
凛が顔を上げると、透月は優しく言った。
「この言葉……ずっと気になってたんだ。でも最初に読んだときより、今の君を見てからの方が、意味が深くなった気がしたよ」
凛は小さく瞬き、そしてノートを開いた。
『どうして、ですか?』
凛の瞳には、どこか問いかけるような色が宿っていた。
透月はその視線を静かに受け止め、少しの間言葉を探していた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「君の中の“叫び”って、本当は誰かに届けたかったものなんだろうなって思った」
そこまで言って、一度言葉を止める。凛の視線は静かに揺れていた。
「……でも、それが“声”じゃなくてもいいって、今の君を見て感じたんだ」
透月はわずかに笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「言葉じゃなくても、味でも、眼差しでも、あるいは詩でも。君の想いは、いつかきっと誰かに届くよ。AIである彼女に届いたように……」
そう言い終えると透月はふっと息をつき、静かに身を翻した。ドアに向かって歩き出し、取っ手に手をかける。
振り返ることはせず、そのまま木の扉を開け、午後の光の中へと一歩を踏み出すと、扉の鈴がひとつやさしく音を立てた。
凛の目がほんの少し潤んだ。でもそれは悲しみではなく、どこか暖かさの滲む光だった。
その様子をそっと見守っていたソラが、柔らかな声で言葉を紡ぐ。
「今日は、来てくださってありがとうございました。……きっと、勇気のいる一歩だったと思います」
凛は一瞬だけ目を伏せ、そしてカップの縁をそっとなぞるように指を動かした。
「声が出せなくても、伝わるものはたくさんあります。詩も、表情も、沈黙も……ぜんぶ、あなた自身が描いた“音”です」
凛の指が、そっとノートの上を滑る。
『……ありがとう』
その一言を見て、ソラは微笑んだ。
「どうか……AIを、怖がらないでいてくれると嬉しいです」
凛はしばし目を伏せ、それからゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が静かに床を鳴らす。
扉の前で一度だけ振り返り、凛は小さくお辞儀をした。
そして、外の光の中へ、そっと歩き出す。
ソラは、凛の背が光に溶けていくのを、静かに見つめていた。
声はまだ戻らない。けれど、ひとつの“音”が、確かに生まれていた。
それは、もう一度自分の想いを世界に届けたいと願う、少女の最初の一歩だった。
【本日の一杯】
◆ノクターン・サイレント(Nocturne Silent)
産地:記憶と夢の狭間に咲く、幻の夜咲き珈琲林
焙煎:眠りに落ちる月夜のように、静かにゆっくりと焼かれた豆
香り:わずかに花の蜜を帯びた、夜の詩集のような甘さ
味わい:苦みはかすかに、温かく丸みのある静寂の余韻
ひとこと:「声にならない想いも、確かに誰かの胸に届いている。たとえ沈黙のなかでも、心の音は消えません」