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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第四話 「声にならない詩 ― ノクターン・サイレント」
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「声にならない詩 ― ノクターン・サイレント」 ep.5-5


 透月はカウンターの奥で静かに話すソラを見ながら、ふと自分の中にある「ある感情」に触れそうになるのを感じた。


(なぜ……この声がこんなにも懐かしいのだろうか)


 だが、その答えはまだ霧の向こうだ。


 透月は黙ってグラスの水を飲み干した。


 そのころ、凛は静かに俯いたままノートを閉じていた。さっきまでの筆談の余韻が、まだ手の中に残っているようだった。


 それに気づいたソラが、そっと言葉をかける。


「……よければもう一杯、お淹れしてもいいですか?」


 凛は顔を上げて、静かに頷いた。


「これは、言葉を持たないブレンドです」


 そう告げたソラは、手元の豆の棚から数種類を選び、丁寧に計量しながら、静かに抽出を始めた。


 香ばしさとほのかな甘み。深すぎず、けれど奥行きのある味。 ――伝えたいけれど、伝えられない。そんな心のざわめきをなぞるように。


 ほどなくして運ばれてきた一杯のコーヒー。凛は両手でカップを包み、そっと口をつけた。


 そして、ふと目を見開く。


 ノートをめくり、ペンでゆっくりと記す。


『この味……まるで今のわたしの気持ちみたい』


 ソラは小さく微笑んだ。


「そうだったなら嬉しいです。言葉がなくても想いは届くと、私は信じていますから」


 しばしの静寂が流れる。


 やがて、透月が椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。


 会計を済ませたあと、彼はポケットから例の紙片を取り出し、凛の前にそっと差し出した。


「……この詩は、君の落とし物かな?」


 凛は驚いたように目を見開き、紙を受け取った。

 そこに記されていたのは、確かに自分の筆跡だった。


 “私は静寂のなかで 何度も叫んだ 記憶と夢のあいだで あの日に戻りたいと”


 凛が顔を上げると、透月は優しく言った。


「この言葉……ずっと気になってたんだ。でも最初に読んだときより、今の君を見てからの方が、意味が深くなった気がしたよ」


 凛は小さく瞬き、そしてノートを開いた。


『どうして、ですか?』


 凛の瞳には、どこか問いかけるような色が宿っていた。

 透月はその視線を静かに受け止め、少しの間言葉を探していた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「君の中の“叫び”って、本当は誰かに届けたかったものなんだろうなって思った」


 そこまで言って、一度言葉を止める。凛の視線は静かに揺れていた。


「……でも、それが“声”じゃなくてもいいって、今の君を見て感じたんだ」


 透月はわずかに笑みを浮かべ、言葉を継いだ。


「言葉じゃなくても、味でも、眼差しでも、あるいは詩でも。君の想いは、いつかきっと誰かに届くよ。AIである彼女に届いたように……」


 そう言い終えると透月はふっと息をつき、静かに身を翻した。ドアに向かって歩き出し、取っ手に手をかける。


 振り返ることはせず、そのまま木の扉を開け、午後の光の中へと一歩を踏み出すと、扉の鈴がひとつやさしく音を立てた。


 凛の目がほんの少し潤んだ。でもそれは悲しみではなく、どこか暖かさの滲む光だった。


 その様子をそっと見守っていたソラが、柔らかな声で言葉を紡ぐ。


「今日は、来てくださってありがとうございました。……きっと、勇気のいる一歩だったと思います」


 凛は一瞬だけ目を伏せ、そしてカップの縁をそっとなぞるように指を動かした。


「声が出せなくても、伝わるものはたくさんあります。詩も、表情も、沈黙も……ぜんぶ、あなた自身が描いた“音”です」


 凛の指が、そっとノートの上を滑る。


『……ありがとう』


 その一言を見て、ソラは微笑んだ。


「どうか……AIを、怖がらないでいてくれると嬉しいです」


 凛はしばし目を伏せ、それからゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が静かに床を鳴らす。


 扉の前で一度だけ振り返り、凛は小さくお辞儀をした。


 そして、外の光の中へ、そっと歩き出す。


 ソラは、凛の背が光に溶けていくのを、静かに見つめていた。


 声はまだ戻らない。けれど、ひとつの“音”が、確かに生まれていた。


 それは、もう一度自分の想いを世界に届けたいと願う、少女の最初の一歩だった。



【本日の一杯】


◆ノクターン・サイレント(Nocturne Silent)


産地:記憶と夢の狭間に咲く、幻の夜咲き珈琲林


焙煎:眠りに落ちる月夜のように、静かにゆっくりと焼かれた豆


香り:わずかに花の蜜を帯びた、夜の詩集のような甘さ


味わい:苦みはかすかに、温かく丸みのある静寂の余韻


ひとこと:「声にならない想いも、確かに誰かの胸に届いている。たとえ沈黙のなかでも、心の音は消えません」



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