第四章 森の中を進む
夜の森は、深い静寂に沈んでいた。
薄い霧が足元をさまよい、冷たい空気が肌を刺す。
カインはゆっくりと森の奥へと歩を進めていた。
数日前、父の書斎の本棚からある本を取り出そうとしたとき――ページの隙間から、小さな栞がこぼれ落ちた。
白い花の押し花の下に、かすれた文字で「リリスより」と記されていた。
近くにいた母がその栞を覗き込み、静かに口を開く。
「それは……18年前に花に捧げられた乙女のものよ」
その声はかすかに震え、深い悲しみを帯びていた。
ーーリリスーー
なぜかその名前が頭から離れなかった。
気がつけば足は勝手に動き、花のある森の中へと導かれていた。
そんな彼の前に、ふいに一人の少女が姿を現した。
銀色の長い髪が月明かりに揺れ、深紅の瞳が静かにこちらを見つめている。
カインは息を呑んだ。
まるで夢の中の幻のようなその姿に、心の奥の何かが微かに震えた。
「君は……?」
少女は微かに微笑み、静かに名乗った。
「私はリリス。名前以外は持たない者」
その言葉は淡々としていたが、瞳の奥には深い悲しみと消えぬ意志が宿っていた。
カインは無言のまま、少しだけ距離を縮めた。
霧の夜、二人の運命が静かに交わり始める。
やがて霧が薄れ、夜の冷気が肌を刺す中、カインは言葉少なにリリスの隣を歩き出した。
その表情には、言葉にできない思いが揺らめいていた。
「君が……花に捧げられた乙女、リリスか? でもあれから18年……
君の姿は、どう見ても俺より年下に見える……」
最後の言葉はつぶやきのように漏れた。
カインの問いに、リリスはそっと視線を落とした。
「私は……生贄だった。でも、わからない。気がついたときには何もない空間にいて、ずっと、ひとりでさまよっていたの。
花の内部は永遠の静寂……時間の流れも、死も、なかった」
彼女の声はかすれていたが、不思議と確かな力があった。
「でも、ある日、裂け目のようなものが現れて……そこから、私は戻ってきたの」
その瞬間、カインの眉が微かに動いた。
沈黙が二人を包む。しかしその静けさは不安ではなく、どこか安らぎに近いものだった。
長く孤独だったリリスにとって、それは初めて触れる温もりのようだった。
やがてカインは、しばらくポケットにしまい込んでいた小さな栞をそっと取り出した。
「これは、父が持っていたものだ。君がここにいる理由を、俺も知りたい」
リリスは栞に指を触れ、微かに震えた。
一瞬、身体がぴくりと震える。微かな温もりが指先から全身へと広がっていく。
「これは……私が作ったもの」
リリスの瞳に、ほんのわずかな輝きが差した。
「どうして、あなたがこれを……?」
カインは少し視線を伏せ、深く息を吐いた。
「……俺はカイン・アッシャー。アダムの息子だ」
リリスの目が一瞬、大きく見開かれた。
「アダム様の……息子。……そんなに……経っていたのね」
「父はずっと君のことを忘れていなかった。何も語らないけど――今なら、わかる気がする」
その言葉に、リリスの胸がきゅっと締めつけられた。
自分が捧げられ、誰にも知られずに消えていったと思っていた。
でも、誰かが――たった一人でも、自分のことを覚えてくれていた。
「私……ずっと、ひとりだった。世界から忘れられたような気がしていたの。でも……こんなふうに、誰かと話せること、触れられることが、こんなに温かいなんて……知らなかった」
彼女の声は震えていたが、その奥にかすかな光が宿っていた。
カインはそっとリリスの手を取り、力強く握った。
言葉はなくとも、その手の温もりがすべてを伝えていた。
霧の森の中で、二人はしばらく寄り添って沈黙を共有した。
それは、どんな言葉よりも確かな絆の始まりだった。
やがて、霧が晴れ始める。
森の静けさの中に、微かな――けれど確かな――足音が混じった。
カインはリリスの手を離し、すっと立ち上がる。
その瞳には、鋭い警戒の光が宿っていた。
リリスは不安げに彼を見上げた。
だが、カインはすぐにその表情を緩め、言った。
「……俺は、まだ君のことをよく知らない。けど、一つだけは言える。
必ず君をこの森から連れ出す」
その声には、温かな決意が込められていた。
だが彼はすぐに真剣な顔に戻る。
「ただし、これから先は楽な道じゃない。お互い、油断せずに進むしかない」
リリスは小さくうなずいた。
「……わかった。ありがとう」
その背後、闇の奥で何かが動く気配があった。
足音は重く、ゆっくりと、だが確実にこちらへと迫っている。
静かな森の奥に、新たな嵐の兆しが、忍び寄っていた。