第三章 森で待つ人
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風が木々の間を縫って吹き抜け、深い森の中にひときわ冷たく湿った気配を残していった。
リリスは、息を呑んだままアダムを見つめていた。
彼は黒い外套をまとい、背筋を伸ばしてそこに立っていた。
けれど、その面差しにはこれまで一度も見たことのない、哀しみと戸惑いが滲んでいた。
「アダム様……どうしてここに?」
誰にも告げず森に来たはずだったのに、彼が先に待っていた。
リリスの問いに、アダムはわずかに目を伏せ、風を受けるように首を横に振った。
「君が来ると、思ったから……。
来てほしくはなかった。でも、もしも君がこの森を選ぶなら――止めなければと思っていた」
「止める? どうして? 私が“行く”って決めただけです」
リリスは、かすかに笑った。それは諦めと、自嘲の入り混じった微笑だった。
「……だって、もう決まっているじゃないですか。あなたとエヴァは、互いを選びました。それなら、私が行くのが自然でしょ?」
アダムの喉が、かすかに動いた。
何か言いたげに唇を開きかけたが、それを飲み込むように沈黙する。
「私、あなたたちの間に入りたいなんて思っておりません。ただ……誰かが犠牲にならなきゃいけないなら、私がいいって思ったの。あの人を泣かせるより、私がいなくなるほうがずっといい」
風が、二人の間をすり抜けた。
アダムは顔を上げない。ただ、拳を固く握りしめていた。
「……そんなふうに、何もかも納得して、君は……自分を差し出すつもりなのか?」
「納得なんてしてないです。でも、これが“私の役目”だと思ってます」
リリスは静かに言った。その声音には怒りも涙もなかった。
ただ、受け入れてしまった人間だけが持つ、静かな決意だけがあった。
アダムの肩が、微かに震えた。
「君に……そんなふうに思わせたのは、私のせいか?」
「ちがいます」
リリスはそっと微笑む。その目はまっすぐアダムを見ていたが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「私はずっと、あなたがエヴァを選んだって思ってきました。それを責めるつもりなんてなかった」
「君がいなくなるなんて、考えたこともなかった……本当に」
アダムの声は、苦しげにかすれた。
リリスは、ゆっくりと瞼を伏せた。
「でも、お願いです」
静かに呟くその言葉は、風にさらわれるほど小さかった。
「せめて……時々は思い出して。
私のことなんて、すぐに忘れてしまうかもしれないけれど……でも、ほんの少しだけでいいの」
アダムは言葉を返せなかった。
ただ、彼の目の奥に浮かんだものが、どれだけの悔いを映していたか――リリスは知っていた。
「……忘れるわけがない」
その声は、震えていた。
「君のことは……死ぬまで、ずっと」
そしてリリスは、森をあとにしてまっすぐに帰った。
――そしてその翌朝、
リリス・アツィルトは王宮に使いを出した。
「私が、ラフレアのもとへ向かいます」
そう一筆、署名を添えて。
* * *
王城の前に設けられた、儀式の様子を映し出す大きなクリスタル。
空には紅い月が満ち、映像のなかでは、白い花々に囲まれた巨大な赤い花――ラフレアが、今にもその花弁を開こうとしていた。
群衆は息を呑み、声ひとつ立てず、その異形の花に見入っている。
銀の髪、赤い瞳の少女。
リリス・アツィルトは、何も言わずにその花の前に立っていた。
神聖な台座に、ただ一人。
祈りの声が響き始めた。
聖職者たちが口にする祝詞が風に溶けてゆく。
彼女の胸に、迷いはなかった。
誰かに止めてほしいと願う心も、もう捨てた。
その代わりに残っていたのは、ただひとつの想い。
――私がいなくなっても、どうか、
あなたの中にだけは、生き続けていますように。
それだけが、最後に残された希望だった。
やがて、空に鐘が鳴り響く。
瞬間、天地を裂くような咆哮が森の奥から響きわたり、巨大なラフレアがその花弁をゆっくりと開いた。
リリスの身体は、まるで吸い寄せられるように、紅の中心へと導かれていった。
その瞳は最後まで閉じられることなく、まっすぐ前を見据えたまま――
彼女は、花の中へと、静かに消えていった。
群衆の中。
エヴァは必死に、震える体を支えていた。
傍らのアダムは、まるで石像のように動かない。
その目には、どうしても拭いきれなかった悔恨と――深く、静かな祈りが宿っていた。
それが、すべての終わりだった。
そして――すべての始まりでもあった。
リリスが消えたあと、国は徐々に平穏を取り戻した。人々の記憶からも、いつしか、彼女の名は語られなくなっていった。
ーー人々は忘れていった。
けれど、すべてが終わったわけではない。