第二章 選ばれる者と選ばれない者
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夕暮れ。
伯爵家の食堂には、いつもと変わらぬ香りが漂っていた。
香ばしい肉の匂い、溶けかけたバターの甘さ――
けれど、その空気に馴染む者はいなかった。
銀の燭台が、沈黙を映す鏡のように揺れていた。
「……王城から文が届いた。預言者イエホムが、姿を現したらしい」
ワインを静かに傾けながら、アダムはさらりと言った。
その言葉に、ナイフを持ったままのリリスの手が一瞬止まる。エヴァは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「……預言、ですか」
「うん。今夜、城で緊急の評議が開かれる。ラフレアのことだろうと、皆が噂している」
アダムはワインを一口含んで続ける。
「まったく、静かで豊かな国に、どうしてあんな花を抱えてしまったのか……。奇跡をもたらしてくれても、その力は代償を求める」
「飢えているのなら、また、生贄が……?」
リリスの声は震えていた。エヴァは何も言わなかったが、その眉間には浅く、影が落ちていた。
数日後、エンソーフ国中を震わせるような報が、公式に発せられた。
『生贄の乙女は、四百二夜の月影を浴びし者――銀の髪と、紅の瞳を持つ乙女ただ一人。』
それは、あまりに明確で、あまりに残酷だった。対象は――リリスとエヴァ。王国において、その特徴を持つ者は、彼女たち双子だけだった。
伯爵家の屋敷の空気は一変した。
屋敷内で使用人の足音が小さくなっていく。
リリスは、自室の窓辺で膝を抱えていた。外の庭では小鳥が囀っているけれど、その声さえも遠かった。
私は、いつも“正しすぎる”姉の隣にいて、選ばれないことに慣れていた。なのに――今回だけは、選ばれたくないのに。
扉を叩く音。
「……リリス。入るわよ」
エヴァだった。静かに扉が開き、姉が近寄ってくる。香の移るような落ち着いた歩き方。
「お話があるの。お願い、こっちを向いて」
リリスは頷くのに時間がかかった。
エヴァは、リリスの向かいの椅子に座った。手には、花冠が握られていた。昔、幼かった二人が“お互いを守るお守り”と約束して、よく交わしたものだ。
「私たち、いつも一緒だったわね」
「……ええ」
「リリス。あなたは他の誰よりも純粋で、心が優しい。だから……どちらが生贄に選ばれることがあったとしても、それが国を救うのなら――」
「姉さまは、そうやって、何でも正しいことにしようとするのね」
リリスの声が震えた。目を伏せる彼女の目尻から、涙が一滴、膝に落ちた。
「私だって、生きたい……」
声が震えた。
「死にたくなんて、ない……っ。なのに……どうして姉さまは、そんなに綺麗な顔で私を見られるの?」
涙が頬を伝う。唇を噛んでも、震えは止まらなかった。
「少しくらい……怖がってよ……。お願いだから、嫌がってよ……」
エヴァは静かに目を伏せ、しばしの沈黙の後、そっと言った。
「リリス……。私は、あなたが選ばれることなんて、望んでいない」
その言葉は優しすぎて、余計にリリスの心を削った。
部屋が、静まり返った。
「…私が選ばれた方がいいのかしら?……アダム様もそう思われてるわよね」
「…そんなこと思うような人じゃないわ」
「あなたは気づいていたはずよ。……アダム様が、私より“あなた”を見ていたこと」
エヴァが目を伏せる。
「そんなこと、ないわ」
「あるわよ。ずっと、分かってた……。それでも、私は、何も言えなかった」
リリスの声は、涙に濡れて震えていた。
その奥にあったのは――言葉にできない嫉妬と、愛情と、絶望。
しばらくして、エヴァが立ち上がる。
手にしてた花冠を机の上に置いた。
「ごめんなさい、リリス」
そう言って、姉は静かに部屋を出ていった。
残されたリリスは机に置かれた花冠を抱き寄せ、そしてそのまま膝に落とした。風が吹き込み、わずかに髪が揺れた。
夜風が、背を押した。
音もなく扉を抜け出し、リリスはラフレアの森の前に立っていた。
闇に抱かれるような静けさ。生贄になる者の足音は、誰にも届かない――はずだった。
だが、そこに立っていた男がいた。黒い外套を揺らし、背を向けて。
「遅かったね、リリス。……君が来ると、思っていたよ」