記憶の裂け目
霧が晴れゆく森の奥、リリスは祭壇跡の中央に立っていた。
エヴァとカインはすぐそばにいたが、霧の濃さが三人の距離さえ隔てていた。
古の祭壇に触れかけたとき、突如現れた老神官によって、リリスの名は呼び出され、
世界花――ラフレア――の「飢え」が再び語られた。その一言が、凍りついた記憶の表面をなぞるように、彼女の中で波紋を広げていった。
「……なぜ、ここに一緒にきたの?」
リリスはぽつりと問うた。視線はまっすぐ、エヴァに向けられていた。
「私を……また、捧げに来たの?」
その声に棘はない。けれど、深く沈んだ感情がにじんでいた。
エヴァは言葉を探すように唇を閉ざした後、視線を逸らさず答えた。
「……違う。私は、真実を知りたかったの。あの日、貴女が“どうして生き延びたのか”……」
彼女の声は震えていた。母として、姉として、そしてかつて“自分が選ばれなかった側”として。
「あなたは……私があの場を立ち去ったあと、生きていた。けれど、誰も何も語らなかった。
この森の深部に何があったのか、ずっと――恐ろしくて、訊けなかった」
リリスはその言葉に目を細める。
忘れていたわけではない。だが、思い出そうとするたびに、記憶は霧に包まれたように曖昧になった。
「……私は、誰かに『生かされた』。でも、それが何だったのか、なぜだったのか――今も、はっきりしない」
彼女の手が、石の祭壇のくぼみに触れる。
その瞬間、周囲の霧がふっと色を変えた。灰から蒼へ、蒼から緋色へ――
まるで記憶が、空間そのものに染み出したかのようだった。
「離れろ、リリス!」
カインが駆け寄ろうとしたが、何かに弾かれたように足を止めた。
視界に、花弁のような“影”が漂いはじめる。
それはラフレアそのものではない。けれど、その残滓――霊的な“反響”が、記憶の断片を具現化させていた。
――泣いていた。
――声が届かない。
――それでも、誰かが呼んでいた。
《……あのとき、私を抱きかかえたのは……》
リリスの頭に閃光のような映像が差し込んだ。祭壇に倒れる自分。滴る血。手を伸ばす男の影。そして、その声――
「お前はまだ、生きる役目を終えていない」
その声が、カインのものと重なった気がした。
「カイン……?」
彼は動かなかった。ただ、静かに彼女の名を呼んだ。
「……リリス。もうそこにいるな」
それは命令ではなく、願いだった。
リリスは祭壇からそっと手を離し、霧が晴れゆく中、こちらへ戻ってくる。
エヴァは彼女を抱きしめた。強く、そして悔いを込めるように。
「許して、リリス。私は……あなたを信じきれなかった。
あの夜、あの場所で……あなたが私ではなく“選ばれた”ことが、ただ、苦しかった」
リリスはそれを受け止めた。けれど同時に、その奥にあった“真実”に、心が近づいていくのを感じていた。
そして再び、老神官の声が割って入った。
「選びし乙女は、今一度“世界花”の糧となる運命にある。
お前たちはその輪廻から、決して逃れられぬ」
カインが一歩前に出た。剣を抜かず、静かに、しかし強い目で彼を見据える。
「俺は、そんな運命に従うためにここへ来たんじゃない。
……この世界を、守るためだ。たとえ“選ばれた者”が誰であろうと」
老神官は静かに、しかし不気味に笑った。
「ならば試すがいい。封じられし根が、再び目覚めようとしている。
お前たちの誓いが、本物かどうかを――」
地の底から、再び“根の鼓動”が響いた。
封じられていたラフレアの残滓が、今まさに動き出そうとしていた。
だが今度は、リリスの瞳が揺るがなかった。
18年という歳月は、彼女に“生きる覚悟”を与えていたのだ。