侯爵家の影
霧が薄れ、朝の淡い光が森の木々の間を差し込む頃。リリスはカインの腕に支えられ、ゆっくりと歩みを進めていた。
「ここまでは、何とか…」
彼女の声はまだ弱々しく、震えていたが、どこか凛とした強さもあった。
カインは黙って彼女の歩調に合わせながら、時折、遠くの森の奥を見据え、何かを探るような表情を見せた。
やがて森を抜けると、丘の向こうに大きな石造りの館がその姿を現す。侯爵家の居城だ。
「ここまで来れば安全だ」
カインは短く告げ、扉の前で深く息を吸った。
リリスも肩を正し、覚悟を決めるように頷いた。
館の中は静謐で冷たい空気が漂い、重厚な家具と高い天井が威厳を醸し出していた。
カインは無言で階段を上り、居間へと向かう。
リリスはその背中を見つめながら、胸の奥に重くのしかかる感情を押し込めた。
「ようやく戻ったのね、カイン。夜通し黙って姿を消すなんて、どういうつもり?
お父様も留守のまま…まったく、あなたたちはいつも似た者同士ね」」
そのとき、階下から静かな足音とともに、怒りを含んだ、けれど柔らかな声が響いた。
見下ろすと、そこには咲き誇った花のような年上の女が佇んでいた。
「母上、起きてたのか…」
カインの母、エヴァだった。
彼女はカインの横にいる少女の姿を見とがめると、やがて言葉にならない衝撃でおののいた。
「リリス…」
その名を口にした瞬間、エヴァの瞳から一気に色が引いた。
18年――時の流れは残酷なはずだった。
だが、目の前の少女は、あの日花の下に消えたままの姿で立っていた。
信じがたい光景に、彼女の手がわずかに震える。
口元を引き結び、ぎこちなく微笑もうとしたが、声は震えた。
「リリス……生きていたのね……」
「エヴァ…なの?」
その一言に、リリスは驚きと複雑な思いを抱きながらも、ただ静かに頷いた。
三人の間に張り詰めた空気。
言葉は少ないが、胸の内は嵐のように荒れ狂っていた。
侯爵家の静謐な館に、過去の亡霊が静かに舞い戻った。
それぞれの胸に重くのしかかる「真実」は、やがて新たな裂け目を生むだろう。