『喫茶店ヴェール』へようこそ
「あーッ、あっちーな」
「ねーっどっか入らない?熱中症になっちゃう」
A県Y市、駅前で貰ったプラスチックのうちわを仰ぎながら大通りを歩く男女。ゆだるような暑さで、電光掲示板の気温計は36度を指している。この2人も例外なく、連日続く猛暑に耐えかねていた。
「こんなことなら、家でゲームでもしてりゃよかったなァ」
「行きたいって言ったから着いてったのに…そもそもサイン入りに拘る必要なんてあるの?」
今しがた出てきたデパートでは、あるシリーズ小説の新刊のサイン会が行われていた。根強い人気を誇るシリーズで、こんな猛暑だというのにサインを求める長蛇の列ができていたのだ。
「ウルセェよ。そーいうのも大事なんだよ…おっ、あそこ空いてるじゃん。入ろうぜ」
「『喫茶店ヴェール』?ここ結構通るんだけど初めて意識したわ」
男が指した先には小ぢんまりとした喫茶店があった。クリーム色の壁に、ホオズキの花壇のついた厚みのある窓。赤と黄色のストライプで彩られたひさしがレトロな雰囲気を醸し出している。こども110番のプレートが取り付けられた重厚なドアを押すと、冷房のきいたひんやりとした空気が肌を撫でた。
「いらっしゃいませー、何名様でしょうか?」
「2名で」
「こちらへどうぞ、ご注文がお決まりになりましたらお声かけください」
緑エプロンの女性店員の対応は丁寧だ。氷水の入ったコップとおしぼりがテーブルに置かれた。
「結構いい感じだな」
「ね。こんな繁華街にあって人がいないのが不思議なくらい。…変な店じゃないよね?」
女は最後だけ小声でそう言った。男は黙ってまわりを見渡す。10人も座れれば良いぐらいの小さな空間には、店主の趣味なのか花が沢山生けられており、暖色のライトが蘭やキキョウの妖艶な色をより引き立たせていた。美術系の専門学校通いで陶磁器の素養があった女は、座っていた席の窓際の花瓶の金襴手をまじまじと見ていた。
「これ。伊万里焼じゃない?」
「何だっけそれ、名前だけ知ってるわ。こんな模様なん?」
「うん。古伊万里じゃ…流石にないか」
「でも趣味いいよな。」
『お褒めに預かり誠にありがとうございます』
突然上の方から声がした。2人が顔を上げ、そして同時に「ヒュッ」と息を漏らした。
『ご注文はお決まりでしょうか?』
声をかけたその姿。白の長袖のシャツに黒のズボンを履き、手袋をはめているため首から下に肌の露出がない。先程応対した女性店員と同じ色の緑エプロンのポケモンには、いかにも手作りな「マスター」と書かれたタグがかかっている。
『本日のおすすめはアイスコーヒーとバスクチーズケーキのセットでございます。先日いい豆が入りましてね。キレのあるコーヒーにまろやかなチーズの甘みを合わせるのはシンプルですがやはりこの暑さでは非常に…お客さま?』
「マスター」らしき長身の男が喋り続けている間にも、2人は呆然としていた。「マスター」が2人の様子を見て呼びかけると、女の方ははっとして慌てた様子で、
「は、あ、はい!じゃあ、それ2つで!」
『ミルクはお入れしますか?』
「2つともおねねがいしましゅ!」
『かしこまりました。』
女はカウンターの奥に歩いて行く「マスター」の姿を見て、そして未だ呆然としている男の肩を揺さぶった。
「ねえ、あれ何…?」
「意味わかんねぇ…」
2人がカウンターの方を向く。厨房の方で肩を揺らし、機嫌の良さそうに豆を挽いている男。その頭には、真っ黒なフルフェイスヘルメットが被せられていた。
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