第六百六十一話 飛んで火に入る
「……あ?」
怪訝な顔をして、芦名は振り返る。まだ終わらないのかと言いたげな、気怠さを纏った表情だ。
俺は昔から、自分にしかできない事を探し続けていた。目立ちたいから? そんな理由ではない。
ただ、自分という存在がいつもあやふやな気がしてならなかった。ふと気づくと、自分を見下ろすような時が多々あった。
故に俺は、自分のアイデンティティを凡庸と言われるのが気に入らない。
特段それが俺の怒りのスイッチという訳ではない。一瞬怒りがこみ上げてきても、一瞬で終わってしまうようなものだ。
そんな、他愛のない、ただの人間としての、俺自身の少し嫌な部分。
この日、初めてこのくだらない性質が役に立った。
「そう言うのなら、分かった」
ポツリと、そう呟く。
俺の様子が変わったと感じていた芦名は、眉根を曲げてジッと俺を見つめた。
沈黙が続く。芦名はきっと、俺が放つ言葉をただ待っているのだろう。
警戒半分、興味半分と言ったところだろうか。彼の灰色の瞳孔は、薄ぼんやりとした光を輪状に浮かべてこちらへ未だ視線を注ぎ続ける。
彼を一瞥した後、息も吸わずに俺は次の瞬間口を開いた。
「あの人の名前を呼ぶ」
あの人、というのは言うまでもないだろう。
その言葉を聞くと同時、芦名の目は僅かの間見開かれた。だが、少しの間もしない内に彼の瞼は瞳孔の半分以上を覆い、通常の気怠げな目に戻る。いや、よく見てみると通常よりも瞼が下がっている。
芦名は落胆していた。まるでクリスマスのプレゼントが国語辞典だった時の子供のように、酷く。
「何を言い出すかと思えば……お前、まだそんなハッタリが通用すると思ってんのか? いいか、俺にはもう分かってんだよ。お前が俺の言葉を完全に信用しているってな」
「……」
「お前にとっちゃ、アレの名前を呼ぶ呼ばないは自殺するしないの二択だ。だったら自殺なんざしたくねえだろ? となると、お前は絶対に呼べないし、呼ばない。お前よりも年下のガキにすら分かるような単純明快な理論だろ?」
俺のやろうとしている事を荒唐無稽で何も考えられていないと思っているのか、芦名の言葉は挑発的だ。
挑発的ではあるが、間違ってはいない。こんな事は、自殺以外の何物でも無い。正に飛んで火に入る夏の虫という奴だ。
だが。
「自殺するつもりだ、と言ったら?」
「……は?」
芦名の瞳孔は見開かれた。しかし、そこに光は無かった。




