第六百五十五話 星空のマント
「____」
その景色に、何が起きたと驚愕と疑問が俺の内を駆け巡ろうとする。
だが、ゾンビにも俺にも、それを認識し考える時間など与えられてはいなかった。
「『無限』」
聴き慣れない声が耳元に飛んできた瞬間、夜空がその星々を拡大する。いや、違う。
夜空の闇が唸る風のように沸き起こり、ゾンビらの頭にまで迫る。それに伴って星々も迫ってきていた。
夜空が、落ちてきたのだ。
「ヴ____」
どのゾンビか知らないが呻き声が一時停止されたかのように止まった。闇が一斉にゾンビらの頭を包んだ瞬間だった。死体ながらも動かしていた腕もダランと垂れ下がり、足にも最早踏ん張っている様相は無い。宙吊りにされた人形の様に、どのゾンビからも動く気配は消えていた。
それに合わせたのか、夜空にも落ちる気配はもう感じられない。
幸いにも転んで地べたに身を投げ出していたために、ゾンビ達と同じ様にはならずにすんだ。触れてはいけない、と俺の本能が叫んでいるのだ。
「……」
目の前の『夜空』に対して警戒心を抱きながらも、俺の心の大部分は今見た光景を受け取りきれずにいた。
一体何が起きたんだ? ゾンビは死んだのか? いや、もうすでに死んでいる物だけど……。いやそうではなくて。そもそも俺の目の前に浮かんでいるこれはなんだ? さっき、誰かの声が聞こえてきた様な気も……。
「おーい。そこのお前、生きてるか?」
不意に、声が聞こえてきた。それと共に夜空が霧消し、元の木々と青空と太陽に景色が戻った。
ゾンビがドサドサと次々の地べたに倒れ、その全てが首から上を失くしている。
「っ……!」
夜空に包まれた頭だけが消え去っているのか……。
「おい」
「うわっ⁉︎」
頭上からヌッ、とこちらを覗き込む様に顔が現れ、俺は思わず飛び退いてしまった。
だが後方に行こうとした身体はすぐ後ろにあった障害物に少しぶつかると動きを止めてしまう。
何事かと後ろを振り向くと、そこには足があった。
ゾンビの足と違って、健康な肌色。いや、普通と比べると少し血色が悪いくらいだろうか。加えて灰色のズボンらしき物も着ている。パッと見た雰囲気では、スーツに似た固さが感じられた。
これらからして、俺が目にしている物が何なのかは明白だった。
「……人……」
ゆっくりと、視線を上に上げていく。足下から腰、腹、胸へと移り、俺の視線は彼の顔で止まった。
今、俺をのぞいていた顔だ。
目元にうっすら隈があり、艶の薄い黒髪と色白気味の肌はとても健康的とは言えなかった。
光の宿っていない目が、こちらをジッと見下ろしてくる。まるで獲物を見つめる狩人か、蛙を睨む蛇のようだ。彼の目を見て、俺は一人身震いしていたのだが。
「怪我は無いか?」
「えっ、あっはい……」
以外にも第一声は、ごく一般的な物だった。というより、こちらを心配してくれている。
……もしかしてあんまり怖くない人なのか? よくよく見回してみたら、この人と俺以外この場にはいない。
となると……。
「あの……さっきのって、あなたが……?」
「さっきの?」
「ほら、あの夜空みたいな、ゾンビの頭を持っていった……」
「ああ、『無限』か」
無限? 何故いきなりそんな単語を?
この人は合点が言ったようだが、逆に俺は分からなくなってしまった。
「その、無限って……?」
「俺のスキルだ。何でも飲み込んで何でも作れる、癪には障るが俺の生命線だ」
なるほど、スキルか。
そう合点が行きかけたところで、俺はピクリと止まった。
……いやしかし、そう簡単に納得して良い物なのだろうか。
何でも飲み込んで何でも作れる……? 確かにスキルなどと言う現実にはない力なら、あり得ないとは言い切れないだろう。
しかしアセントやダリングおじさん、ひいてはギルドに所属する冒険者がそんな力を持っていただろうか。
今し方見たあの夜空は、一瞬にして脅威を消し去ってしまった。あんな力を誰でも持っていたら、そもそもの話モンスターになど引けを取らないだろう。
次々と、彼と彼のスキルに疑念が沸き始めていた。ただの親切な通りすがりの人、というには奇妙すぎる。
そうして疑いの目で彼をみていると、俺はふとあることに気がついた。
顔立ちが、どこかで見たようであった。前の世界では散々に見た、この世界に来てから見ることのなくなった顔立ちだ。
「……」
思案し、数秒経った。
もしや、と心の中で一つの考えが電流のように走る。
俺は彼の方にバッと顔を向けた。一瞬、彼がたじろぐ。
俺の目には疑念よりも、期待が満ち始めていた。
「……あ、あの。名前を伺っても?」
彼は目をパチクリとさせたが、何か合点が行ったように一層目を見開かせると、こちらを見据え返した。
「東條芦名だ。お前の名前は?」
彼の後ろで、木々がざわめく。俺の忙しない胸の内が風となって靡いているようだった。
青空を背にする彼の姿は、下から見上げる俺からは影に満ちている。それが、何かを予感させる気がした。
「……吉崎、紘也」




