第六百十七話 淡き願い
視界が、歪む。
大袈裟に言ったわけでも例えて言ったわけでもなく、私の目に映る光景全ての輪郭が、溶け出し、混ざり合っていた。
それが恐慌による一時的な混乱状態などとは、知り用もない。
呼吸が乱れ、顔中から汗が吹き出始める。だと言うのに血の気は引くばかりで、どんどんと思考が鈍っていく。
____私のせいなのか? 私が、スキルを封じられることも知らずこの地に乗り込んで、あっけなく無力化され、手籠にされ、民にされて、コウヤは対抗する相手がいなくなった。
コウキも、タケルもヘイハチも、カスミもミヤビもサトルもネヅもエヴァーもカゲンも……芦名も、私が全員殺してしまった。
……明白じゃないか、私のせいだ。私がこの最後の王に立ち向かえる唯一の人間だったと言うのに、その権利を軽々と手放してしまった。こんな風に、いとも容易く、少数の犠牲を伴うだけでこいつの理想が叶ってしまうようにしてしまったんだ。
「……」
視界の歪みが、徐々に激しくなっていく。その一方で、混沌とする光景と相反するように私の思考は単調な物へと変わりつつあった。
もう、誰もこの王を止めることはできない。もう、私はこれから目の前で起こるであろうことを、ただ指をくわえて眺め続けるしかない。
さっきからずっと頭痛も吐き気も続いて、考えるにしてもそれが私にとっての精一杯だった。
いつまで経っても、王の姿だけが歪まない。一番見たく無いはずなのに、どんどんと意味のない一枚の灰色の絵のようになっていく視界の中で、彼だけがそれを背景として佇んでいた。
____怖い。
感情が溢れ出そうになる。助けを求めたくなった。だが、助けはどこにもない。
叫び声を上げたくなった。止めるものはどこにもいない。恐らく王への恐怖を示すことになる。どうでもいい。
襲いくる恐怖に、私はうずくまった。身体を覆う白い布が私の頭をも覆い、暗闇が目の前に飛び込んでくる。恐怖を忘れるために、私は恐怖を呼び起こす叫びを上げようとした。
だが、その時だった。
カツン、と不意に地面から音が鳴った。硬い物同士がぶつかり合うと鳴り響く、あの澄んだ一音だ。
「……?」
口元にまで登っていた叫びが、その音に乱され掻き消える。
何かが、地面に落ちた。音の方向は丁度私の頭の下からだった。だが視界が歪んでいるせいで、何が地面に落ちたのかが分からない。
私は戸惑うそぶりも見せずに、頭を強く掴んでいた手をそっと離して、下へと伸ばした。
片手で触れるとそれはヒヤリとした冷たさを帯びて私の手のひらに角ばった様子を見せず収まった。
気づかぬうちに私はもう一つの手も頭から離し、両の手でそれを掬い上げた。
丸く、冷たい。手のひらの八分の一にも満たぬ大きさで、すっぽりと私の手の内にそれは収まった。
僅かに思考の余裕が生まれた脳内で、この手触りを思い出した。
「……芦名の、お守り」
それに気づくと同時、歪んだ視界が元の様相を取り戻し始めた。




