第四百二十二話 現実さ故の残忍さ
倒れる弟に向かって身体はかがみ、その胴体からナイフをズルリと引き抜く。
それに伴い、血溜まりがじんわりと広がっていったかと思うと、血糊で真っ赤に染まったナイフを彼の洋服へと当て、私は何度も擦り、ナイフにこびりつく赤を拭っていた。
その様子に思わず吐き気を覚えてしまったが、意識だけの状態では吐くものもない。
目を瞑ることも視線を逸らすことも許されず、私は目の前の機械的に動く身体と転がる死体を目に焼き付けるばかりだった。
……侮っていた。スプラッター映画だなんて言ったが……作り物と一緒にできるほど現実さが足りないわけではなかった。いや、むしろ、私がいつも戦っている時よりも……遥かに現実的だった。
超スピードでも、何でもない。ただナイフが振り下ろされ、肉を裂き、単純な殺人方法で人が倒れて死ぬ。
当たり前のように血は飛ぶし、死際の表情も、混乱や恐怖に引きつっていた。それが、怖くない……?
そんなわけあるか。何の抵抗もせず、何一つ戦う理由も持ち合わせていない人間の死に際を見て、恐怖に襲われる人間がいないはずがいない。
仲間の死は、悲しみに満ちるものだが……今の私は、ただ目の前で死んで行く人を見て、視界が歪まんばかりの光景に怯えるばかりだった。
芦名が私にどんな感覚を味合わせようとしているのか、それをはっきりと理解した。
血が手にこびりつきベタベタと固まっていく感覚とナイフが布と擦れるたびに鳴らす金属音が私に不快に感じるほどに伝わってくる。
最早、私は疲労しきっていた。肉体の疲労では決して味合わなかった程の、重く、のしかかるような感覚が精神へ止めどなく押し寄せてくる。
……しかし、私は、その場で何か奇妙な感覚を覚えていた。
……何か……さっきと比べて、時間が長くなっているような……心が疲れると、時間の感覚も狂うのか……?
……いや、違うぞ。確かに長い。先程と比べて遥かに時間が長い。
あの母親を斬り付けてしまったあの時、あの瞬間で芦名の記憶の追体験はとうに終わっていた。
あの時は、せいぜい一分と立っていなかったのに……かれこれ今は三分は経っている……。
まさか、反動か? 芦名に与えたダメージ分だけ、ここにいる時間も長いのか……?
……芦名の肉体は記憶から組成され、それを壊すから私に記憶が流れてくると、芦名は言っていた。
だとすれば、私の推理は十分正しいだろう……。だとしたら、一体ここには後何分いれば……。
……。
……!
私は口に出せないながらも、心の中で、気づき、叫び声を上げていた。
後何分入ればいいか……それは確かに重要なことだった。それに伴って意識を失う時間が増えるかもしれないのだから。
だが、そこではない。一番重要なのはそこではない。
もっと、気づかなければ、覚悟しなければいけないことがあった。芦名は、弟を殺した後、昼に帰ってきた父親を____
「ただいまー」
その瞬間、私の背筋は一瞬にして凍った。背骨どころか、それに連なって脳すらも、凍結されてしまった。
始まる……今から、芦名が、あの父親を……殺してしまう。もしそうなったら、私は……!