第四百一話 無知の恐怖
「なっ……⁉︎」
その光景に、私とイレティナは目を見張って固まってしまっていた。
芦名の体に突き刺さった腕が緩やかに抜かれていき、赤く染まった指先がその姿を覗かせると、重力に逆らえずに血を滴らせダランと垂れる。
呆然と、理解もできずに彼の姿を見ていた。理解出来ないことが、恐ろしかった。
しかし、芦名が一瞬よろめいたかと思った次の瞬間、彼は力なく身体を地面へと投げ出し、身動き一つ取らなくなってしまった。それと同時に、私の感じていた恐怖は一気に身を引く。
「……はっ! はあ……はあ……」
身体中を縛り付けられているかのような重圧が消え失せ、突き出し震えていた腕は重力に引っ張られ、いつもよりも重く感じていた。
呼吸も忘れていたらしく、肺が苦しい。荒い息が治らない。
今にも地面に倒れ伏してしまいそうだったが、倒れる地面の先には芦名の血が流れていたので、倒れるに倒れられなかった。僅かに残った気力を足腰へと集中させ、なんとか身体を完全に無防備にする事は抑えられた。
膝に手を当て、脱力が抑えきれない上半身を下半身で支える。
過呼吸に近い呼吸が収まらなかったが、十数秒経ってやっと多少呼吸が安定しだし、顔を上げられるようになった。
「……二人とも、落ち着いたかしら?」
「……うん」
「はい……」
芦名の体内から抜け出したらしく、顔を上げた目の前にはウンディーネが立っていた。
横から聞こえてきた疲れ気味な声のする方向に目を向けると、私と同じように疲弊したイレティナの姿が見える。
……今、目の前で起きた事は……一体なんだったんだ? 芦名が、自分の身体を自分で傷つけた……?
何故傷つけたんだ? 『無限』にはまだ隠された能力があるのか? だとしたら……その能力とは、一体……。
「……ちょっとフレイ。何か考えているみたいだけど、取り敢えずそれは置いておきましょう」
「ですが、もし芦名が何かしようとしているなら……」
「今のところ私達に危害は無さそうよ。それに、いくら考えても憶測に過ぎない物を気にしてもしょうがないわ」
淡々と語るウンディーネに、私は何も返せずに少し目を伏せてしまう。
……ウンディーネの言う通りだとは、頭では分かっている。……しかし、説明の仕様のない不安が、心臓を掴んで離さない。何かが起こっていると、私は今、直感で思っている。だが……
「……」
「……?」
伏目のまま、私はウンディーネの顔をチラリと見た。私の行動にウンディーネは不思議そうな顔をしていたが、反応を返すまもなく私は再び目を逸らした。
二人に、直感でまずいと思っているなんて説明したとして、信用してもらえるだろうか……。
……信用してもらえる気もする。だが、だからと言って私が納得行くわけではない。仮に二人が私の意思に同意してくれたからと言って、それ以上どうすることもできない……。
サツキのためにも、私が今一番するべき事は……。
私は、伏せていた顔をおもむろに上げ、ウンディーネとイレティナの顔を交互に見た。
そうして、一度頷き。
「……分かりました。私達が今するべき事は、現状の把握ですね。まずは、芦名の状態から調べましょう」